戦争突入のプロセス 張作霖爆殺事件

/ 12月 8, 2009/ トピックス/ 0 comments

NHK。最近そのドキュメンタリーの陰湿さ醜さは留まるところを知らない。以前放送された「テープが発見された」のまた同様シリーズだ。新聞のマスコミ責任を臭わせながら、その裏側には中立を装い最終的には日本軍部批判でアメリカ側史観で終結するのが常套手段だ。そこからなぜ戦争を避けられなかったのかはすっ飛ばして真珠湾から始まる海軍批判へ結びつける。あまりにも多面的で事実を追求しようとしない。GHQ占領から脱しきれない精神病的放送局だ。不景気な年末に不安を煽るのが好きなNHKのアサヒ的思考は救いようがない。5分で済むものを例のよってインタビューや対談がほとんどで1時間もだらだらと観るに値しないドキュメンタリーだったのでほとんど観なかった。

同様な主旨を東條由布子さんが語られていますので付記します。


【東條由布子】大東亜戦争開戦を振り返る[桜H21/12/9]


【ドミトリー・プロホロフ】張作霖爆殺事件はソ連特務機関の謀略であった[桜H21/12/7]

12月2日に 都内で記者会見を行った際の模様をお送りします。(チャンネル桜)

リアルタイムでは観なかったが、昨夜のチャンネル桜で張作霖事件について「張作霖爆殺事件」はソ連特務機関による謀略工作で あったと主張してきたロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフ氏の貴重な番組があったようだ。

歴史作家ドミトリー・プロホロフ氏のコメント

私は公文書館の資料に基づいて本を書いたわけではありません。2000年以降、ロシアでは公文書館へのアクセスがほとんど許可されていません。ですから、他の回想的資料、つまり間接的に事件に関与した参加者たちの証言資料に基づき書きました。
それによると、2回にわたる張作霖暗殺計画、2回目は成功裡に終わりましたが、ソビエト側の諜報機関は非常に上手く工作して、あたかも日本の特務機関によってこの事件が起こされたように見せるために計画されていました。

日本を悪者にしたプロセスは、他ならぬ東京裁判です。それはソ連だけでなく、勝者の側の見方です。東京裁判でウソの情報が使われたのは有名でありますし、ラーゲリ等で裁判のリハーサル訓練で受けた、準備された証人がいたことも確かです。

石平氏
「ソ連の究極の目的いは何だったんでしょうか。推測では国際的な謀略で日本つぶしではなかったかと思うのですが。」
コミンテルンはブハーリンのモットーによる政策により、日本共産党に天皇制を潰し、ブルジョワ革命に向けて動くように指示していました。1928年の時点で、政治局があえて日本を不安定化しようとしたとは考えにくく、当時は中ソ関係も微妙な時期であり、張作霖暗殺の目的はむしろ中国の革命であったのではと思います。

張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件

日露戦争の勝利によって、日本は遼東半島南部の関東州を租借し、ロシアから長春より南の鉄道の営業権を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)を設立した。昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいた。その保護と関東州及び満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた。

張作霖爆殺事件は、1928年(昭和3年)6月4日、関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件。
馬賊出身の張作霖は、日露戦争で協力したことから日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援の下、段芝貴を失脚させて満州における実効支配を確立し、当時最も有力な軍閥指導者の一人になっていた。

第一次国共合作(1924年)当時の諸外国の支援方針は、主に次の通りであった。
奉天軍(張作霖) ← 日本
直隷派 ← 欧米
中国国民党 ← ソ連(実質は党内の共産党員への支持)
直隷派は中華民国時代における中国の軍閥である。1916年の袁世凱の死後、その北洋軍閥が分離して成立した。1920年から1924年には他派を破って北京政府の実権獲得に成功した。

しかし、孫文亡き後蒋介石が率いた国民党の北伐で直隷派が壊滅した後、張作霖は満州に欧米資本を引き込んで満鉄に対抗する鉄道路線網をつくり、満鉄の独占を破ろうとしていた。

1926年12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。大元帥就任後の張作霖は、欧米の支援を得るため、日本から欧米寄りの姿勢に転換し、反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。これに対して中国大陸における権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていたアメリカは積極的な支援を張作霖におこなう。欧米資本を引き込んで南満州鉄道(満鉄)に対抗する鉄道路線網を構築しようとしており、南満州鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。この当時の支援方針は次の通りである。

奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本
国民党
中国共産党 ← ソ連

同時期、国民党でも欧米による支援を狙っていたが、1927年4月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した蒋介石が共産党員ならびに労働者を粛清し(上海クーデター)、国共合作が崩壊。北伐の継続は不可能となったが、このクーデター事件以降、蒋介石は欧米植民地勢力との連合に成功した。
1928年4月、国民党の蒋介石は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。 この当時の支援方針は次のような構図に変化していた。

奉天軍(張作霖)
国民党 ← 欧米
共産党 ← ソ連

当時の中国では民族意識が高揚し、反日運動が多発するようになった。蒋介石から「山海関以東(中国東北部)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。

また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な天皇からの奉勅命令が発令されず、この計画は中止された。

1928年6月4日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である奉天(瀋陽)へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。

田中義一首相

陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。

関東軍

軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満州国建国)を画策していた。「張作霖の東三省復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針を打ち出した。

列車爆破

1928年(昭和3年)6月4日の早朝、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄連長線の立体交差地点を時速10km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300キロが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した。張作霖は両手両足を吹き飛ばされた。現場で虫の息ながら「日本軍がやった」と言い遺したという。

事後調査

日本と中国の共同調査が行われ、爆発後に集めた破片から爆弾はロシア製と判断された。事件当初から「日本軍の仕業」とする説が流布された。当初は国民党の便衣兵による犯行であるとされたこと、また現場は張作霖の通過ということで中国側は前日に警備の交替を日本側に申し出て中国兵50名で張が利用する京奉鉄道側を守り、日本軍は満州鉄道側を警備していたため無関係との理解が得られ、日本に対する疑念は薄らいだ。

満洲事変

奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良も程なく真相を知って激怒し、国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換したため、かえって日本の満洲への影響力を弱める結果となった。これが後の満州事変の背景の1つとなる。

ソ連特務機関犯行説

2001年に張作霖爆殺にソ連特務機関「ソ連軍参謀本部情報総局」が関与していたという内容の『GRU帝国』を出版した、ロシアの作家で歴史研究家のドミトリー・プロホロフが、内藤泰郎産経新聞モスクワ支局長に語ったインタビューによれば、「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、、実際にはスターリンの命令にもとづいて、ナウム・エイチンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」としている。
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