丹後式内社めぐり 旧竹野郡から与謝郡

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京丹後市久美浜町兜山(甲山)と久美浜湾


日本海丹後町久僧海岸

朝5時から、思い立って丹後の残る式内社めぐりを決行しました。5時にはすっかり日が昇っていて、ネット注文も済ませてから、式内社のコピー資料とグーグルで作成した式内社所在地マップ、デジカメ、スマホ、ボールペン。

但馬131座、因幡50座は制覇。丹後は65座のうち、10社程度しか回っていません。先週、先々週は京丹後市久美浜町、網野町木津を回り終え、今日は京丹後市網野町、丹後、弥栄、峰山、大宮、与謝郡与謝野町、加悦町、宮津市由良のハクレイさんまで予定しましたが、与謝野町で日没。。。

式内社は、谷や山深い場所にあり、地元の人に聞いても年配者でなければ分からないことがしばしば。スマホのナビ機能はマップを使ってきましたが、カーナビに近いグーグルNAVIを使ってみました。所在地を入力するとGPSで居場所を判断して音声で知らせてくれます。専用のカーナビがあればいいのですが、遠出以外に使いませんので、高価なので持っていません。もっと早く使えばよかったと思います。一筆書きで回るように予習していくのですが、それでも集落の中心にある社とは違い、奥まった場所に多いですからわかりづらい式内社があります。同じような場所を行ったり来たりで時間をロスします。

しかし、ナビの音声が「すぐ近くに来ました。」「目的地に着きました。」とか、辿り着いたときは面白いですね。

くわしい各神社については。「神社拾遺」ブログに書いていきます。

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【たんごる】 奥宮 真名井神社と雄略天皇

比治の真名井は峰山の比沼麻奈爲神社か宮津市大垣の籠神社奥宮 真名井神社か?

日本三景天橋立の西の付け根にある元伊勢籠神社本社の北東約400mの所に、当社の元の鎮座地である奥宮真名井神社(まないじんじゃ)がある。

丹後国一宮・元伊勢籠(この)神社は何度か訪れたことがあり、真名井神社にも一度訪れてみたかったが、観光客が多く、車では真名井神社には行きにくく、東に細い道があったことが分かったのではじめて訪れた。

社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。

養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めた。真名井原の元の鎮座地は摂社・奥宮真名井神社とされた。後に海神・天水分神が配祀された。祭神が籠に乗って雪の中に現れたから「籠宮」という社名になったという伝承がある。

伊勢神宮に内宮・外宮があるが真名井神社は外宮と同じ豊受大神。元伊勢籠神社は、豊受大神が伊勢に移る前に祀られていたところから「元伊勢」と称されている。

御霊水・天真名井の水

関裕二氏によると、こう著している。

浦島太郎は丹後半島に濃厚な伝承を残しているが、この地域でもうひとつ有名なのが「天の羽衣伝承」。『丹後国風土記』逸文によれば、丹波国丹波(京丹後市弥栄町丹波)(昔は丹波・丹後は一つの国で中心はこの辺りだったとされる)比冶の里を見下ろす比治山の山頂に井戸があって、あるとき、ここに八人の天女が舞い降り、真井(真名井)で水浴び(沐浴)をしていた。

この様子を見ていた老翁が天の羽衣を奪い取り、ひとりの天女が天に戻ることが出来なくなってしまった。これが豊受大神である。老翁の家を豊かにしたにもかかわらず、後に増長した老翁に裏切られるという話し。

また、『国司文書・但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記(一部他の郡を補足)には、

天火明命(あめのほあかりのみこと)*1は天照大神(あまてらすおおみかみ)の勅(皇の命令書)をたまわり、外祖、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)より、十種の瑞宝(澳津鏡一、辺津鏡一、八握剣一、生玉一、死去玉一、道反玉一、足玉一、蛇比禮一、蜂比禮一、品物比禮一)を授かり、そして、妃の天道姫命と与(とも)に、
坂戸天物部命 二田(ふたたの)天物部命
嶋戸(しまへの)天物部命 両槻(なみつきの)天物部命
垂樋(たるひ)天物部命 天磐船命
天船山命   天揖取部命
稲年(いきしに)饒穂命  長饒穂(たけにぎほ)命
佐久津彦命  佐々宇良毘売命
佐々宇良毘古命 佐伎津彦命
らを率いて、天磐船(あまのいわふね)に乗り、高天原より田庭(丹波)の真名井ヶ原に降り、

