12月8日 大東亜戦争開戦記念日

Kojiyama/ 12月 7, 2009/ オピニオン/ 2 comments

ブロック経済とABCD包囲網

1933年頃から、世界のいたるところに広大な植民地をもっていたイギリス、フランスなどは、本国と植民地との経済的な結びつきを強め、その経済圏の内部で重要な商品の自給自足をはかりつつ、外国の商品には高い関税をかけて国内市場から閉め出す政策を取り始めた(ブロック経済)。

1930年代半ば、世界はヴェルサイユ体制の存続をめぐって枢軸陣営(伊独日)・自由主義陣営(英米仏)・共産主義国(ソ連)の3陣営が次第に対立を深める。

日本は1937年から中華民国と日中戦争(支那事変)を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件などの日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に野心があったアメリカでは人種差別的意識もあって対日経済制裁論が台頭してきた。

そして近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効し、アメリカは屑鉄・航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主に高オクタン価ガソリン)や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫は地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。

1940年9月、イギリス・アメリカなどが中国国民党政権に物資を補給するルートを遮断するために、日本はヴィシーフランスとの条約締結の元仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、中華民国領への進出など日本の拡大政策を牽制するという名目の元、アメリカは屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。

その一方で、日本は蘭印(オランダ領東インド)と石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後蘭印の供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は1941年6月に交渉を打ち切った(日蘭会商)。4月に、アメリカ・イギリス・オランダの三国は、軍事参謀会議を開き、アジアにおける対日政策について協議した。

7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁という名目のもと更なる挑発行為である対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、英国首相のウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」。と論評している。

1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。“ABCD” とは、制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれる。

真珠湾攻撃

日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃を開始した。

なおこの攻撃に先立ち、陸軍はイギリス領のマレー半島コタ・バルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった。

日本は米英に宣戦布告し、この戦争は「自存自衛」のための戦争であると宣言した。日本政府は、この戦争を「大東亜戦争」と命名した。ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦は日・独・伊の枢軸国と、米・英・蘭・ソ・中の連合国が世界中で戦う戦争へと拡大した。


真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor(NHK)


アメリカ側のカラー映像(NHK-BS1)

ニイタカヤマノボレ

1941年9月、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化させていった。作戦目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であるが、制海権確保のためにアメリカ太平洋艦隊の戦力を減殺する必要があるとされた。だがこれを実現するための山本の真珠湾航空奇襲案に対して軍令部は大反対した。

1941年11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化した。南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は11月22日に択捉(エトロフ)島の単冠湾に集結、11月26日ハワイへ向けて出港した。12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。

12月2日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「日本時間12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の意の符丁であった。

12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。午前2時45分第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。

トラ・トラ・トラ

ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。

7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。7時55分(同3時25分)翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した。

7時58分(同3時28分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。戦艦「アリゾナ」では7時55分頃に空襲警報が発令された。8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1,177名の将兵と共に大破沈没した。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった。

第二次世界大戦の拡大

日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。真珠湾攻撃の前にマレー半島での上陸作戦(マレー作戦)が開始されているが、真珠湾攻撃によって日本とアメリカとの戦争は始まったと言って良い。真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会は日本に対して宣戦布告した。
12月10日、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争にも介入には消極的であり、連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

斎藤隆夫と目的不明の泥沼戦争

中国(当時は支那)との戦争が長引くと、日本は国を挙げて戦争を遂行する体制をつくるため、1938(昭和13)年、国家総動員法が成立しました。これによって政府は議会の同意なしに物資や労働力を動員できる権限を与えられました。またこの時期には言論の統制や検閲なども強化されました。

中国大陸での戦争は長期化し、いつ終わるとも知れませんでした。和平工作の動きもありましたが、戦争継続を求める軍部の強硬な方針が絶えず優位を占めました。代表政府も分からず列強からの武器支援で抵抗をやめず、混沌を深める中国国内において、和平交渉は不可能だったからです。1940(昭和15)年、民政党の斎藤隆夫(兵庫県豊岡市出石町出身)衆議院議員は、帝国議会で「この戦争の目的は何か」(粛軍演説)と質問しましたが、政府は明確に答えることができませんでした。
世界恐慌のあと、日本国内でも、ドイツやソ連のような国家体制のもとでの統制経済を理想とみなす風潮が広がりました。1940年には、政党が解消して大政翼賛会にまとまりました。

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2 Comments

  1. トラ!トラ!トラ!

    『臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。』

  2. 12月8日は開戦記念日

     本日12月8日は何の日か?大東亜戦争の開戦記念日である。昭和16年の今日、我が国は米英に対し宣戦布告した。
     大東亜戦争は真珠湾攻撃で始まったと言われるが、陸軍によるマレー半島上陸作戦のほうが早かったと言われている。なお、イギリスが宣戦布告前に攻撃を開始したことに抗議したという話は聞かない。しかし、宣戦布告が遅れてしまったことは、「リメンバー・パールハーバー」という文句に代表されるように、アメリカ人の敵愾心を燃やしてしまったと言える。
     今なお左翼らは大東亜戦争のことを無謀な侵略戦争…

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