但州湯嶋道中独案内と筑紫紀行巻九(城崎道中記)

豊岡市立歴史博物館主催のとよおか市民学芸員養成講座応用編で、昨年から「候文に慣れる」「くずし字に慣れる」「古文書の整理方法」を学び、今月は同じシリーズで「古文書の解読」が2月27日から始まった。

「但州湯嶋道中ひょう案内」は、江戸時代の城崎温泉ガイドブックのような携帯用に小さな冊子である。

温泉効能の概略、城崎温泉の行き方・温泉繁盛の由来・五つの湯の紹介・付近の観光地がまとめられている。江戸時代後期、お伊勢参りをはじめ庶民はまだ御講での旅が広まったのであるが、これは観光ガイドブックのはしりとして面白い。今も昔も大して人々の文化度は変わりないばかりか、江戸期の文化度の高さは、同じ発音でも微妙に字を使い分ける仮名遣いが、現代のひらがなより豊かであったし、心や想像は豊かであったと思うのだ。

ちょうど数年前にネット検索で出会った「筑紫紀行」を再度養父神社や気多郡以外すべてを解読していた。同じ早稲田大学図書館蔵である。
難解なくずし字は解釈が間違っているかもしれないが、大きくは違ってはいないと思う。

それをさらに村々の当時の様子を克明に記したのが、以下の紀行文である。

筑紫紀行巻九より

東構区と宵田城南構

私の生まれ育ち、現在も暮らす区は東構(ひがしかまえ)区という。大正12年に舂米(つきよねとも言うが、正確にはつくよね)神社を建立したとあるので、その数年前である。来年、平成27年(2015年)区創立百周年を迎えることとなる。

1985(昭和60)年の70周年記念誌『ひがしかまえ区誌』によれば、

「大正の初期には、祢布区から出て来た者の他、他地区からの居住者もあり、約三十戸に達し、暫らく独立の機運が高まってきた。(中略)

大正四年四月、日高村議会に新区設立を申請し、承認を受けたことにより、祢布区から分区し東構区として独立した。

議会申請第拾七号議案

西気県道筋 岩中村所属 祢布村所属ヲ合ワセ行政上便宣の為一ノ
行政区ヲ設置其ノ名称ヲ
東構ト定ム

大正四年四月二十五日
日高村長 藤本俊郎 印
認可ス 印

以下、沿革

明治2年、祢布村の住人田里順三郎氏が、祢布字北構に出村して住居を構えたのが最初とされる。
〃 6年、長谷川周治氏、古川徳兵衛氏がこの地に移り住む。
〃 7年、岩中字東柳に日高村立東柳小学校設立(現在の日高小学校の前身)。
〃 7年以降、前記先住者の外に、4名が相協力して部落への来住を各所で勧誘し、建築資金不足者には頼母子講を以って建築資金を融通する等、大正13年までの約四十年間にわたり鋭意住民の増加に努力して、区形成の基盤を固めていった。
大正2年、阿瀬水力発電所完成。供給開始。
〃 3年1月、独立を前提として集会所(寄付台帳では倶楽部となっている)新築を計画。ニカ年にわたって寄付金を募る。
〃 4年8月、平屋建面積(15坪)の集会所及び、一部消防器具庫を兼ねた火の見櫓を建設。(今の4組小林盛夫氏宅)
〃 7年、藤本俊郎村長が県に運動して、兵庫県蚕種製造所を誘致。東構に開設。東構住民の良き働き場所として大変歓迎された。
〃 10年、日高、宿南、三方、清滝各村の伝染病隔離病舎計画が起こり、建設地を日高村の中央に位置する東構区(現在の日高医療センター)に決定する。
〃 区民は、祢布の楯石神社に参拝していたが、他地区から転入する区民が増加するに従い、祢布村出身者以外の者の神社参拝を遠慮されたしという通達が祢布村よりあり、これを機に大正12年、自区内に神社を建てようという機運が盛り上がる。
〃 12年頃、バイパス案を作成、新県道建設
〃 13年4月、日高上水道株式会社が設立。7月20日給水開始。

〃 15年1月、社殿建築決定。用地取得と社殿の建築には巨額の費用が必要としたので、総予算額を各戸の経済事情に応じて割り当てし、四年間の分割徴収を行った。
境内登記(十六坪 長谷川丈エ門寄贈) 岩中東柳56 152坪2合 3月18日登記
〃    6月23日、社殿落成。区民の意見を取りまとめた結果、明治神宮の遥拝所に決定。長谷川利雄氏が区を代表して東京へ行き、明治神宮の遥拝所としての認可を受ける。祭事には明治神宮ののぼり旗を立てていた。
昭和2年、三方村荒川の吉田神官が舂米(つくよね)神社の御神霊を奉持されていることを聞き、それを勧請し、県の神社庁にも登録され、正式に舂米神社となった。なお、祭神の本社は、鳥取県若桜町の舂米神社である。
〃 8年、火葬場の建設については、確かな時期は不明であるが、昭和八年四月の日付で村議会議事録に「東構火葬場に達する道路改良工事施行の件」と上程されているので、この時以前に建設されていたと思われる。
〃 36年には区の戸数は90戸に達し、舂米神社の地続き岩中字東柳(現在地)に新築。
〃 37年、町立の養護老人ホーム「ことぶき苑」完成
〃 42年、区長、副区長、会計の他に事務長を置き、従来の老人会・青年団・婦人会等外郭団体への財政補助を廃止。また区独自の区民運動会を計画実施する。