(天火明命は、)豊受姫(とようけひめ)命より五穀蚕桑の種子を得て、
射狭那子嶽(いさなごだけ)に就き、真名井を掘り、稲の水種や麦・豆・黍(きび)・粟(あわ)の陸種を作るべく、これを大小の田に植え、昼も夜も水を潅(そそ)ぐ。

まもなく、その秋には瑞穂の良い稲が野一帯に所狭しと豊かに実りました。
豊受姫命はこれを見て「阿那爾愛志(あなにえやし)。命これをさらに田庭に植えよ」と、大いに賞め、教えました。

しかるのち、豊受姫命は、天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの事業の補佐させました。しかしてのちに、高天原に上り給う。
故にこの地を田庭と云う。丹波の号ここに始まる。
(以下、朝来郡故事記は)
ゆえにこの地を名付けて、比地の真名井原と云う。(比地は奇霊地の義)

『国司文書・但馬故事記』第六巻・美含郡故事記
のち豊受姫命(大神)を、丹波国余謝郡真名井原に斎き祀り、豊受太神宮と称え奉る。
人皇22代雄略期の22年に、大佐古命を丹波に遣わし、豊受太神宮を迎え祀り、これを伊勢国度会郡山田に祀り、外宮と号(な)づけ祀る。

*1 天火明命…気多郡・養父郡・城崎郡故事記は、天照国照彦櫛玉饒速日天火明命

(註:式内 比沼麻奈爲神社(ひぬままない):京都府京丹後市峰山町次久、または丹後一宮籠神社 奥宮真名井神社:京都府宮津市大垣)

籠神社の籠とは

丹後半島の付け根に鎮座する籠神社には、豊受大神を巡るいくつかの伝承がある。豊受大神は最初「籠」に乗って現れたといい、また、籠神社の祭神が、竹で編んだ籠船に乗って降臨したことから、この一帯に浦島伝説が残ったのだという。

問題は、浦島太郎伝説と豊受大神が、同じ地域で語り継がれていることだ。また豊受大神は、伊勢神宮の外宮に連れて行かれ、内宮の天照大神に食べ物を供献する神となっていくのだが、なぜか『日本書紀』に無視された謎の神である。

注目すべきは、山幸彦の妻が「豊玉姫」であったこと、浦島太郎伝説の地・丹後に残された悲劇の女神の主人公が「豊受大神」だったことで、浦島や塩土老翁と関わりのある女神が、どちらも「トヨ」の名を冠していることである。

豊受大神は天の羽衣を着ることで空を飛ぶことが出来るが、その本質は、「海(水)の祟る神」であり、一方で「水野女神」は、人びとに豊饒をもたらす女神でもある。だからその名に「豊」の名を冠したのである。

「トヨ」の名を冠する女神たちが「海の女神」でもあるのはこのためだ。
「羽衣」は古代の重要な呪具である。豊受大神は「羽衣」を奪われ自由を失った。かぐや姫は月の都に帰るとき、「羽衣」を着ることで人間ではなくなるといっている。人間でないものとは、要するに神のような存在であり、事実、天皇は即位後の大嘗祭(だいじょうさい)で、「羽衣」を着込んだ瞬間に、人間ではなくなる。

つまり、「羽衣」は「人」が「神」になるための呪具であり、王権のシンボルでもあったのだ。持統天皇は天香具山の歌のなかで、天香具山のほとりで女神が沐浴(水浴び)し、羽衣が乾かしてあること、それを奪ってしまおうと、歌ったということだ。

要するに政権交替のチャンスが到来したことを言い表していたわけである。そして問題は、天の羽衣の持ち主が豊受大神(トヨ)であったこと、天橋立と羽衣伝承と真名井神社の祭神・豊受大神、天香具山でトヨが沐浴していた持統天皇の歌と、どうやら偶然ではないようだ。
というのも、天香具山の周辺には「トヨ」が満ちあふれているからである。

