日中歴史共同研究の最終会合



南京虐殺など認識の溝埋まらず、日中歴史共同研究
2009年12月25日 18:22 AFP発信地:東京

【12月25日 AFP】2006年から行われてきた日中歴史共同研究の最終会合となる第4回全体会合が24日、都内で開かれたが、懸案の「南京大虐殺(Nanjing Massacre)」の犠牲者数をめぐる認識の隔たりは最後まで解消できなかった。

会合後の共同記者会見で、中国側座長の歩平(Bu Ping)社会科学院近代史研究所長は、1937年の南京(Nanjing)事件における民間人犠牲者について、南京軍事法廷で30万人以上、極東国際軍事裁判(東京裁判)で20万人以上とした明確な記録があると述べた。

一方、日本側座長の北岡伸一(Shinichi Kitaoka)東大教授は、「虐殺があり、基本的な責任が日本側にあった」ことは日本側も認めているとしつつ、「裁判記録の信ぴょう性も問う必要がある」と反論。また、多くの論点で日中双方の歴史認識に相違が残っていることも明らかにした。
共同研究は、小泉純一郎(Junichiro Koizumi
)首相(当時)の靖国神社参拝で悪化した日中関係の改善を目標に、安倍晋三(Shinzo Abe)首相(当時)と胡錦濤(Hu Jintao)国家主席の合意で始まり、両国の有識者が3年をかけて「古代・中近世史」と「近現代史」について検討してきた。

産経IZAでは
2009/12/25 09:05

論文発表に先立ちまとめられた報告書では論文について「執筆者本人の認識であり、双方が同意した共通認識はない」と説明。その上で共同研究の成果について「率直に意見交換し、認識の差をできる限り縮め、相互理解の第一歩を踏み出した」と評価した。

日本側座長の北岡伸一東大教授は外務省で開いた記者会見で「一定の前進があったが、いろいろ問題も残っているので第2期をやる必要があるという認識で一致している」と述べ、共同研究を継続する考えを表明した。戦後史の公表を見送ることについては「中国側からもっとゆっくりやってほしいと言われ、受け入れた」と述べた。

靖国神社参拝や南京虐殺などの歴史認識を日中間で検討する場があればと望んでいたが、安倍晋三元首相と胡錦濤国家主席が合意して日中の歴史問題を両国の有識者が3年をかけて検討していたことを実は知らなかった。まるっきり中国が一方的に非難ばかりで応じないよりは、少しは良い方向に進んでいたことは安倍氏の尽力だ。

東京裁判自体が戦勝国側の不当な裁判であり、民間人とするのも便衣兵(一般人の服を着た見分けのつかない兵)が含まれており、20万人以上とする当時の中国側証言には、日本の研究者が当時の南京の人口が20万人ほどであったのでどうみても事実とは異なることを調べあげているが、民主党政権に替わり、今後継続されるのかが心配だ。

少なくとも靖国神社参拝は専門であるので英霊の慰霊なのだからA級戦犯が戦争への罪という他に類を見ない東京裁判だけの非公式な単なる区分であり犯罪の等級ではないことを説明しておられるはずだ。それでも理解を得られないのだろうか。

以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったのだが、1985年、中曽根元首相内閣の際に首相として初めて8月15日に公式参拝をしたことで靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化につとめたので反中派であったかのような印象があった。当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曾根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としており、このことからも在任当時反中派であったとは言い難い。

北岡 伸一氏

日本の政治学者・歴史学者、東京大学大学院法学政治学研究科教授、元日本政府国連代表部大使。専門は、日本政治外交史。
2004年4月から2006年9月まで日本政府国連代表部次席大使としてニューヨークに赴任。

長期的な外交戦略検討のために設置された小泉純一郎首相の私的諮問機関「対外関係タスクフォース」委員(2001年9月-02年11月)

外務省改革の一環として、過去の外交政策の政策評価を行なうため設置された「外交政策評価パネル」座長(2002年8月-03年8月)

日本版NSC設置検討のために設置された「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」委員(2006年11月-07年2月)
日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」有識者委員(2007年4月-08年8月)、福田康夫首相の私的勉強会「外交政策勉強会」委員(2007年12月-08年9月)などを歴任した。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

