京都へおかえりやす。正論だ

/ 12月 27, 2009/ オピニオン/ 0 comments

亀井金融相が27日、皇居で24日に行われた宮中昼食会の際の天皇陛下との会話の内容をテレビで明かすのは極めて異例で、番組終了後には記者団に「天皇陛下は『私は京都は好きです』と言っておられたが、広島は好きですとまでは言っておられないが」とも語った。
 閣僚が所管事項を天皇に口頭で報告する「内奏」の場合だと、1973年に昭和天皇のお言葉を漏らした増原恵吉防衛長官(当時)が、天皇の政治利用だとの批判を浴び、辞任に追い込まれた例がある。(2009年12月28日01時34分 読売新聞)

皇居移転については、恐れながら私も天皇は京都にお住まいなられる方が相応しいと思っている。
歴史的にも初期の一時期を除き天皇の国のまつりごとと武士が為政者となって政治の中心が移ったのとは分離されていた。幕府が変わったからといってお住まいがその都度移られたことはないし、皇居となっている江戸城は幕府であり政庁だから武士のシンボルに天皇がおられることは王政復古、大政奉還の大儀であり臨時のものであった。名目上の首都(天皇のいる京)は京都であり江戸は首都ではなかった。明治政府によってお移りになられ江戸が東京(首都)と改名されたのが初めてだ。政治から離れた静かな御所でお暮らしいただく方がいい。政治と天皇の分離の意味で、親善・文化的行事に京都・奈良の方が適している。
ヨーロッパでも日本同様に立憲君主制の国家ではオランダ王国は憲法上の首都はアムステルダムだが、政治の中心は王宮や国会の所在地であるデン・ハーグ。グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(通称:イギリス)はロンドンとバッキンガム、スウェーデン王国、デンマーク王国、ノルウェー王国、ベルギー王国、スペインなど。
遷都の気運
幕末の京都は、大政奉還や王政復古により、政治の中心地となっていったが、京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行なうにあたって遷都を行おうという声があがっていた。しかし、この時点では江戸の情勢が未だ安定しておらず、主に大坂がその地として意識されていた。
その後遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、世界の大都市のひとつであり、帝都にしなければ市民が離散してさびれてしまう江戸のほうに遷都すべきだとする前島密による「江戸遷都論」が大久保利通に届けられた。
東西両京
保守派や京都市民への配慮から、東京奠都(天皇が遷る)を明確にはしなかったものの、東西両都の方針通り東京が誕生した。明治元年(1868年)4月11日には江戸城が無傷で開城されるなど、注目が大坂から江戸に移っていった。天皇は同年8月27日、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行ない、同年9月20日に京都を出発して、東京に行幸した(東幸)。
東幸に続いて京都への還幸となったが、この還幸にあたって三条は独り賛成せず、今すぐに京都に戻れば関東の人心を失するとして早々の還幸を牽制する意見書を提出した。三条はこの中で、天皇に数千年も親しく恵みを受けてきた京都・大坂の人々の動揺と、徳川氏に300年恩恵を受けてきた関東の人々に恨みや失望を与えることの利害得失を比べ、関東の人心に京都・大坂の盛衰や国の興廃がかかっているのであり、京都・大坂を失っても地勢に優れる東京を失わなければ天下を失うことはないと述べた。
三条の意見により還幸の日が延びていたが、先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を行なう必要があるという岩倉の意見もあり、明治元年(1868年)12月8日、天皇はひとまず京都に還幸し同年12月22日に到着した。この還幸にあたり、東京市民に不安を与えないよう再び東京に行幸することと、旧本丸跡に宮殿を造営することが発表された。
首都機能の移転
京都では京都御所を後に残して、明治4年(1871年)までに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃され、東京への首都機能の移転が行われた。
京都還幸の延期
こうして京都を都として残す形をとりつつ、江戸も東京として新たに都とされ、政治の中心地が東京となった江戸の地に再び戻ることとなった。京都から見て東の京(みやこ)の意である。しかし遷都が公式に宣言されたことは一度もなく、法制度上は東京と京都(平安京)の両京制であるとする議論が一部に存在する。
「京都」の由来
東アジアでは古来、歴史的に「天子の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗(司馬師)の諱である「師」の文字を避けて京都(けいと)と言うようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。
日本でも飛鳥京や恭仁京などが京都とも呼ばれた。平安京は当初から京都とも呼ばれたが、定着したのは平安後期からで、京や京師という呼び名も併用されていた。その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)が都市の固有名詞のようになり、定着していった。つまり首都を京都という。
2009年(平成21年)現在、日本の首都を直接定める現行法令は存在しない。そこで、旧法、現行法及び慣習法の読み方によって、東京(東京都)を唯一の首都と解さない論者もいる。
京都の人たちは今でも「天皇は東京に行幸中(旅行中)どす」との認識があります。冗談っぽく(^^)
都と府
府(都道府県): 普通地方公共団体の一つ。昭和初期までは東京府・京都府・大阪府の3つがあり三府といわれた。明治初期には、一度奈良府が設置されるも、版籍奉還や廃藩置県・府県統合により、堺県に合併されたり、堺県を含む大阪府に合併されて「大阪府の大和地域」にされるなどした。しかし、1887年(明治20年)には大阪府より分割され、奈良県が再設置された。かつて首都の置かれた地域は「県」ではなく「府」とされたため、奈良県でも、東京府、京都府、大阪府と並ぶ「奈良府」への改称運動が起こったが実現せず、存在感が薄かった。
 さらに、廃藩置県以前には期間は短いが天皇がおられた紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町)、福原宮(神戸市)もあった。
1943年(昭和18年)に東京が「都」となり、現在は京都と大阪が府と称する。成立当時は国の重要な場所としてこの名称になったが、現在は県の組織と変わりはない。東の京都が東京都と考える。
広島はよくわからない。
日清戦争中の1894年には、広島県広島市に明治天皇が行幸して、大本営も移った。帝国議会も開催されるなど、一時的に首都機能が移転し、臨時首都の様相を呈した。
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