たとえば神武東征だ。
東征に際し、ヤマト土着の抵抗勢力の反発に困惑した神武であったが、神託を得て、天香具山の呪術を執り行った。天香具山の土を取って平瓦(ひらか)を造り、天神地祇を祀ったところ、敵を倒すことができた、というのである。

天香具山の豊受大神は、一方で、丹後半島の籠神社で祀られている豊受大神であり、ここでは、濃厚な浦島太郎伝説に彩られているが、この神社を守り続けてきたのは大海氏で、この一族は尾張系である。尾張氏の祖と同じ名をもつ天香具山が「トヨ」の山だった。とするならば、尾張氏はヤマトを代表する聖なる一族であった疑いが出てくる。その証拠に、天香具山の「カグ」は「カゴ」とも読み、神聖な「籠」を意味しているからである。

「カゴ=籠」は、古来大切な呪具として珍重されてきたからであり、天香具山が「天の籠山」であればこそ、神聖な山として尊ばれた理由がストレートに伝わってくるのである。しかもそれは、王権の行方を左右するほどの力を持った霊山である。「カゴ」はやはり、この上なく神聖な器=籠が相応しい。
それ以上に、『日本書紀』がこの一族の正体を抹殺したところに問題がある。なぜ八世紀、「籠の一族」の活躍を歴史から抹殺し、闇に葬ってしまったというのだろう。

尾張氏を巡っては、おおまかに言って二つの系譜が存在する。
ひとつは『日本書紀』の言う、皇祖神から枝分かれした尾張氏であり、もうひとつは『先代旧辞本紀』の、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)から天香語具山命(天香具山命)、そして尾張氏に続く系譜である。

ここでは『先代旧辞本紀』の記述に注目してみよう。尾張氏が饒速日尊から続いているという記述は、大きな問題をはらんでいる。というのも、ニギハヤヒは出雲の出身であり、大物主神と同一だからであり、つまり『先代旧辞本紀』の系譜は、尾張氏が「出雲」であった可能性を示しているのである。

継体天皇の謎解きに、尾張や出雲という要素は欠かすことができない。なぜならば、次第に明らかになっていくように、ヤマト建国後の東国は、「出雲」の強い影響をうけるからなのだ。そして継体天皇は、このような「東国の出雲」を背負ってヤマトに登場するのである。

尾張系の氏族の特徴は、籠神社の海部氏や大海氏というように、「海」の名を冠していることで、これは尾張氏が海上交通に秀でていたからに他なるまい。尾張氏は「海の豪族」で、尾張氏の祖神は「海の神」であるから、ともかうキーワードは「海」である。そこでもう少し、「海の民の生態」にこだわっておきたい。

「海の民」のテリトリーは、「海」に限定されていない。彼らはさかんに陸に上がり、野を開拓し、山を登った。だから「海の神」はいたりところで「開拓神」として祀られている。(中略)

神功皇后が実在し、しかもトヨであったという私見からは、邪馬台国よりも早く魏(中国)から「金印」を獲得した「倭の奴国」は、三世紀にはしきりに中国に朝貢していた「倭」が、ばったりと外交活動を停止してしまう。

この間、何をしていたかというと、もっぱら内政の充実に心血をそそいでいた気配がある。とくに東国を政権の枠組みに引き入れることに腐心していたようで、結果として五世紀に入ると東国の兵力を朝鮮半島に振り向ける体力を身につけることができるようになった。

それはおそらく、朝鮮半島南部の小国家群「伽耶(任那)」と利害を共有していたからだろう。弥生時代の北部九州は、この伽耶と同一の文化圏に属し、伽耶は島嶼部を利用した交易小国家群で、また鉄の生産でも群を抜いていた。

朝鮮半島は、北方騎馬民族の高句麗の南下に苦しんでいて、ヤマト朝廷は、高句麗から伽耶を守るために、さかんに出兵したのだろう。つまりは鉄資源の確保のための戦争といえる。

このような五世紀のヤマト朝廷の活発な動きは、中国大陸の王朝にも都合のいいことだった。というのも、万里の長城が騎馬民族の脅威が生んだ遺跡であるように、彼らにとって、高句麗に代表される騎馬民族国家は頭の痛い存在だったのだ。ヤマト朝廷が南側から圧迫してくれるとなれば、願ったりかなったり、ということになる。

