自民党の再評価(4)

/ 11月 27, 2009/ オピニオン/ 1 comments

『政治学入門』(阿部斎・久保文明・山岡龍一)
戦後の民主主義
 日本の民主主義は、第二次大戦後、本来自立的に形成されるべき民主主義が、外から他律的に推進されたことは、それ自体すでに日本の民主主義に大きな制約を課するものであった。国民の意識の変革が充分に行われないうちに、民主化に対する反動を開始させることになった。そのため、日本の民主主義は、制度的にはともかく、理念的には充分に定着しているとはいい難い。こうした受容の仕方が、欧米の民主主義にはみられない日本的特徴を与えることになった。それはいかなる特徴であろうか。
 まず第一に、欧米の民主主義は個人を単位として社会を構成する原理であるが、日本では社会は個人が構成するものであるよりは、むしろ自然に形成されたものである。日本で集団の原型とされるのは、家族と村落であり、いずれも自然に形成された第一次集団であって、そのなかでは人々は和気あいあいと和やかな生活を送るものとされる。他の組織や国家もその例外ではない。集団の指導者に要求されるのは、親心をもって構成員に接することであり、構成員に要求されるのは「みんなで仲良く」集団の和を保つことである。それを保つために、全員が集団の行事に参加することが、民主主義であるとされることも少なくない。
 第二に、欧米の民主主義はあくまでも政治の原理であり、政治が対立と紛争に決着を付ける機能をもつ以上、民主主義も喧嘩に決着を付けるという働きをもたざるを得ない。しかし日本の場合、国家も家族の擬制において理解されてきた以上、国家はそもそも対立や紛争を含まない集団とされざるを得ない。対立や紛争がなければ、本来の意味での政治は存在の余地がなくなるといえよう。
 明治以来、日本の政治が集団の和を前提としてきたことは、日本人は対立や紛争を日常的な出来事として処理していくことには長じていない。日本人が巧みなのは対立や紛争を回避するための方策、たとえば「根回し」なのである。我が国の民主主義が全員一致を原則とするといわれる所以である。
保守政党の統治体制
 戦後の自由民主主義体制の下で、1955年以来93年まで一貫して政権を担当してきたのは、保守政党として位置づけられる自由民主党であった。では自由民主党はいかなる形で、日本の社会を統治してきたのであろうか。
 一口でいえば、具体的利益の配分に基づく有権者の受益者化によってであった。たしかに保守政治にも、靖国問題や元号問題のようなイデオロギー的争点がなかったわけではない。しかし、保守勢力は少なくともイデオロギーによって、社会の統合を図ってきたとはいえないであろう。むしろ、保守勢力はイデオロギー的争点を回避して、合意の形成が容易である経済や財政の領域に争点を限定することにより、コンセンサスの形成を図ってきたのである。
 もちろん必ずしも経済的なものとは限らない。たとえば、こどもの将来を保証してくれる教育とか静かな生活環境の保全とかいったことも、その具体的利益のなかに数えられていた。ただ、教育や環境といった問題も、政治的には財政支出により、その内容の改善を図るといった形をとるのが普通である。それゆえ、自民党による利益配分は、結局は財政資金の散布という形をとることになったといえよう。
 日本の政策決定は伝統的には官僚主導型であった。自民党の発言権がかなり増大していたことも事実である。官僚の側にも与党との協調を重視する傾向が生じるのは当然であるから、保守政党と行政部官僚との間には相互補完的関係が成立することになる。また、有権者の間でも利益配分による政治が定着しており、有権者の多くは政治家を利益の還元能力によってのみ評価するようになり、政治家の責任や倫理とかいった側面には、大きな関心を払わなくなっていた。
一党優位体制の崩壊
 1993年に、約38年間続いた自由民主党の一党優位体制が崩壊した最大の理由は、政治腐敗の多発に伴う政治不信の増大から、政治改革の要求が高まり、自由民主党の政治改革の取り組みに不満をもつ人々が自民党を離脱したことであった。自民党分裂後の選挙でも、自民党は単独で過半数の議席を確保することができず、非自民の連立政権として細川政権が成立した。しかし、細川政権も政治的スキャンダルによって崩壊し、その後引き継いだ羽田政権も、社会党の協力が得られず短命に終わった。その間、政治改革の中心的な課題とされていた選挙制度の改革は、小選挙区比例代表並立制の採用をもって、一応の決着をみた。非自民連立政権の失脚後は、社会党の党首を首相として、自民、社会、新党さきがけの三党が連立して政権を担当するという変則的な事態が続いた。