区名の由来

新区は、大字祢布と大字岩中から成り、区名の「東」は岩中字東柳から、「構」は祢布字北構から取り、「東構」と名付けられた。

区粋はすべて祢布の地番ではなく、下の地図をみるとお分かりいただけるように、面積の約半分は岩中地番であり、神社と公民館も祢布地番に近いが正確には岩中地番にある。

ところで、構や西構もないのになぜ東構なのかと思う。これは区名となった東構のいわれは、区域の西端にあたる祢布字「北構」の「構」と、区域の東端にあたる岩中字「東柳」の「東」と「構」を合わせ東構としたものである。
明治に旧気多(けた)郡日高村という村名が発足したいわれも、『郷土誌 日高村』には、「日高村ハ往時、日置・高生・高田・気多・太田・楽前ノ六郷ニ分属シタリシガ、近古、日置・高田二郷の頭文字を取リテ日高村ト改称セルナリ」とあるが、それに倣ったのかもしれない。

『但馬の中世』p251 宿南保氏に、南構について触れられている。

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『但馬の中世史』宿南保氏著より

垣屋氏の本拠地は、しばしば述べてきたように、三方庄・楽々前庄であった。ここは円山川支流の稲葉川の中・下流域である。垣屋氏の居城はこの庄域に集中している。東西に伸びるこの谷の入口部を制する位置の南側の山上に宵田城、その真向かいの北側に祢布城があって、その両域を結ぶ平地部の直線上には、「南構」「北構」の小字名が橋渡しのように接続して並んでいる。明確に入口部に防衛線が構築されていたことを物語っていよう。南構と北構の境界線上には街道があって、それが西方向へと伸びていたのだろう。南構の西に細長い「市場」字名の存在することは、街道沿いに市場の形成されていたことが読み取れる。

(現在の東構区に隣接する久斗区東部)


赤点線域 祢布


赤点線域 岩中

上図のように、国道312号線城山トンネルの真ん中あたりに宵田城跡がある。その北構と南構の境界線は、西の下道(西気道)とすると、現在の旧県道にあたり、その旧県道に離接する北側で、おそらく北構は中川までだろう。東は祢布区に北に伸びる道までが祢布。道から東は岩中だが、宿南保氏の図によれば、北構は、中川から旧県道までの間に岩中地番までだろうか。その旧県道に隣接する南側から稲葉川までが南構である。祢布区につながる道の西までが祢布、東からは岩中になる。旧県道はJR山陰本線をまたぎ、江原本町で旧国道312号と合流する。岩中字東柳は、現在の日高小学校の前進、東柳小学校があった。旧県道の日高小学校入口あたりである。

現在の行政区域は、本籍上は上記の祢布と岩中であるが、西北部が祢布であるが、その他の大部分は岩中となっている。ちなみに明治までは祢布は高田郷、岩中は高生郷と異なる郷であるように、祢布と岩中の田畑地域で、何時頃から居住者があったかは定かではないが、大正期に東構発足時、十数軒と記されている。

「市場」について考察

ここで、別に東構区の西にある久斗区の小字名、「市場」に触れておきたい。気多郡の中心部を東西につなぐ西の下街道をはさんで宵田城の北構と南構が構築され、その街道上に市場があった。既出の宿南保氏『但馬の中世』の「市場村と諸街道」に、『兵庫県小字名集』但馬編にある中世に成立した但馬の市場のなかで、豊岡市日高町の市場は、道場、久斗の2カ所が記されている。南北朝期の山城跡で、垣屋氏の居城楽々前(ささのくま)城が遺存している道場の小字に市場があった。室町後期、垣屋氏は明徳の乱以後、垣屋隆国の孫三人に別れ、楽々前城、宵田城、轟城を受け持った。山名家の筆頭家老の座につき、久斗の字市場は、祢布との境の村の入口部で、「構」の要害に接する位置である。おそらく南北朝から室町期に宵田城築城により、道場から久斗へ移ったのだろう。

室町期に創築ともられる山城のところでも、城主居館地に接して市場字名地が残っている例のあることはわかっているのであるが、だいたいのところは、小字名として残っている市場のところは、南北朝期に始まった市場の地とみてよいのではなかろうか。

