転換期の政治主導
『日本政治外交史』 放送大学教授 天川 晃、御厨 貴 東京大学教授、牧原 出 東北大学大学院教授 共著
(2007年4月)
先日、放送大学後期受講課目の教材が送られてきた。
どのような総理大臣がふさわしいかについて、外交を主に書かれているので参考になればと思います。
政治家のストラテジー
日本の政治家研究の「古典」といえる本として、岡義武『近代日本の政治家』がある。著者は伊藤博文、大隈重信、原敬、犬養毅、西園寺公望の生涯をたどりつつ、近代日本政治史を通観している。著者はこの他にも単行本として山県有朋と近衛文麿の伝記もある。
岡による政治家の伝記的研究の「原論」ともいうべきものが、1950年に刊行された「近代政治家のストラテジー」という論文である。この論文で近代の政治家が政治権力を獲得・維持するためのストラテジー(戦略、手段)について考察している。近代においては、コミュニケーション手段が発達しており、政治のストラテジーは多様性を帯びてきただけでなく、政治が大衆を無視できなくなっているので、大衆の支持や承認を獲得するという目的を持つことになったという。
そして、政治家のストラテジーを考える際には、政治家の性格(大衆に親近感を持たせる型か距離感を持たせる型か)を前提条件として、状況(静態的か動態的か)に応じて、また政治体制(全体主義か民主主義か)に応じて、大衆の支持獲得という目標のために異なるストラテジーをとることを類型的に論じている。
岡は、社会が変動期または不安定状態にある場合と、社会が静態にある場合あるいは静態を保とうとする場合を大きく区別して、前者の場合には事態を指導的に処理する型の政治家が要請され、デマゴーグ型の政治家に登場の可能性があるが、後者の場合には指導性を期待せしめないような型の政治家が要請される、と指摘している。
そして、政治家には大衆に親近感を持たせることによって大衆を掌握するタイプの政治家と、大衆に距離感を強く意識させて大衆の心を捉えるタイプの政治家があるとして、政治家のタイプと状況とを関連づけて、社会が静態にあるときには大衆の親近感を呼び起こす政治家に有利であり、社会が動態にある場合には大衆と距離感をおこうとする政治家に有利である、という。また、政治家が政治宣伝において理性に訴える場合と大衆の感情に訴える場合があるが、大衆の理性に訴える方法は社会が静態にある場合には有効であり、動態にある場合には大衆の感情に訴える場合の法が効果がある、と指摘する。
さらに、政治体制との関連で、民主制の下では言論の自由が相当程度に保証されており、異なる政治的見解の間で公然と相互批判がおこなわれるので理性や判断力に訴える方法がおこなわれ、他方、独裁政の国家では大衆の感情に訴える方法が効果的であるだけでなく、このような国家では政治家が大衆の危機意識を高揚させる方法を採ることが多い。
政治家の政治指導を考えるに際して、この論文が指摘するように、政治家の性格などの個人的資質、政治家を取り巻く状況との関係、さらに政治家が活動する制度との関係などの変数を組み合わせて分析してゆく方法は、今日の政治家のリーダーシップを研究するに際してもとることのできる方法であろう。
制度と政治指導
政治指導者が何らかの対応をするに際して、対応をおこなう制度的な枠組みがある。その枠組みはフォーマルな法律等に規定された制度的枠組みもあれば、インフォーマルな慣行などに依存する場合もある。時代が大きく転換する時には、これら制度そのものの正統性や実効性が問い直され、あらためて制度的枠組みがつくり直される。
幕末の激動から明治新政府の発足までの時期は、まさに制度的枠組みが大きく転換し、明治の国づくりが進められた時期であった。1885年の内閣制度の創設とそれに続く大日本帝国憲法(明治憲法)の制定によって、19世紀末から20世紀半ばまでの政治の枠組みができた。明治憲法は天皇の大権を中心に構成されていたが、憲法の運用に際しては重要な国務に参画する枢密院が存在し、また統帥権の独立を主張する軍部が独自の動きをするなど、多元的な機構が関与して内閣の統合力が限定されていた。これを補ったのは伊藤博文、山県有朋をはじめとする建国に関わった「元老」と呼ばれる政治指導者たちであった。憲法制定当初は、これらの人々のインフォーマルな人間関係によって憲法の運用が図られていったが、時を重ねるにつれてしだいに組織化・官僚化が進行し、個人の役割よりは局部的な官僚組織による硬直的な運用が、政策決定において大きな役割を演じ始めることになった。