 1994年に結成され、自民党に対抗する野党第一党の地位を占めていた新進党は97年に解党し、旧公明党系は平和・改革(衆議院)と公明(参議院)に、小沢一郎のグループは自由党に移行し、残りの大部分は98年に結成された新党民主党に合流した。もともと民主党は、鳩山由紀夫と菅直人を中心に、新党さきがけの一部と旧社会党系などが結集した中道ないしリベラルズの政党であったが、旧新進党系を加えて、自民党に次ぐ第二党となった。
 自民・社会・さきがけ三党の連立政権である村山内閣は、1996年1月に自民党の総裁を首班とする橋本内閣に移行するが、その後社さ両党は閣外協力から連立離脱に進み、自民党の単独政権になった。自民党は新制度による最初の選挙で党勢を回復し、無所属議員の入党者や新進党などからの復党者を加えて、衆議院では単独過半数を確保するに至った。この間、社会党は党名を社会民主党に改め、党のイメージの刷新を図ったが、党勢は衰退の一途をたどっている。
 こうした自民党の復調も、1998年7月の参議院選挙における自民党の地滑り的な大敗によって終止符をうたれた。かわって大幅な躍進を遂げたのが民主党と共産党であり、橋本政権は敗北の責任をとって辞職し、小渕政権が成立した。自民党は衆議院で過半数を占めていたものの、参議院では過半数を大幅に割り込んでいた。そのため、自民党はいずれかの政党との連携を模索せざるをえない状況にあり、2002年、公明党・保守党(2002年自由党から離脱)との連立政権によって政権の強化をはかっている。
 小渕首相の急死の後成立した森政権は、2000年の衆議院選挙を乗り切ることには成功したが、首相の「神の国」発言やKSD事件、「えひめ丸沈没事件」に対する対応の不手際などが重なって人気が急落した。しかし、日本が伝統的に神道を崇拝する国であるという主旨でることは間違っていないし、問題は森政権で重なった不手際に対してのメディアの批判が強かったためだ。後継者を決める自民党総裁選挙で、全国遊説により無党派層をも巻き込んだ熱狂的支持を集め、首相についたのが小泉純一郎である。1990年代から日本は戦後最大の経済不況に直面してきたが、小泉首相はその打開策として徹底した構造改革を公約していた。
 1990年代の経済不況の原因は、低価格競争の結果、企業の収益が伸びず、地価や株価が低迷し、銀行が大量の不良債権を抱え込んだことにあるとされる。しかし、企業の収益が伸びない最大の理由は、生産性が全く上がっていないにもかかわらず、勤労者の賃金がほとんど下がっていないことに求めるべきであろう。
日本政治の現状
 非自民連立政権の中心になった新進党の立場は、新保守主義と呼ばれていた。その特徴は、日本の政治を現状のまま保守するのではなく、欧米先進諸国と異質な面を改革して、日本を保守するに足る「普通の国」にしようとするところにあった。そのため必要であれば、規制緩和や地方分権を進めるだけでなく、憲法の改正にも取り組もうとしていた。これに対して、自由民主党は規制緩和や地方分権の必要性は認めるにしても、急激な改革には消極的であり、むしろ護憲の立場をとるものが少なくなかった。自民党が一次社会党やさきがけと連立政権を組んだのも、護憲という面で共通点があったからだとみることもできよう。
 2003年、新保守主義といわれる自由党と中道・リベラルである民主党が合併した。役員、要綱、党名を据え置くという民主党による事実上の吸収合併という形で決着した。それは政治腐敗を生んだ旧田中派的性格と、そうした腐敗を改革しようと離脱したさきがけと旧社会党右派?との合流によって発足した民主党とのなかにある改定派・護憲派の幅以上に幅広い考えの政党となった。つまり実質的には保守合同により誕生した自由民主党よりもさらに幅広い保守と革新合同の連立政党なのである。また鳩山政権は、国民新党・社民党との三党連立政権でいっそう範囲が幅広く、目先の事務的政策で、長いスパンでの日本再生の目指す方向性が見えないのである。
 保守と革新という従来の対立軸で政党を分類することは益々困難になりつつある。強いて分ければ、自民党、自由党は保守、民主党は中道、社民党は革新ないし中道左派、共産党は革新といえようか。社民党はリベラルの結集を模索していたが、現在ではむしろ民主党がリベラルの中心にあるように思われる。(2003年の内容に一部後半拙者加筆)

