JR東海会長・葛西敬之 霞が関改革を考える

産経新聞2008.12.10 02:22

 霞が関が低迷を脱するためには明らかに大胆な改革が必要である。しかしいささか安易に既定路線化しつつある現行論議を聞くにつけ目指す山頂は同じでも登山ルートを間違えているのではないかという危惧(きぐ)を禁じ得ない。

 企業にせよ国家にせよ衰え切った組織を再生するには旧体制の清算による非連続的な改革しかないと歴史は教える。企業の場合は市場での淘汰(とうた)が、国家の場合は明治維新のような革命か、大東亜戦争敗戦のような滅亡が「神の手」となって旧体制が清算される。公務員改革は国家の場合といえようが、手をこまねいて滅亡を待つわけにはいかない。とすれば「人の手」で再生させるしかないだろう。

 その際、霞が関全体をまとめて改革しようなどと考えてはならない。広範にわたり過ぎて「人の手」に余るからである。まず時代の変化に対応できず、弊害が著しい一つの省を取り上げて一つの企業に見立て、徹底した再生のシナリオを描いた上で「人の手」で清算し、新組織として再生させる、それが成功したら逐次他省にも及ぼしていけばよいのだ。

 しかしいま、霞が関改革はそれとは異なった切り口から進みつつある。多くの人が「政治主導の行政」に言及するが、政治こそポピュリズムに流れ、党派抗争に明け暮れて国を危うくしている根源であり、官僚は鏡に映った政治自身の姿に他ならない。従って「政治主導の行政」と言うのならまず政治を再生しなければならないことになる。また政治主導論の原点である議院内閣制もその基本は三権分立であり、選挙による交代を前提とする政治家と身分を保障された官僚の継続性が両輪として互いに補い合うことを期している。とすれば政治が混迷している今日は官僚が政治の劣化を補うべき時代ではないだろうか。

ウィキペディアにはこう書いてあります。
「未だに政治が何であるのかという議論は決着していないが、一般的に政治とは社会における公共的な意思決定とそれに伴うさまざまな活動を指す概念として捉えることができる。政治はあらゆる時代や地域における国家に普遍的に認められるものであり、為政者や人々の正義や利益、政策や文化が関連する非常に複雑な社会現象である。」

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