第二次世界大戦の敗戦を経てつくられた日本国憲法は、内閣においては国会に対して連帯して責任を負うことにするとともに、総理大臣の権限を強化した制度になった。(中略)制度は大きく変わったものの、この憲法の運用においては戦前からの慣行を引き継いでいる部分も多く、内閣における首相の指導力が十分に発揮できているとはいえない。そして、憲法の実際の運用において力を持ってきたのが政党である。
次に指導者の選択の制度的枠組みについて見ておこう。江戸時代は身分によって職業が固定しており、福沢諭吉が書いたように、「家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まっている者も同様、何年経ってもちょいとも変化というものがない」状態であった。
開国を契機にして社会の流動変化が始まり、変革期に指導的地位を占めたのは、旧来の指導層ではあっても下級武士で、彼らが藩の拘束を離れて動いたところに特色があった。明治国家の書記にはこのような人物たちによって明治新政府は担われていたが、明治国家がしだいに整備されてくる明治20年代ごろになると学校教育を中心としてエリートの補充がおこなわれることとなり、教育制度とつながった官僚制度の役割が大きくなってきた。
明治憲法は、国の最高指導者である総理大臣の選出方法については、何の規程も置いていない。実際には維新の元勲の元老による調整を経て天皇に推薦され、天皇からの「大命降下」という形で首相の指名がおこなわれた。元老は一身専属的な地位にあるので後継者は存在せず、西園寺公望が最後の元老となり首相を奏薦したが、1937年の第一次近衛内閣成立からは内大臣、元老や首相経験者、枢密院議長などで構成される重臣会議がこれに代替して総理大臣の推薦をおこなった。
戦後の日本国憲法では、総理大臣の選出方法も制度化され、資格の要件として国会議員であることが必要となり、国会両院で指名されることとなった。総理大臣になるためには国会議員である必要があり、1947年の衆議院総選挙に吉田茂が初出馬し当選した。ちなみに敗戦後、講和に至るまでの6年余は首相の選任に際しては事実上占領軍総司令部の承認が必要であった。1946年の総選挙の後で鳩山一郎が追放によって首相の座を逃し、1948年の芦田内閣の総辞職後に山崎首班騒動などがあって円滑に第二次吉田内閣に移動しなかったのは、総司令部の意向が介入した影響である。新憲法施行語数年は選挙で過半数を占める政党がなく、連立内閣の構成に手間取ったが、1955年以後は自民党が国会で多数を占めてきたので、自民党の総裁選挙が事実上の首相選出選挙となった。別の意味でインフォーマルな過程が残っている。
戦後日本の首相
アメリカの日本政治研究者のエリス・クラウスが2000年に発表した「日本の首相-過去、現在、未来」という論文は、戦後日本の首相を対象とした興味深い研究論文である。岡の「ストラテジー」から数えて半世紀後に出されたこの論文は、その後の政治家研究の変化を示しているものである。
クラウスの疑問は、戦後の憲法による制度的枠組みはイギリス型の議院内閣制を採用して総理大臣の権限は強化されたにもかかわらず、現実の日本の首相は必ずしも「強い首相」になったわけではない。むしろ「相対的に弱い首相、派閥化した支配政党、分権的な政策形成過程、『ポーク・バレル*1』型の特殊利益の配分、そして政策中心でない政治」を特徴としてきた。
なぜそのようになってきたのだろうか。クラウスは、政治的リーダーシップにアプローチするに際して、構造的な要因と政治家のパーソナリティなどの要因との間の「中間的アプローチ」として、首相の役割に着目する。そして日本の首相の役割を国家と社会と国際関係の三つの関係をつなぐものという観点から理解しようと試み、国家との関係では国家構造や選挙制度などの制度的コンテキスト、社会との関係ではメディアに対するイメージ管理、国際関係では国内政治と外交政策の処理という三つの角度から検討している。そして首相を制約してきたこれらの条件が20世紀末から21世紀にかけて変化しつつあると指摘している。
制度的コンテキストについては、中選挙区制度が重要である。この制度の下では同じ選挙区で自民党候補が複数立候補するので候補者は自前の後援会をつくり、また議員は選挙区に「アメ」を持ってくるために得意の政策分野で専門化して「族議員」になる。政策決定においては首相自身のスタッフよりも官僚制に依存してきた。こうして政党内で派閥が強化され、全派閥のリーダー間で一致した合意の結果だけが主要な政府決定になり、自民党総裁である首相のリーダーシップが制約される。
