【たんごる】細川ガラシャ夫人隠棲地

Kojiyama/ 3月 4, 2009/ 小紀行/ 0 comments

京丹後市弥栄町味土野

丹後に古墳を尋ねる帰り道、前から訪ねてみたかった細川ガラシャ夫人隠棲地に日暮れになっていましたが、行くことに。

細い山道を苦労して標高400mの地にたどりつくと、すっかり日が暮れて記念碑は見ることができませんでした。

味土野は男城と女城の御殿から来た地名らしい。

天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君、織田信長のすすめによって坂本城より、勝(青)龍寺(京都府長岡京市)城主細川藤孝(幽斎)の息子忠興に嫁ぎました。珠(たま)は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれましました。 しかし天正10年(1582年)、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となります。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉します。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達でしました。

珠の幽閉先とされる場所ですが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実です。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」があります。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられます。

細い山道を苦労して標高400mの地にたどりつくと、すっかり日が暮れて記念碑は見ることができませんでした。女城跡に建てられている弥栄町の案内板によると、「味土野は、御殿と書かれていた時期もあり、現在の記念碑が建立してある平坦面にガラシャの居城があったといわれています。谷の周囲には、現在でも矢に使う矢竹が確認でき、また樹の下にある観音堂の台石はガラシャが信仰した場所と伝えられています。この他にも古井戸、蓮池跡などガラシャの足跡を現在に伝える伝承や遺跡が多く残っています。
山深い味土野の里にある細川ガラシャ夫人の隠棲地(女城跡)(いんせいち)は、ガラシャ夫人の父・明智光秀が本能寺の変を起こした天正十年から十二年(1582~1584)までの二年間、ガラシャ夫人が幽閉されていた場所である。また、谷を挟んだ向かいの丘陵は「男城跡」(おじろあと)で、ガラシャ夫人に付き従った家来達の居城の跡と言われている。

調査者 上智大学文学部教授 ヘルマン・ホイヴェルス
東京女子高等師範学校長 下村 壽一

女城跡 御殿屋敷ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡
男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、当時細川ガラシャを警護するために作られた城」

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