このため、ヤマト(倭)の五世紀の大王は、ある程度の知名度を上げ、中国(この時代は宋)から、しきりに「称号」を出させるように運動した。これがいわゆる「倭の五王」と呼ばれる人びとで、『宋書』倭国伝には、讃・珍・済・興・武として現れ、これはそれぞれ、仁徳・反正・允恭・安康・雄略天皇のことではないかと考えられている。

彼らが獲得した称号は、じつに長々しく威厳に満ちたものだった。初めは安東大将軍・倭国王。そして倭の五王最後の武王=雄略天皇にいたっては、使持節都督倭・新羅・任那・加羅(伽耶)・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)六国諸軍安東大将軍と、いかにも日本列島から朝鮮半島までをも支配していたかのような響がある。

ただし、これを言葉通りに受け止めてはいけない。高句麗の南下を食い止めているヤマトの王権に対する、宋側からのご褒美であり、一種の名誉職といった方がいいかも知れない。しかし、実験を伴わなかったヤマトの王家が、宋から認められたことによって(もっとも実際に活躍していたのは物部氏を中心とする周囲の豪族層だっただろうが)増長していった疑いが強い。

そして五世紀後半、ついに独裁権力を握ろうとする雄略天皇という暴君が生まれたのだった。

【たんごる】 智恩寺(文殊堂)


文殊堂茶屋通り

食堂お土産店が並ぶいちばん賑わうところ(早朝だったので静か)

智恩寺(文殊堂)

日本三文殊のひとつで通称切戸(又は久世戸)の文殊堂として知られている。
智恵を授かる文殊さんとして有名で、受験や資格試験などの受験生やその御家族がお参りに来られます。
三人寄れば文殊の知恵という文殊とは、知恵を司る文殊菩薩のことを意味する。


山門

山門は、黄金閣とも呼ばれる市の指定文化財で、楼上に釈迦如来を中央に両脇士・十六羅漢を安置する、禅宗様式・三間三戸二重門の丹後地方最大の山門です。


多宝塔


本堂

文殊堂が現状のように改められたのは、明暦元年(1655)から始められた、宮津藩主京極高国による修理によるものです。平成九年から十一年までのあしかけ三年をかけて保存修理工事を行いました。


雪舟筆の「天橋立図」(国宝)には天橋立南端の本寺も描かれ、現存する多宝塔のほかに、裳階(もこし)付で宝形造とおもわれる建物が 描かれています。現在の文殊堂は裳階(もこし)付ではありませんが、屋根は宝形造であり、桁行柱間は裳階と同じ五間です。この建物が現在の文殊堂と 同じものであるかどうかの確徴はありませんが、内陣の四天柱には十三世紀初めに遡るものがあり、その形姿は中世のたたづまいを継承していると思われます。


智恵の輪 灯籠

智恵の輪灯籠の輪を3回くぐれば文殊様の智恵を授かるという言い伝えがあります。
享保11年(1726)刊行の「丹後興佐海名勝略記」巻頭を飾る「丹後興佐海天橋立之図」中、「天橋立之智恩寺」海岸に、すでにこの輪灯籠が見られます。
江戸時代には、輪の中に明かりがともされ、やみを照らし文珠水道(天橋立運河)を行き来する船の標になっていたと言われていますが、龍神を呼び寄せるため、明かりを灯していたとも言われています。
例祭
一月十日 文殊堂十日えびす
七月二十四日 出舟祭
八月十六日 宮津燈籠流し
日本三大灯龍流しの一つ

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【たんごる】 久々に天橋立を歩いてみた

早朝の天橋立。何年ぶりだろう。
全長約3.6km、幅20~170mの砂嘴でできた砂浜には、大小8,000本もの黒松が生い茂っており、日本の名松百選にも選ばれています。

  
天橋立から文珠山山上にある天橋立ビューランド 府中の籠神社方面

  

