【自民党再生】 基本的国家指針

/ 9月 12, 2009/ オピニオン/ 0 comments

産経IZA 2009/09/05 21:01
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/298522/
 台湾の李登輝元総統が坂本竜馬の「船中八策」に沿って講演を行った。
前々から明治の政策の原点は、「船中八策」だと思うので、自分なりに考えてみました。
【李登輝講演】8つの提言要旨
第一義「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事」
天皇君主制。
総理大臣は、国民の直接投票で選出される。
李登輝:政治家と霞が関官僚、一部業界団体が癒着する既得権政治がいまなお横行している。根本原因は、総理大臣の政治的リーダーシップの弱さにある。日本の総理は、アメリカや台湾のように国民の直接投票で選出されていない。総理の政策実践能力が弱いのは、国民の直接的な支持を得ていないことによるものと考える。
第二議「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」 
国会は二院制とする。
参議院 非公選(または公選)により政党問わず政府諮問機関とする
衆議院 大選挙区制または中選挙区によるべし。
地方分権制
李登輝:地域のことは地域に任せ、権限も財源も委譲する。それぞれの地域が自主独立の精神で独自の政策を展開し、競い合って日本を高めていく。
州制と県制の併存
地方でできることは地方に。自治と議会の権限委譲→フランスの地方自治
第三議「有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事」
日本の歴史文化教育と道徳教育
李登輝:世界に誇る日本文化を背景に、教養を中心に教えていたのが、私の受けた戦前の日本の教育だった。これからの日本は、戦前の教育の長所を思い起こし、戦後のアメリカ式教育から離脱し、日本本来の教育に移行していくことが必要だ。
第四議「外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事」
国連常任委員会入り
(ドイツ・イタリアとの連携)
李登輝:現在の日本外交は、敗戦のトラウマによる自虐的、かつ自己否定的精神から抜け出せていない。反省は大事だが、反省も過ぎては自虐、卑屈になってしまう。自虐、卑屈の精神では、健全な外交は不可能で、世界中から嘲笑(ちょうしょう)されるばかりだ。アメリカへの無条件の服従や、中華人民共和国に頭を地につけて拝礼するような外交は、世界第2位の経済大国の地位を築き上げた日本にそぐわない。
第五議「古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事」
自主憲法制定
李登輝:戦勝国アメリカが、日本を2度と軍事大国にさせないために押し付けたのが、現在の日本国憲法だ。日本国憲法の第九条は日本の再軍備を禁止している。そのため、日本はアメリカに安全保障を依存することになった。しかし、日本の自衛隊はアメリカにいいように使われるというのが実情ではないか。国家の根幹である憲法を放置していては、日本国家は遠からず、時代の動きに取り残され、衰退し始めるのではないか。
第六議「海軍宜しく拡張すべき事」 
国防の拡充
国防に対する歴史的認識の脱却と自国を守る国民意識の構築
防衛に限らずCIA的な情報局設置する。
軍備はともかく情報戦が重要である。
 民主党は、アメリカとの間で率直な対話に基づく対等なパートナーシップを築くことを目指しているようだ。おおいに評価されるべきだろう。今こそ日本は、日米関係の重要さを前提にしつつ、日米同盟のあり方を考え直す必要がある。現在の日米同盟は、あまりにも片務的ではないか。
第七議「御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事」 
皇宮警察ならびに政府機関を陸自特別親衛隊へ
第八議「金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事」 
日銀の現行役割について
李登輝:日本は莫大(ばくだい)な個人金融資産を抱える国。この金融資産が投資資金として市場にきちんと流れる道筋をつくることが重要だ。国民の「老後安心政策」を、政治家の人たちは、明確に打ち出す必要がある。
坂本竜馬の「船中八策」について
 慶応2年(1867年)6月、坂本はいろは丸沈没事件を解決させたのち、京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で長崎を出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ、のちに成文化されたもの、とされる。
長崎グラーバー邸で創案したともいわれている。
 ただし、原文書も写本も現存せず、詳しい成立過程を証明する史料もないため、青山忠正や松浦玲などの歴史家は、龍馬が作成に関わっていない可能性があることを指摘している。また、もともとのオリジナルは上田藩士で軍学者の赤松小三郎の構想とも言われている。
赤松小三郎
藩校の明倫堂に学び、江戸の内田弥太郎・佐久間象山・勝海舟、長崎のオランダ人に師事し、数学・天文学・蘭学・兵学・航海術などを学ぶ。
京都に私塾を開き、兵法を教える。薩摩藩に招聘され、桐野利秋・村田新八・篠原国幹・野津道貫・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞ら約800人に教授した。慶応3年(1867年)5月には越前福井藩主・松平春嶽に議会の設置を初めて提唱した。坂本龍馬の「船中八策」は、この時小三郎が提出した「御改正之一二端奉申上候口上書」の内容をまねたものだとも言われる。
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