【昭和正論座】京都産業大教授・若泉敬 昭和52年2月5日掲載 (4/4ページ)
産経 2009.12.26 07:35

最後に強調しておきたいことは、政争は水際まで、外交・安全保障を政争の具に供さないという真の超党派国民外交を確立することの重要性である。相手を選ぶことができない国際政治の舞台において、無謀な実験や試行錯誤は許されないのである。再開された国会において、各政党・政治家が久しく望まれながら実現をみなかった超党派平和外交の伝統を確立するための真摯(しんし)な努力を行うことを強く求めたい。また、このことに自らの存在理由がかかっている外務省・外交官が、大いに奮起して積極的なイニシアチブをとり、啓発的発言を行うことを切に期待したい。(わかいずみ けい)

【視点】政治主導が外交に持ち込まれると、思わぬ落とし穴にはまる危険がある。政治家は当面の選挙対策や国会対策を含む権力闘争に忙しく、ときに国益を無視して私益に走ることがある。有力政治家による東南アジア外交には、対外援助にからむ利権窓口としての性格があるから要注意だ。

とくに、戦後の日中関係では公式の外交ルートが膠着(こうちゃく)状態に陥ると、中国側が日本の政治家を使って外交当局に圧力をかけようとする傾向がある。若泉敬氏は日中平和友好条約交渉の過程でも、野党党首の関与を指摘してその異常性を指摘している。官僚悪玉論が行き過ぎると、そうした傾向はますます強くなる。(湯)

1985年、ソ連のゴルバチョフが共産党による一党独裁制が続く中で言論の弾圧や思想、信条の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み硬直化した同国を立て直すために「ペレストロイカ」を表明、同国の民主化を進める中、同じく1949年の建国以来長年共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集めた。

チベットや民主化に同情的だった胡耀邦総書記が死去すると、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは全国で激化して1989年の第二次天安門事件が起きた。江沢民ら保守派が行った武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺すなど)し、多数の死傷者が出た事件から先進国の反発を受けて中共は孤立化したが、2002年、後を継いだ現総書記の胡錦涛も胡耀邦に連なる共青団出身である。胡錦濤の統治によって、中国では穏健な政治改革と、過熱する経済成長を統制する政策が推進されている。

中共は冷戦の政治情勢・経済力・軍事力は凌ぐまでに成長し、北京五輪、来年の上海万博と最早途上国から実質的には先進国の仲間入りをし、大国としてその発言力の大きさといつまでも途上国では国際的に阻害され大人にならなければ通用しない。保守派の反発が強かった胡耀邦総書記当時と比べ、そのキャリアの多くを中国の裕福な沿岸地域でなく貧しい内陸地域(貴州省党委員会書記・チベット自治区党委員会書記)で積んだ。その「これといって目立つ特徴がないのが胡錦濤の最大の特徴」とされる胡錦濤主席は、自身と同じ共青団の出身である李克強を国家副主席にすることができず、上海幇の推す次期候補とされる習近平副首相が就任するなど、上海幇の影響力は依然として残っている。それでも、2007年の中国共産党第17回大会で胡錦濤の勢力が躍進したため、これから胡錦濤の権力は強くなっていくという見方も出ている。

中国が経済的に緊密度が増した日本との関係を重視し理解を示せば、華夷秩序と事大主義(強い国に従い地位が弱い国は侮蔑する)が残っている北朝鮮・韓国はその大国中共の後ろ盾を失えば、強硬な従軍慰安婦や強制連行などの捏造による戦争非難は弱まるのではないか。

メカAG)さんの投稿

http://mechag.asks.jp/187345.html
を転載させていただいた。

チャーチル「日本にこれほどの力があったのならもっと早くいってほしかった。日本人は外交を知らない」
90 :WiLL2005年8月号『繁栄のヒント』日下公人:2006/08/07(月) 04:47:57 ID:2KPrbgCs

チャーチルの『第二次世界大戦回顧録』のなかにこんなことが書いてある。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手を捩じ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、いままで以上の要求をしろという。無理を承知で要求してみると、今度は、笑みを浮かべていた日本人はまったく別の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことをいうとは、あなたは話の分からない人だ。ことここにいたっては、刺し違えるしかない」といって突っかかってくる。

これは、昭和十六(一九四一)年十二月十日、マレー半島クァンタンの沖合いで、イギリスが誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二隻が日本軍によって撃沈されたときの日記だが、チャーチルは、これによってイギリスはシンガポールを失い、インドでも大英帝国の威信を失うのではないかと心配しながら書いている。

チャーチルは、「日本にこれほどの力があったのならもっと早くいってほしかった。日本人は外交を知らない」と書いている。つまり、日本は相手に礼儀を尽くしているだけで外交をしていない、外交はかけひきのゲームであって誠心誠意では困る、ということらしい。

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