日本の地方分権を考える(3) 日本の「村」の歴史

/ 9月 1, 2009/ オピニオン/ 0 comments

 日本の集落や基礎自治体である(むら、そん)の歴史をさかのぼって考えてみたいと思います。
 村は、集落や基礎自治体の一種で、第一次産業(農林漁業)に従事する者が多く、家の数と密集度が少ない地域を指す名称です。とも書きました。社会学や地理学では村落といいます。  町(ちょう)は城下町などの第二次産業(商工業)が密集した地域。または市(都市)。
 近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であり、複数の集落の統合体であることが多かったのです。
 中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田(みょうでん)を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町を単位としてきました。
 中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する名(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属してきました。百姓らの生活・経済活動はモザイク状のを中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していませんでした。
 しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めました。
都市と農村の自治
 室町時代には、守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加しました。惣村は自治権を確保するために、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人と関係を結ぶ傾向を強めていいました。そして、惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れました。これを地侍(じざむらい)といいます。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まったとされます。
 室町時代になると、産業や交通の発達にともない、各地に商人や職人が集まって住む都市が形づくられてました。日明貿易の拠点として栄えた港町の堺(大阪府)や博多(福岡県)では、富を蓄えた有力な商人の合議によって町の政治が行われ、自治都市としての性格を備えました。京都では、裕福な商工業者である町衆が、地域ごとに自治の仕組みを作っていました。
 自治の動きは農村でも起こりました。農民の暮らしが向上すると、近畿地方やその周辺では、名主や地侍などとよばれた有力な農民を指導者として、荘園の枠をこえ、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村のまとまりが生まれました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣(そう)といいます。
 農民は村の神社や寺などで寄合を開き、惣掟(そうおきて)、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地に設定したり、用水路の管理、祭りなどの行事、水利配分や水路・道路の修築、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいいました。
 また、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強めなどを相談して決めました。惣掟は独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断(じけんだん)が行われることもありました。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもありましたが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくありませんでした。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主や地頭などが検断権を持つこととされていましたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴があります。
 14世紀中ごろの南北朝時代は、全国的な動乱を経て、畿内に発生した村落という新たな結合形態は各地へ拡大していいました。支配単位である荘園や公領(郷・保など)の範囲で、複数の惣村がさらに結合する惣荘(そうしょう)・惣郷(そうごう)が形成されることもありました。惣荘や惣郷は、百姓の団結・自立の傾向が強く、かつ最も惣村が発達していた畿内に多く出現しました。
 また、畿内から遠い東北・関東・九州では、惣村よりも広い範囲(荘園・公領単位)で、ゆるやかな村落結合が形成されたが、これを郷村(ごうそん)といいます。なお、関東においては、惣荘や惣郷の存在について確認されていないが、特殊な事例ですが、香取文書には、下総国佐原において、それに近いものが存在していたことが書かれています。
自治意識の高まった惣村
 惣が発達すると、領主のむやみな介入をしめ出し、年貢の納入を請け負う地下請をおこないました。また、いくつもの惣が目的を同じくして結束し、幕府に借金を帳消しにする徳政令の発布や、武士の地元からの追放、関所を取り払うことなどを求め、武器を取って立ち上がることもありました(土一揆)。
 土一揆は、惣村の生活が困窮したために発生したというよりも、自治意識の高まった惣村が、主張すべき権利を要求したために発生したと考えた方がよいようです。ほとんどの土一揆は、徳政令の発布を要求する徳政一揆の性格を帯びてきました。当時の社会通念からして、天皇や将軍の代替わりには土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んできました。そのため、天皇や将軍の代替わり時には徳政を要求した土一揆が頻繁に発生した(正長の土一揆、嘉吉の徳政一揆など)。また、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆も見られた(播磨の国一揆)。その他、不作により年貢の減免を荘園領主へ要求する一揆もありました。これらは、惣村から見れば、自らの正当な権利を要求する行為でありました。
 惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣村の指導者には、乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)などがありました。また、惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅう)といいました。惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)ともいいます。惣村の指導者には、乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)などがありました。また、惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅう)といいました。
都市と農村の自治
 織田信長が琵琶湖湖畔の安土に安土城という壮大な城を築き、楽市・楽座の政策をとって、城下の商工業者には自由な営業を認め、流通の妨げとなっていた各地の関所を廃止しました。このように信長は旧来の政治勢力や社会制度を打破し、全国統一への道を切り開きました。
 戦国時代に入ると、戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていいました。中には戦国大名の承認の下で制限された自治を維持する惣村もありました。最終的には、豊臣秀吉による兵農分離(刀狩)と土地所有確認(太閤検地)の結果、惣村という結合形態は消滅し、江戸時代に続く近世村落が形成していったとされるが、惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度や分郷下における村の統一維持に大きな役割を果たしたと考えられている。
 惣村が支配者や近隣の対立する惣村へ要求活動を行うときは、強い連帯、すなわち一揆を結成した。一揆(連合、同盟)は元々、心を一つにするという意味を持っており、参加者が同一の目的のもとで、相互に対等の立場に立って、強く連帯することが一揆でありました。
 惣村による一揆を土一揆(つちいっき)というが、土一揆は15世紀前期に始まり15世紀中期~後期に多発した。土一揆は、惣村の生活が困窮したために発生したというよりも、自治意識の高まった惣村が、主張すべき権利を要求したために発生したと考えた方がよい。ほとんどの土一揆は、徳政令の発布を要求する徳政一揆の性格を帯びてきました。当時の社会通念からして、天皇や将軍の代替わりには土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んできました。そのため、天皇や将軍の代替わり時には徳政を要求した土一揆が頻繁に発生した(正長の土一揆、嘉吉の徳政一揆など)。また、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆も見られた(播磨の国一揆)。その他、不作により年貢の減免を荘園領主へ要求する一揆もありました。これらは、惣村から見れば、自らの正当な権利を要求する行為でありました。戦国時代に入り、戦国大名による一円支配が強化されるに従って、惣村の自治的性格が薄まっていき、土一揆の発生も次第に減少していいました。
三都の繁栄
 江戸時代には、江戸は商人や職人が多数集まり、18世紀の初めには人口100万を超える、当時、世界最大の都市となりました。
 大坂は米・木綿・醤油・酒などのさまざまな物産の集散地となり、「天下の台所」とよばれて栄えました。各藩は大坂に蔵屋敷を置き、年貢米や特産品の売却を商人に依頼しました。大坂に集められた物産の多くは、菱垣回船や樽回船によって江戸に運ばれました。
 京都は、朝廷が所在する文化の都として、また西陣織や漆器・武具・蒔絵など高級な工芸品を生産する手工業都市として栄えました。江戸・大坂・京都は、あわせて三都とよばれました。
 このほかにも、各地の城下町や門前町、宿場町が、それぞれの地域の特性と伝統を生かして発展しました。
 江戸時代の村は、百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承してきました。また、江戸時代の百姓身分とは、主たる生業が農業・手工業・商業のいずれかであるかを問わず、村に石高を持ち、領主に年貢を納める形で権利義務を承認された身分階層でした。都市部の自治的共同体の単位である町(ちょう)に相当しますが、村か町かの認定は、しばしば領主層の恣意により、実質的に都市的な共同体でも、「村」とされている箇所も多かったようです。
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