  
与謝野鉄幹・昌子歌碑           与謝蕪村歌碑

  
橋立明神(天橋立神社)          社殿

正面は豊受大神、向かって左は大川大明神、右は、八大龍王(海神)が祀られています。

  
磯清水                  石碑

日本名水百選に選ばれている「磯清水」は四方を海に囲まれた場所にもかかわらず少しも塩味を含んでいないことから古来不思議な名水とし、「長寿の霊泉」とされています。
今も絶えることなく、天橋立を訪れる多くの人々に親しまれ、昭和63年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けています。
俳句にも「一口は げに千金の磯清水」などともることから、橋立に遊ぶ人々には永く珍重されてきたことが明らかな名水です。

文字はきれいなので補修されているようだが、碑自体は江戸時代からのもの。

岩見重太郎 仇討ちの場
試し切りの石があったのだけど、うっかりして見つけられなかった。

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【たんごる】 丹後国分寺跡と丹後国府推定地

古代丹波

かつては丹波(たにわ)が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心は日本海に面した丹後半島地域だった。水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に日本海側最大の巨大な三大前方後円墳などが多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある。弥栄町丹波という地名が残る。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。
和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれた。

丹波から丹後へ降格?

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられている。南部の桑田郡(亀岡)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる

籠神社(与佐宮)が元伊勢といわれるように、元丹波なのだが、そういう国名は例がなく、朝廷からの位置関係で分割された場合は吉備のように前・中・後とつけられているのに習ったのだろう。
い。

丹後国府

国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。
ただし、「易林本」の節用集では、与謝郡とある。現在の宮津市府中と推定される。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間 (931年 – 938年) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。

今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。

「節用集」(せつようしゅう)とは、室町時代に成立した国語辞書の名称で、当時の書き言葉を語頭のイロハ順に分け、天地・時節・草木・人倫など12前後の意義部門別に多少の注記をほどこして示すのが特徴である。江戸時代に流布した節用集の基となったのが、『節用集(易林本)』である。易林本とは西本願寺の平井休与易林(号は夢梅)が編集したので、多くの節用集の中で特異な存在で区別するために呼ばれる通称である。

地元の但馬国府が何かの事情で三度ほど同じ気多郡の近隣地に移転したことが分かっており、一説には出石(はかざ)もその前には国府ではなかったかという節もある。同様に丹後国府も天災等で加佐郡から与謝郡の現在地に移転したことは不思議はない。

しかし、加佐郡からいまだに国府跡・国分寺跡と思われる遺跡が見つかっていないので分からないが、平安時代より前の奈良時代の律令制が制定されたころから、山陰道の丹後への支道が与謝郡加悦から籠神社へ通じていたようだし、加佐郡は七道から外れている。宮津市国分・府中という地名からも、記録的に和名類聚抄および拾芥抄が「易林本」の節用集よりも古いといえ、奈良時代に宮津に国府・国分寺が置かれていたのは間違いない。平安時代には国府が何かの事情で加佐郡に移った可能性があるが、以降の鎌倉時代中期からの記録では与謝郡となっているから、丹後の位置からも、丹後支道に入っていないし、都からの交通の利便からいっても、丹後の東端にあたる加佐郡(舞鶴)よりも、中央の与謝郡に国府・国分寺を置いた方が自然だ。


ふるさとミュージアム丹後(京都府立丹後郷土資料館)
京都府宮津市字国分小字天王山 611-1

丹後・丹波の歴史や文化の展示を行っている。1970年に創設された丹後で最も伝統ある資料館。考古展示・歴史展示・民俗展示に分かれている。

宮津湾に面して天橋立の西側に阿蘇海という内海が広がる絶好の景色を見下ろす丘に位置する。寺跡には、寺域全域、金堂、筆跡、礎石が残るのみであるが、しかし、国分寺はのち荒れるにまかせられ、創建当時の様子を知る資料は、軒瓦が二点残されているだけであり、礎石などものちの再建時に移動されており、寺域などほとんど分かっていないのが実情である。現在の史跡は、天平国分寺跡ではなく、鎌倉時代に再建された建武国分寺跡だそうです。

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国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀) 京都国立博物館所蔵

