NTV「日本史サスペンス」細川ガラシャ

/ 2月 9, 2009/ メディア/ 0 comments

NTV「日本史サスペンス」は数少ない楽しみな番組のひとつですが、
2/4は細川ガラシャを取り上げていました。

こないだ細川ガラシャのページをつくっていましたのでタイミング良く興味深く見ました。

http://sakezo.web.fc2.com/tajima/densetu9.html

最近、明智光秀と細川ガラシャ(正式には明智珠または玉)に興味を持っていて、本当に謀反人という悪い印象の人物だったのかが大人になればなるほど疑問に思えてくるからなのですが。

光秀の父母は早死したので、育ての親は叔母であったとも言われています。

本能寺の変の原因には諸説あるようですが、番組では光秀の信長怨恨説の一つ「丹波八上城に人質として母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。激怒した八上城家臣は母親を殺害してしまった(絵本太功記による創作)。」説をとっていました。

人質とされている光秀の母親が偽者(叔母)であったとする説もあります。この偽物説は、過去いくつかの書籍で取り上げられていましたが、丹波味土野には、口伝として光秀の母堂を隠しその身を守ってきたとする伝承があり、これを信じるとすれば、長年の恨み説の中で八上城に関する部分は人質である叔母の犠牲は伴うものの、本能寺の変の原因の主因としては考慮から外ずしてもよいことになります。

現在では八上城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされています。

信憑性はともかく、丹波味土野といえば天正10年(1582年)6月の本能寺の変後、細川ガラシャも幽閉されていたとされる場所です。
「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる。

丹後味土(古くは三戸野)の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実であるそうだ。

しかし、なぜ同じ地名なんでしょうか?単なる偶然?わずか3ヶ月だけ丹波に幽閉したのだろうか?
丹後は光秀領ではなく細川領だから、丹後味土野と丹波味土野は誤記ではなく別の場所だろうと考えたい。ではそれはいったいどこなんだろう。不明である。ならば明智領の飛び地が丹後味土野ではなかったのだろうか。

ネットで調べる限り丹波味土野がいったいどこなのかは不明でした。

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