党名変更よりも党本来の目標を忘れるな
 
 名前というのは、一旦決めたら変えるのはむずかしい。個人の名前なら命名するまではいろいろ考えて、いざ決まればどうしても不本意なケースは除き、不思議と違和感なく馴染んでくるので別に変えようとも思わない。人が服を変えたからといってこれまでと付き合い方や評価が急に変わるわけでもないし、新党結成なら党名を考える必要があるが、党の本質自体が変わらないのであれば党名変更を行っても意味はなさないことは明白である。
 党名変更したからといって本質ががらっと変わるわけはなく、自民党内でもそんな小手先のことは考えていないだろうが、保守は「使い古された言葉」で、支持者拡大に障害になるなどの理由から、「保守」に代わる言葉探しに苦労しているという。ならば、自分も分からないから[3]でヨーロッパの保守主義を書いた。社会主義と自由主義が啓蒙主義の後継者だとすれば、保守主義はその批判者だといえる。つまり保守とは既成の思想や制度を尊重し維持する政治的、社会的立場である。ただし、変革を受け入れない立場をさして反動と呼び、保守的な思想というように、時代に合わない古い考え方というイメージとは区別することがあることに留意されたい。従って保守とは何かが明確にいえないという欠点をもつ。
 戦後、吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約で主権を取り戻し、岸信介が日米安全保障条約改定を掲げ、日米対等な関係の構築、極東問題での協力、経済協力の三つの柱。池田勇人首相の所得倍増計画の社会資本の充実、産業構造の高度化、貿易促進の三つの柱。佐藤栄作の沖縄・小笠原返還、そして政策の基調が「富国強兵」ならぬ「強兵」なき「富国」におかれ、経済復興を優先した政策が展開されたことから経済大国になった。しかし田中角栄首相の列島改造論と円高によるインフレ克服による安定成長、中曽根首相は国鉄・電電公社など国営企業を民営化し日本航空の完全民営化を推進した。
 岸信介は、通商による経済発展、自主憲法制定を目標に掲げた日本再建連盟を結成した。しかし、保守合同して政策の基調が「富国強兵」で「強兵」なき「富国」におかれ、経済復興を優先したことで世界第二位の経済大国になった。そしていつのまにか、国民は日本人の誇りと自信を忘れ、富国の次ぎに後回しにして着手しなければならなかった二つの柱のもう一方が「強兵」ではないか。もちろん強兵とは単に軍事力を増強し軍事大国になれという意味ではなく、自主憲法制定を実現し、この国を自分で守る独立国日本再建のために保守合同した自民党の本来の目標だった。
 1989年(平成元年)5月23日竹下首相の「政治改革大綱」は、自民党政治の問題点が与野党勢力の永年固定化で政権交代がなく、政策よりも利益誘導を重視することで政治腐敗を招いていることだと総括し、その解決策は小選挙区制の導入による政権交代ある民主主義の実現であると主張していた。
 今回の政権交代は、その「政治改革大綱」で20年前に自ら身を削り、血を流す覚悟で断行しようとした政治改革が実現したものだということを、自民党は思い出すべきではないか。
日本の再生を急げ!!