議院内閣制では首相は国民から間接的に選ばれ、中選挙区制では議員個人の努力が大事であって、党首や首相の国民に対するイメージ管理は必ずしも重要ではなかった。首相は派閥リーダーを満足させて政権の維持を図ったので、国民の支持は二義的な意味しか持たなかった。さらに日本のマスメディアも首相に注目するよりは記者クラブ制度などを通じて官僚制に対する注目の方が多かった。最後に、国際関係は国内問題とは異なって首相の役割は大きく、メディアの注目度も大きい。(中略)
1990年代になると首相を取り巻く三つの領域が大きく変化をしはじめて、首相の役割も変化しつつあるとクラウスは指摘している。制度的コンテキストでは、中選挙区制度から小選挙区比例代表並立制に変化した。この制度の下では、従来よりも政党のイメージとリーダーのイメージが重要となる。さらに小選挙区では同一の党内の争いはなくなり、「族議員」化よりも得意政策分野を広げ、広く多様な有権者の支持を得ることが必要になる。新しい選挙制度は、党のリーダーや首相の影響力の集権化を進めると考えられる。
イメージ管理に関しても、特にテレビの利用で変化が始まりつつある。1985年から始まった「ニュース・ステーション」がそれまでのNHKニュースの報道と違うスタイルを打ち出した。政治家によるメディアの利用は中曽根首相が始めていたが、細川護煕首相が記者会見のやり方を変えるなど大きく変化させた。誰が首相になろうとイメージ管理に注意を払い、一定の技術を持たねばその役割を果たせなくなった。また、1980年代から日本の外交政策は対米一辺倒から多角的外交政策に向けて変化してきた。日米関係での貿易摩擦、冷戦の終焉、西欧の統合、アジアへの関心などがそうした動きを展開させる要因となっている。このような「アジェンダ(会議における検討課題)の拡大」の結果、首相の役割は変化しつつあり、「外圧」よりも「開発」(援助)、「外冶」(外交活動)、「外扱い」(外交運用)が重要になりつつある。
要するに、1980年代以降、首相の役割は、対外問題でより広く浅くなっても、国内政策形成とイメージ管理で寄り深くなることが予想される、というのがクラウスの観察である。
2000年に発表されたこの論文は、その後の小泉内閣の政治指導を予見していたかのように、今日の首相の役割とその環境の大きな変化の潮流を捉えているといえるだろう。
*1…豚肉保存用の樽。昔、金貨をこの樽に入れたことから、特定の選挙区・議員を利するような政府事業や補助金。利益誘導型政治。
指導者の資質とその育成
首相の役割とそれを取り巻く領域がいかに変化しようと、実際に政治指導の役割を担うのは個々の人間である。そしてその役割にふさわしい人間をいかに調達できるかという問題が、その時々の政治にとっては最も重要な課題である。
マックス・ヴェーバーは、政治家にとっては、情熱、責任感、判断力の三つを必要な資質としてあげている。情熱とは「不毛な興奮」ではなく仕事への献身であり、この仕事への奉仕が責任性と結びつき、それが行動の基準になるときに政治家をつくり出すという。判断力とは精神を集中して冷静さを失わず現実をあるがままに受け取る能力、事物と人間に対して距離を置いて見る能力である。燃える情熱と冷静な判断力を一つの魂の中で結びつけることが期待されるのである。これらはいつの時代にも必要とされる政治家の資質であろう。
問題はこのような能力をどのような過程で訓練して真の政治家を補充できるかということである。ウォルター・バジョットは『イギリス憲政論』(1867)の中で、議院内閣制と大統領制の比較をしている。その中で大統領制は立法部面と行政部面との二つに分断する。そのような分断によって、どちらも政治家の野心を満たさないことになり、また政治家にとって生涯をかけるに値しないものとなる。つまり議院内閣制の場合と違って、政治家が全身全霊を打ち込む政界ではないのである。要するに、「大統領制下では国民が選出する政治家たちは、議院内閣制に比べ、はるかに劣っている」と指摘していた。言い換えれば、議院内閣制の議員の経験を経ていく過程で、政治家としての必要な訓練がなされていくというのである。
この指摘にあるように、議院内閣制が潜在的には大統領制よりは有利であるにせよ、議会での弁論や討論だけでなく、メディア管理が重視される時代にあって、いかなる形で政治家の養成と補充をおこなうのかは、改めて課題となるだろう。最初に見たように、近代の政治家は大衆の支持や承認の獲得を必要としている。したがって国民の側から、いかなる政治家が望ましいのかについての明確なメッセージを、メディアを通じて、さらには選挙を通じて、出していくことが政治家を育てることのなるのであろう。こうしたことを積み重ねることが、迂遠なようだが、優れた政治家を育てるための市民のストラテジーなのであろう。
以上
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