自民党の再評価(1)

Kojiyama/ 11月 26, 2009/ オピニオン/ 0 comments

党名変更検討を 自民党政権構想委
産経IZA 2009/11/26 00:30

 自民党の政権構想会議(議長・谷垣禎一(さだかず)総裁)が27日の会合で提出する第2次勧告に、党名変更の検討を促す内容が盛り込まれることが25日、わかった。
 「自由民主党」に「世論の拒否反応がある」というのが理由で、同党の置かれた厳しい現状に危機感を覚えたためともいえそうだ。だが、党勢回復の手段として戦後政治を担った党名を消す議論には党内から強い反発が出そうだ。

 2次勧告ではこのほか、(1)資本主義制度を円滑に機能させる(2)民主主義を堅持(3)社会の安定を確保-を党の「三つの目標」に掲げるべきだとしている。
 政権構想会議は今月6日の第1次勧告で、国政選挙で公募を積極的に活用することなどを盛り込んだ。

地方選・都議選・衆議院選大敗の度に、自民党は総括を行うべきだと意見がその都度あがった。
IZAで「自民党 総括」の検索結果は98件にのぼる。
 戦後日本において自民党の歩んだ歴史が自民党の総括であると同時に、それは戦後日本経済の総括を意味する。来年2010年に日米安保条約改定から50年の節目に当たる。(衆議院TV 8:41 いま安全保障委員会がはじまった)党名変更が持ち上がっている。自民党というブランドイメージがマイナスであることは気づいていたが、ならば、自由民主党誕生の経緯から見つめなければなるまい。

『日本近現代史』小風秀雅

転換点としての安保改定問題
保守合同

 A級戦犯に指定され公職追放となり、1952(昭和27)年、それが解除された岸信介は、反共、自主外交、アメリカ・アジア諸国との通商による経済発展、自主憲法制定を目標に掲げた日本再建連盟を結成した。当時はGHQと強いつながりを持ち「軽武装、日米協調」を柱とする吉田茂政権が続いていたが、公職追放解除組の復帰もあり、徳に保守派のなかでは自主外交、自主憲法制定をスローガンとした政界再編成気運が高まっていた。そして、財界とも強いつながりがあり、諸政党にまたがって幅広い人脈を持つ岸に大きな期待が寄せられていくのであった。

 1954(昭和29)年造船疑獄事件が明るみに出て、吉田政権は決定的にイメージを悪くした。そこで同年11月自由党の鳩山一郎・岸信介、改進党の重光葵らが合同して日本民主党を結成、総裁には鳩山が就任、岸は幹事長となった。吉田茂は解散で対抗しようとしたが周囲の反対で断念し吉田内閣は総辞職、替わって鳩山内閣が成立すると、民主党と自由党との保守合同は一挙に進展した。こうして1955(昭和30)年11月15日自由民主党が成立した。なお、この陰では、上村甲午郎が中心となって経団連を通じての自民党への政治献金方式が確立していくが、上村と岸とは近い関係にあった。

新安保条約への熱意

 自民党結成後、緒方竹虎・鳩山一郎・石橋湛山など有力者が相次いで病に倒れるという背景もあり、ついに岸は1957(昭和32)年2月25日首相に就任、1960年7月15日まで内閣を組織することになった。その岸内閣が最も力を入れたのが日米安全保障条約改定であった。岸がこの改定で狙ったことは次のようなものであった。

一、日米対等な関係の構築 「形式として連合軍の占領は終わったけれども、これに代わって米軍が日本の全土を占領しているような状態」を脱し、日米が対等な立場で日本防衛に当たること。
二、極東問題での協力 新条約の条文には「両国が極東における国債の平和及び安全の維持に共通の関心を有する」と表現されたが、岸は「アジアにおいてアメリカの積極的な行動を慫慂(しょうよう)すると同時に、日本と協力してもらいたい」と述べ、むしろ日本が主導して東アジア政策を展開すること。
三、経済協力 「締約国は、その国際経済政策における食い違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する」とあるように、「外交といっても、アメリカの問題にしろ、アジアにしろ、経済関係が基底を成す」ので経済協力を重視すること。
 ここで分かるように、岸は日本が主導となりアメリカ・韓国・台湾と反共を軸に政治的に強く結びつくと同時に経済的にも深い関係を築こうとしており、それは日本再建連盟の頃からのものであった。そして岸はこの問題に、政治生命ばかりでなく肉体的生命をも賭し「議論したって始まらんから、なんでもかんでも押し通してもこれを成立せしめる」という強い覚悟で臨んだ。