 資本主義とか民主主義だとかそんなイデオロギーは今さらあえて掲げるまでもないことだし、かといって隣国がいまだ共産主義を維持しており、友愛など通用しない危険な覇権国家であり、古今東西、距離をもって接することが日本の安全保障にとって賢明な政策であることは将来も変化はない。にもかかわらず、友愛などと夢物語を唱えている国家観の全くない骨のない首相と民主党に対して、自民党がこのような平和ボケした抽象的な目標しか掲げられないのであれば、民主党の国家像のないばらまきのマニフェストにも及ばない。
 戦後60余年、偶然にも戦後の日本の舵をとった首相の子や孫たちが続いて首相になっている。小泉元首相の後圧倒的優位もあって、安倍晋三元首相は戦後レジームの脱却をかかげ、憲法改定、歴史・教育再生をめざした。自主憲法制定こそ、いまだ叶えられていない自民党結党以来の悲願であり目標であろう。民主党の目先の経済政策や社会政策では根本的に日本は良くならない。国民の多くが分かっている。自民党はそのための政策をど真ん中で掲げることだ。そして党名変更はアイデンティティとして輝くことができる。いっそう保守合同で経済復興は果たせたが、結党の二つのうちの一つの目標がぼやけたままならば、やるべきことは党内外が周知の忘れ物である。民主党があるなら自由党でいいではないかとなるが、旧自由党よりも小沢自由党の印象があるからそれもないし、今更世界は自由主義でもない。
 つまりは戦後、自民党は何度もチャンスがあったにも関わらず、復興・経済成長のなかで政・官・財があぐらをかいて自主憲法と自立国家への道を達成しなかったからではないか。自民党は不満だが民主党は不安なのだ。すでに民主党が大勝し政権を担うべき保守・革新すら不明瞭な連立与党が誕生した。ある意味何でもありの節操のない守備範囲は、今の自民党には手強いだろう。同じような政策の違いだけで戦うなら民主党の敵ではない。再び自民党の政権奪回はすぐには難しいだろう。
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや
 約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると、日本列島は大陸から分離した。この後も列島と大陸との間に活発な通交・交流が行なわれ、巨視的には日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあったが、東アジアの最東方に所在する島国、という地理的条件によって、日本は他の東アジア地域とは異質な要素を持つ文化・社会を発達させていった。国家としての「日本」が成立したのは7世紀後半から8世紀初頭にかけての時期である。
 日本の保守とは何かであるか。 それもまた社会主義・共産主義の批判者が保守であったのだ。それは国内では、日本の伝統文化や従来の制度を重視し、大きな変革を望まない考え方を指す意味で「保守」が使われてきた。1955年、拡大しつつある社会主義・共産主義に対抗して保守合同し自由民主党が誕生した。自主憲法と自主独立のために政権を担える保守政党として当初の目標を掲げた。
 谷垣自民党は本気で自民党の総括を行ったといえるだろうか。政権構想会議2次勧告では党名変更の検討のほかに、(1)資本主義制度を円滑に機能させる(2)民主主義を堅持(3)社会の安定を確保-を党の「三つの目標」に掲げるべきだとしているが、そんなことは、米ソ冷戦構造が崩壊して20年も経った今になって、あえて掲げなくても部外者でさえも誰でも分かっていることで、自民党の総括をやったといえるのだろうか。
 党名変更は明確なアイデンティティを伴ってC.I(コーポレイト・アイデンティティ)として意味を持つ。社会党は冷戦構造が崩壊したことでイデオロギーの社会主義とともに終わり、保守政党に対して、社会民主党(社民党)となったが、第三極をめざしたものの急減した。保守・革新という従来の対立軸で政党を分類することは益々困難になりつつある。きつくいえば、今後それがどういう対立軸であるのか素人には分からないが、目指す方向が有権者に伝わるようにしなければ党名変更の意味はない。党が進むべき方向を模索しなければならないようであれば、存続する意味はないのではないだろうか。しかし、民主党政権が人気があるとは誰も思っていないが自民党ではもっと期待が持てないのである。解党か保守新政党結成か、いずれにしても、国家観のない民主党でも、イデオロギーの敵対する意味で存在理由のあった自民党以外の、戦後レジームと決別させてくれる元気な日本のための第三極を握れる政党を国民は待ち望んでいる。
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槇原敬之 x Every Little Thing 「Time Goes By」
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  1. 在日中国人の違法行為

    大阪市鶴見区では、十数年前から中国人の大量移民による、現地住民とのトラブルが発生している。毎週日曜日になると、中国人たちが住宅街を不法占拠し、中国人の朝市が行われているのだ。

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