集落名となっている市場は室町期成立

これに対し室町期になると、一集落名全体が市場となったことを表す集落名が現れてくる。一日市とか出合市場(いずれも豊岡市)などである。それは市場維持の要因が、地方権力の保護よりは、農民流通の便利な場所に重点が移ったことによると考えられる。したがって、その出現地は地域の中心地で、自然発生的な姿である。同時に、南北朝期の市場のなかには廃れるものも現れてくるはず。

宵田城址は正しくは岩中地番であり、現在、岩中区が城山公園の管理をされている。円山川沿いの旧国道312号線が宵田区で、なぜ岩中なのに宵田城なのかと思う。垣屋氏の殿屋敷(居館)が宵田にあったのだろう。山名氏の趨勢が衰えて但馬守護代の筆頭となった垣屋氏は、木崎城(豊岡城)代となり、屋敷を置いたことから豊岡市の豊岡城東に宵田町という地名や出石町にも宵田町が残っている。垣屋氏は宵田殿と呼ばれていたと考えられる。

集落名としては但馬では旧朝来郡伊由市場、加都市場、糸井市場、旧養父郡の養父市場、大屋市場、旧出石郡の出合市場、久畑市場、城崎郡の九日市、一日市、穴見市場、美含郡の市場(現豊岡市竹野町森本・坊岡、七日市、一日市(現美方郡香美町)、旧美方郡の菟束市場(現香美町村岡区福岡)、二日市(新温泉町、旧浜坂町)

気多郡には府市場が今でも残っているが、これはもっと古く、国府があったことによるとみられている。しかし、太田文には国府(こふの・こうの)市場・手辺とされるところで、府中とも称されていた。府市場となったのはまだ新しい

南構遺跡(兵庫県豊岡市日高町久斗)について

いただいたパンフレットから

去る10月26日(土)、一般国道483号北近畿豊岡自動車道(八鹿豊岡南道路)の建設に伴い、豊岡市久斗(本籍は祢布)の南構遺跡の現地説明会が行われました。当日告知があったのかなかったのか、それもネットから知って毎日新聞一社のみでした。翌日現地へ行ったみました。

『国司文書 但馬故事記』をすべて現代文にしてみた

昨年、知り合いの人から写本を借りた、神社や但馬国史が記された無比の書『国司文書 但馬故事記』と『国司文書 但馬神社系譜伝』『国司文書別記 郷名記抄』。全国的にもこれだけの神社史料は残されていないそうだ。

早朝から、いろいろ直して第二巻・朝来郡故事記の最終部分を更新し、ようやく八郡すべてを終えた。
同じ人名や地名などでも違う漢字が使われていて、それは原文からのか、写してのものか分からないにしろ、なるべくそのまま書き写した。
なお、自分の出来る範囲で説明を加筆した。

但馬西部の古墳

出雲国造の同祖とされる二方(ふたかた)国造の名が記されていることからも、但馬国がまとまる前は、但馬西部には因幡・出雲に近しいクニが存在していたようです。

八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)

香美町村岡区福岡
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室
・県指定史跡

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められるといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器(はじき)や須恵器(すえき)が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。京都府福知山市夜久野町でも竪穴式石室が見つかっています。

流尾・長尾古墳

京都府福知山市夜久野町大字平野小字流尾、小字長尾

1961年、偶然発見されたが、当時夜久野中学校上校(現在宝陵中学校)の移転地とされていたため、緊急発掘調査が行われたものである。この二つの古墳は、同じ台地上の突端部に流尾古墳、その西約80mの台地端部に長尾古墳と、南面の見晴らしのよい高台に並んで築造されていた。

流尾古墳で注目されるのは石室の構造で、長さ5.13m、幅1.1~1.38m、高さ1.2mの羨道式窓のある竪穴石室で四壁の下半部は同時に石積みされ、上半部は三方と窓の壁を積み、埋葬後天井石をのせたもので類例のないものである。天井石は6枚で構成され、その最大のものは長さ2.2m、幅1.3m、厚さ0.2~0.3mあった。

こういった形式は、朝鮮慶尚北道達四面古墳群等の影響を受け5~6世紀に本邦に伝わって来たものではないか、又これらの形式は竪穴系横口式古墳と呼ぶのにふさわしいのではないか、言われている。(「日本の考古学」近藤良郎、藤沢長治編に記述)

■竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

古墳時代前期から中期にかけてよく見られる古墳の埋葬形式である。発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。中期には、先に石室を構築してから埋葬を行う、異なる系統の竪穴式石室が出現しています。これらは割石積みで構築されていますが、長さが短く、やや幅広の平面形の石室で、中期後半から後期にかけて、北部九州地方や中国地方、和歌山県の紀ノ川流域などで見られます。これらの石室は、旧来の竪穴式石室からの変化というより、朝鮮半島南部の洛東江下流域、の伽耶地域に顕著にみられる竪穴式石室からの影響を考えるべきものと思われています。