画面に作者を明示するような落款・印章の類はないものの、全体の筆法や構図、図中に書き込まれた地名の文字の書体などから、雪舟(1420~1506頃)筆とみなされている作品である。
図にはほぼ中央に天橋立の白砂青松と智恩寺が表され、その上方に阿蘇海をはさんで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と成相寺の伽藍が配されている。一方、橋立の下方には宮津湾がひろがり、またそれを囲むように栗田(くんだ)半島の山並みがその下端になだらかに横たわっている。広大な空間を感じさせる、開放感たっぷりの構成である。
この図が実際の景観に基づいて描かれているのは確かだが、実景そのままを絵画化したというものではなく、成相寺の建つ山を極端に屹立(きつりつ)させてみたり、府中の町並みを横に引き伸ばすなどの変更が見て取れる。またかなり高い位置から橋立とその周辺を捉えているが、このように見える場所も実際は存在しない。近年の指摘によれば、こうした実景との違いは、雪舟が中国画の学習で培った山水画の画面構成法をもとにして実景部分を再構成したためであるという。とくにこの図の俯瞰(ふかん)的な構成法は、おそらく中国の景勝地を描いた西湖図などのそれを強く意識した結果なのであろう。
筆遣いはいたって荒々しく、まさに一気呵成に仕上げた感があるが、かえってそれが図に独特の躍動感、力強さをもたらしている。寸法の違う21枚もの小紙を不規則に貼り合わせた紙に描かれていることや、描き直しの跡が認められることなどからみて、本来は完成画(本絵)ではなく、下絵であった可能性が高い。もしかすると、すでにみた荒々しい筆さばきもそのあたりに原因があるのかもしれない。(京都国立博物館所蔵)


旧永島家住宅

旧永島家住宅は、京丹後市丹後町徳光にあった農家の母屋で、天保11年(1840)に建てられました。永島家は、江戸時代に宮津藩の大庄屋を務めました。
この建物は、丹後地方の民家の特徴である「平入り広間型三間取り」が「整型四間取り」へ変化した初期の建物です。
屋根が茅葺きで、室内の天井は鉄砲梁など大庄屋らしく整えられています。
(ふるさとミュージアム丹後)

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【たんごる】細川ガラシャ夫人隠棲地

京丹後市弥栄町味土野

丹後に古墳を尋ねる帰り道、前から訪ねてみたかった細川ガラシャ夫人隠棲地に日暮れになっていましたが、行くことに。

細い山道を苦労して標高400mの地にたどりつくと、すっかり日が暮れて記念碑は見ることができませんでした。

味土野は男城と女城の御殿から来た地名らしい。

天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君、織田信長のすすめによって坂本城より、勝(青)龍寺(京都府長岡京市)城主細川藤孝(幽斎)の息子忠興に嫁ぎました。珠(たま)は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれましました。 しかし天正10年(1582年)、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となります。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉します。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達でしました。

珠の幽閉先とされる場所ですが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実です。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」があります。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられます。

細い山道を苦労して標高400mの地にたどりつくと、すっかり日が暮れて記念碑は見ることができませんでした。女城跡に建てられている弥栄町の案内板によると、「味土野は、御殿と書かれていた時期もあり、現在の記念碑が建立してある平坦面にガラシャの居城があったといわれています。谷の周囲には、現在でも矢に使う矢竹が確認でき、また樹の下にある観音堂の台石はガラシャが信仰した場所と伝えられています。この他にも古井戸、蓮池跡などガラシャの足跡を現在に伝える伝承や遺跡が多く残っています。
山深い味土野の里にある細川ガラシャ夫人の隠棲地(女城跡)(いんせいち)は、ガラシャ夫人の父・明智光秀が本能寺の変を起こした天正十年から十二年(1582~1584)までの二年間、ガラシャ夫人が幽閉されていた場所である。また、谷を挟んだ向かいの丘陵は「男城跡」(おじろあと)で、ガラシャ夫人に付き従った家来達の居城の跡と言われている。

調査者 上智大学文学部教授 ヘルマン・ホイヴェルス
東京女子高等師範学校長 下村 壽一

女城跡 御殿屋敷ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡
男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、当時細川ガラシャを警護するために作られた城」