左翼学生運動

 安保改定の本格的交渉が始まったのは1958(昭和33)年10月からであったが、当初は交渉を秘密にしたこともあってそれほど目立たず、当時はむしろ警察官職務執行法改正案が関心を集めていた。安保改定問題に最も早い反応を示したのはソ連・中国で、彼らは改定によって日米の軍事同盟が強化されることを嫌ったのである。これに刺激を受け翌年4月15日には総評(日本労働組合総評議会)が社会党・共産党に呼びかける形で安保条約改定阻止国民会議第一次行動が開催され、本格的な組織化が進められたが、それでも当初はあまり盛り上がらなかった。その理由は、不平等な旧安保条約には推進派も反対派もともに不満であり、改定そのものには賛成であったからといわれている。そのようななかで、同年11月27日の第八次統一行動においてデモ隊の一部が国会に乱入した事件、および1960年1月新安保条約が妥結し岸首相が訪米する際、学生700名が羽田空港ビルに立てこもって警察官と衝突し78名が検挙された事件、などを契機に全学連が運動の前面に出てくるようになった。

 他方、内閣は同年6月20日頃に予定されていたアイゼンハワー大統領の来日までに批准を完了すべく、5月20日未明予定通り自民党は衆議院で強行採決したが、ここから状況は大きく変わり、岸内閣への反対運動が急速に高まるのであった。5月20日から約一か月こそ、戦後最大の国民政治運動が起こった時期なのである。従来の運動家ばかりでなく、幅広い一般層から岸内閣への不満が噴出した。その不満は、強行採決により戦後日本がアメリカから受容した「平和」「民主主義」が危機に瀕しているという危機感からであったといわれている。

転換点としての岸内閣

 学生運動が世界的潮流となるのも1960年代であった。しかしその後の運動が60年安保ほど一般市民を巻き込めなかったのも事実である。その理由としては、岸内閣の後の池田勇人内閣が「政治の季節」から「寛容と忍耐」の時代に転換させ、以後所得倍増などいわゆる高度経済成長が続いたことが挙げられる。

 もっとも、それが可能となった一因が岸信介という存在であったことも事実であろう。憲法改正こそ実現しなかったが、アメリカとの対等な軍事同盟、反共をスローガンとしたアジア諸国との政治的経済的関係の強化、保守合同や財界との強い結びつきによる安定的政治勢力(自民党)の創出などがあって、高度経済成長も初めて可能だったのである。

 以上から、岸内閣は戦後政治の重要な転換点であったという指摘は正しいであろう。しかしそれは、第二次世界大戦の戦後であると同時に、第一次世界大戦の戦後の総決算でもあったように思われる。
 近衛文麿が世界の潮流である英米的な「平和」「自由」「平等」の欺瞞性を暴いて青年インテリの拍手を浴びたのが第一次大戦直後であった。青年インテリたちはまた、当時政党政治を実現しながらも多数の力を背景にした強引な政治運営を試みる原敬を「力の政治家」と強く非難した。一方その頃、岸信介は国粋主義を抱きながら経済実務官僚の道を歩み始めた。昭和10年代に入り、近衛はいわゆる「皇道派史観」にたち、反共主義から統制経済を進めるグループに反感を持つようになったが、そのとき統制経済の総帥として活躍していたのが岸でもあった。彼は満州の資源と経済官僚、日本の財界を統合して国策を遂行していたのである。このように、世界的な思想潮流に鋭敏な近衛と、国策遂行を念とする岸はいつも対立的であった。

 以上のことは第一に、「平和」をはじめとする思想上の言葉が、多くの国民を惹きつけ且つ政治上外交上経済上の国策と密接な関係を持っていたことを意味しているように思われる。第二に、他方で言葉とは無縁にひたすら経済的国策の遂行を願い、政・官・財のみならず海外にまで人脈を築こうとした岸のような存在とは対立するようになった。しかし第三に、第一次大戦以来の両者の対立も岸内閣の総辞職によって終焉を迎え、両者は融合しつつ日本はしだいに新しい時代に突入していくのであった。

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