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大薮(おおやぶ)古墳群 (養父市大薮)


画像:養父市

兵庫県養父市大薮

兵庫県養父市養父地域の円山川右岸道路に隣接した南斜面の丘陵地に大薮古墳群があります。兵庫県を代表する、古墳時代後期のに造られた古墳群です。地形は大薮集落を中心として両側に弓形に広がっています。北に山を背負い、南前方には円山川が流れています。そして川の向こうには養父神社をみることができます。兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群です。

  

 

大薮古墳群の大型古墳は、東からコウモリ塚古墳・塚山古墳・禁裡塚古墳・西の岡古墳など4基の古墳が作られています。また横穴式石室をもつ中・小規模の古墳群として、東から小山支群・野塚支群・穴ヶ谷古墳群などがあります。道林古墳群は石棺や木棺を埋葬施設とする5世紀後半から6世紀前半の古墳群。これらの古墳をすべてあわせたものが大薮古墳群で、約150基の古墳群が造営されています。北近畿でも最大規模の石室墳として注目されており、考古学や歴史ファンの間では「但馬の飛鳥が大薮だ」とも言われています。

大薮古墳群では6世紀から7世紀にかけて禁裡塚古墳を契機として、塚山古墳・西の岡古墳・コウモリ塚古墳といった順番で但馬最大の大型古墳が次々と作られました。しかし5世紀に朝来市和田山町で但馬最大の古墳である池田古墳や茶スリ山古墳を作った地域には、大薮古墳群クラスの横穴式石室を持つ古墳はありません。こうした事から、6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

大薮古墳群は、はたしてだれが作ったのか。簡単には説明ができません。禁裡塚古墳などの大型石室は、奈良県の飛鳥地域にあっても並々ならぬ規模を誇る大型の石室です。但馬らしい田園空間に今も良好な状態で残る大薮古墳群は、名実ともに兵庫県を代表する古墳群だ大薮古墳群クラスの古墳はなく、こうした事から6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

養父市ページより

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若水古墳群A11号墓・若水城跡

若水古墳群A11号墓・若水城跡


写真:兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
朝来市山東町一品

同遺跡は、粟鹿神社の西側の小さな山塊。『若水城跡』は、山塊の最高所を中心に展開する城跡であり、本城跡は、北方から南下してくる山名氏の軍勢をいち早く察知できる唯一の場所であり、竹田城への東からの谷口を押さえる重要な位置にあることが分かります。天正5年(1577)あるいは天正8年(1580)に、羽柴秀吉(実際には弟の秀長)が但馬侵攻に際して造った陣城と考えることができるそうです。

若水A11号墓は、直径40m、高さ5mを誇る円形の墳丘墓(古墳?)です。直径20m~25mの広さをもつ墳頂の平坦面からは、2つの埋葬施設が発見されました。木棺の両端に石を積むという構造で、似た例としては舞鶴市川向古墳群がありますが、全国的に見ても他には例がありません。第1主体部は10m×5mの大きさの墓穴の中に、長さ約6m、幅約80cmの木棺を納めています。遺物は、鏡(飛禽鏡:ひきんきょう)が1面、漆塗り木製品(容器?)、鉄製品(鉄鏃?)が出土しています。木棺の形態は、円筒形の形をもつ「割竹形(わりたけがた)木棺」の可能性を現在のところ考えています。出土した飛禽鏡(ひきんきょう)は、全国的にみても9例しか存在しておらず、また中国大陸、朝鮮半島でも10数例程度しか確認しておりません。日本での確認例は、弥生時代末から古墳時代初頭の時期に集中しており、時期を決定する決め手となる遺物があまりない若水A11号墓も、鏡や墓の構造などから、この時期の墳丘墓(古墳)であると考えています。

第2主体部は、6m×3m以上の大きさの墓穴の中に、長さ約5m、幅約60cmの木棺を納めています。遺物は小さなガラス玉(直径2~3mm。その中に穴を空けています)が10点以上出土しています。 木棺の形態は、箱形木棺と考えています。 この埋葬施設で注目すべき点は、木棺の周囲を拳大~人頭大の石で囲み、 底には平坦な石を敷いていることです(礫槨状)。 また、若水古墳群A11号墳は、内行花文鏡という銅鏡2面(1面は飛禽鏡といわれるもので日本で十数例しかない珍しいもの)、鉄製のナイフ(刀子)1点と、直径2~4mm程度のガラス小玉50点以上出土しています。南但馬における最も古い大型古墳で、池田古墳、城の山古墳、茶すり山古墳同様、南但馬の王墓の一つと考えられています。若水古墳群A11号墳は南但馬最古の大型円墳です。

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