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【たんごる】 赤レンガ博物館・舞鶴引き揚げ記念館


赤レンガ博物館

舞鶴引き揚げ記念館と共通券400円で。

舞鶴市には、明治34年(1901)の旧海軍舞鶴鎮守府の開庁に伴い、海軍が建設したものを中心に多くの建造物が現存し、風雪を経た赤れんがはエキゾチックな雰囲気をかもし出しています。 この赤れんが博物館建物は明治36年(1903)に旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として建設されたもので、本格的な鉄骨構造のれんが建築物としてはわが国に現存する最古級のものとされています。 舞鶴の個性の-つとなっている、れんがのもつ魅力を多くの方々に実感していただくことを目的として赤れんが博物館を開設するものです。
(鉄骨れんが造・2階建。廷床面 積842.44平方メートル舞鶴市指定文化財)
-舞鶴市-

海軍倉庫跡を改装しレンガをテーマにオープンした日本でも唯一の博物館です。
舞鶴は、日本海屈指の軍港として発展し、現在は海上自衛隊の6つの地方隊で日本海を防衛する舞鶴地方隊が置かれ、第八管区海上保安庁があります。

すぐ近くの岸壁にはイージス艦が停泊していましたが、事前に予約の電話をしたところ、残念ながら演習が行われるということでイージス艦の見学はできませんでした。

「岸壁の母」で有名な舞鶴に開館した日本でも珍しい引き揚げ者の記念館です。

舞鶴引揚記念館は、再び繰り返してはならない戦争の悲劇、悲惨な引き揚げの史実を後世に伝えるため、市民をはじめ引き揚げられた全国の皆様のご支援、ご協力いただき、昭和63年(1988)4月に開館しました。
昭和20年(1945)から昭和33年(1958)年までの、13年間の長きにわたり、引き揚げの町として、最後までその使命を果たした足跡と、戦争の悲惨さを永久に語り継ぐ平和の「シンボル」として、建設したものです。
戦争を知らない世代の増加とともに、引き揚げの史実は過去の出来事として、年々遠ざかりつつあります。しかし、その苦しみと悲しみ、平和の尊さを忘れ去ってはなりません。
これからも、国内はもとより全世界へ、「平和の尊さ・平和の祈り」のメッセージを絶えることなく発信しつづけます。-舞鶴市-

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伊根町の舟屋風景

一度実際に訪れてみたかった場所である。伊根町は丹後半島の北端に位置している。古くから漁業の町として知られ、伊根湾の舟屋といわれる砂浜近くに船を格納できる建物が軒を連ねる風景は、全国でも珍しく、とくに波の荒い日本海では他に見ることができない。

天橋立の籠神社を参拝するついでに足を向けてみたが、結構遠かった・・・。バイパスができているが細い旧道界隈は、古い土蔵や舟屋付の細長い京の町屋風の母屋が並び静寂な風情は趣きがある。その佇まいの中に京の春・ええにょぼの蔵元があるが今回は寄らずに帰った。

【たんごる】 豪商稲葉本家


京丹後市久美浜町

天橋立に行く途中、如意寺・日切不動尊に久しぶりに寄ってみたくなり、久美浜の町を通っているとすごい豪邸が目にとまった。何だろうと不動産の帰路に立ち寄ってみた。  中を覗いてみると作務衣を着た女性が「いらっしゃいませ!」と声をかけられた。

平成13年に14代当主に当たる稲葉昭次氏から土地を買収、家財・文書を含む建物を提供いただき、歴史的建造物の保存修復と、町内外の人々が交流できる場として一部を改修し、平成15年から一般に開館(入館無料)したのだそうだ。玄関を入ると吹き抜け造りの天井には欅の太い梁に圧倒される。


展示蔵

「どうぞ上がって見学していって下さい。」といわれたので各部屋や蔵を利用した資料室、庭、吟松舎といわれる母屋に隣接する建物や、そのスペースを利用して稲葉本家ゆかりの「ぼたもち」や「とろろ飯(要予約)」がいただける。 あまり知られたくない穴場的な思わぬ安らぎのスポットを発見したようでちょっと嬉しくなった。

でもこれだけ保存状態が良いのは珍しいのでは。  稲葉家は織田信長のの家臣団、美濃三人衆の一人稲葉一鉄の縁者北回り船の交易、金融で栄え、久美浜縣(丹後・但馬・丹波・播磨・美作)が設置されると、勧産用掛頭取・熊野郡区長・但馬区長府議会議員、衆議院議員、明治鉄道施設等、久美浜町は元より京都府の発展に貢献した稲葉家。今日の今日まで知らなかった。

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