放送大学最後の面接授業と山城・大和式内社めぐりプラン

2005年より10年がかりであと3単位となる。残るは放送授業2科目と面接授業1科目。明日の面接授業が最後の機会となると思うと名残惜しい気がする。奈良というと我が家からは遠いという先入観があったが、所属の京都学習センターに行くのと奈良学習センターに行くのと、京滋バイパスができたことで30分ほどしか違いはなく、2時間半で奈良へ行くことが出来る。中国自動車道から生駒トンネルを越えて行くのが最短ルートであるが阪神高速の空港線・環状線は混むし、分岐が複雑で気を使うので大阪ルートとは10分ほどしか違い。豊岡自動車道・舞鶴若狭道から国道372号で千代川から京都縦貫道・(沓掛)・京滋バイパス・第二京阪道・京阪和道路と乗り継げば料金的に最安。しかも土日はETC割引が適用される。

7・8日は馴染みの奈良学習センター(奈良女子大内)へ。

面接授業は土日2日で各午前9:45から午後16:35の8時間みっちり

科目名:「ライフコンピューティング」

講師:城 和貴 奈良女子大教授

行楽シーズンで奈良市内は高級ホテルを除きどこも満員で、柳生の里の民宿「久保田亭」をとった。市街から約30分かかるが、その合間に式内社の天乃石立神社や夜伎山口神社が近いというメリットもある。

実はここ数日、山城国南部と大和国北部の式内社めぐりという別の楽しみをプランしていた。

大和(奈良県全域)は、全国で式内社が最も多く、大社128座85社(うち名神大社47座26社)・小社158座131社の計286座216社もある。奈良県の南部は森林地帯で、人口・式内社も北部に集中している。しかし、経験上3時間で回れる数は20社程度だ。京都府八幡市・京田辺市・城陽市・木津川市・精華町、奈良県奈良市38社を点と線でルートをGooglemapで計画。多分半分回れればラッキーだろう。

養父市建屋の楯縫神社をたずねて

  

GWで休みではないが、但馬國式内社で最後に残っていた式内 楯縫神社をたずねた。曇り空の夕方近くのため、撮影がピンボケ気味で再びめざす。

帰りは広谷地区の十二所神社・軽部神社にも寄って、100万ボルトでスマホのシガーライターケーブルのUSBアダプタを買う。

詳細は 「神社拾遺」

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三川権現社・式内 美伊神社を訪ねて


美伊神社下から三川山を望む

14日に、三川山の北の麓にある三川権現社・式内 美伊神社を訪ねました。雪があり、無理かなと思ったのですが、但馬国式内社131座の最後に残っていた式内社です。但馬は131座と、全国でも旧国名で四番目に式内社数が大変多く、神社巡りには恵まれています。

三川権現社式内 美伊神社に神社の詳細は書いています。

三川山は小学生の頃、母や姉弟でハイキング登山した思い出の場所です。私の住む豊岡市日高町と香美町の境に位置する霊峰で、標高 888m。但馬妙見山から続く但馬中央山脈の北端にあり、シャクナゲ群生地として有名です。日高町稲葉から三川権現はすぐ近いのですが、車ではぐるっと竹野から大回りすることになります。三川集落からバスで佐須駅に行き、江原まで旧国鉄で帰りました。

三川山頂上にNTTとテレビ中継局があるので自動車作業道路があり、平坦な道ですが、香住側は険しい細道だったのを憶えています。

佐須インター国道178号線から川沿いに10キロほど登ります。雪が積もっていましたが、予想より少なく神社に行くことは可能でした。

丹波路の式内神社をまわって


丹波市青垣町東芦田の高座神社

昨日は7月1日の日曜日。小雨で天気は良くなさそう。5時に目が覚めて、注文をチェックすると暇そうなので、8時に出発し、丹波市と福知山市、綾部市の式内神社めぐりをしてきた。先々週、放送大学島根学習センターの2日間の面接授業のついでに、島根県松江市周辺と鳥取県西部の米子市へ行ってきたが、それ以来の神社巡りだ。

和田山と春日ICまでは、北近畿豊岡自動車道が完成して近くなった。下調べをしてスマホのカーナビで、ルートをまわっても、丹波市は以前に二度行ったが、丹波市青垣町に取りこぼしていた青垣町東芦田の高座神社と青垣町栗住野に芦井神社の古社地とされる蛭子神社があったので、柏原町と篠山市へ向かう途中、自動車道を一旦降りて、まずそこに寄ることに。小雨が降っている。雨足が激しくならなければいいのだが、ずっと降りっぱなしということもないだろう。高座神社は、山南町谷川にもあるのだが。


小鼓 蔵元

途中、市島町の神社に来た辺りから雨足が激しくなってきた。このまま柏原町から篠山市へ行く予定だったが、中止しようかなと思いつつ、日本名門酒会で30年来お取引している市島町の小鼓さんに立ち寄った。酒名は高浜虚子が命名したことでも有名です。あいにく西山会長はご近所の方と九州へ出かけているということで、奥様がいらっしゃいましたが、休みで誰もいない蔵の敷地を許可を得て撮影。

 

ここまでくると京都府福知山市のすぐ隣だ。福知山市内の帰路にある荒木神社、天照玉命神社を回って帰ることにする。某宇佐美のスタンドで日曜だからか女性スタッフが数名いてお客さんで一杯だった。カードが帰ってくるので、スタッフに別の機器に通してもらい、そこまでするならガソリン入れてくれてもいいのではないだろうかと考えつつ、慣れないセルフで2度めの補給をする。神社めぐりは神社の地元の方とのわずかながらのあいさつや会話も楽しい。次第に雨も上がそうなので、福知山市中の奄我(あむか)神社へ。晴れてきたので、綾部市北部へ変更した。初めて行ったが、過疎地でよくテレビにも出てくるが、谷あいが多くて広大で式内社は福知山市(旧天田郡:4座)より綾部市の旧何鹿郡は12座と多い。一口に丹波といっても、旧丹波国は広くて、一括りに回るにはルートがむずかしい。律令制が敷かれるもっと古くは丹波国は丹後にあたる今の京丹後市弥栄・峰山町当たりが中心で、丹波という地名が残っている。律令制により丹波から西部の但馬国が分かれて、さらに丹波と丹後の3つに分かれたのだから、たいへん広大であるし、式内社の数が但馬國:131座、丹波国:71座、丹後國:65座と全国的にもダントツに多い。「式内社の宝庫?」なのである。それは古く奈良以前から豪族と人々がクニを形成していたことの証左だ。

明治になり、西南部の氷上郡・多紀郡は兵庫県に、あとの大部分は京都府になった。柏原藩、篠山藩、福知山藩、山鹿藩(綾部市)、園部藩、亀山藩(亀岡市)など、元々それぞれ藩が分かれており、生活圏は異なるらしい。

式内社に限らず、有名神社はなるべく回ることにしている。例えば、春日町の舟城(ふなき)神社や鴨神社、福知山市御霊神社などだ。とくに城主が治めていた土地には、延喜式神名帳が作成された平安期以降に建立されたので、延喜式神名帳に記されていないが、むしろ大きくて立派な神社が多いし、地元では他にも知られた神社は数多いだろう。しかし、その土地土地の歴史から古い式内社は残された資料としてその価値に興味を持ったので、建築物の大きさや巨木のある神社、ご利益とかには、関心をしぼらないと回り切れないからだ。

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舟城神社や兵主神社では大きな輪が飾られている。但馬の神社ではあまり見かけないが、「茅の輪」くぐりというらしい。京都では「夏越の祓(なごしのはらえ)」を行うのが慣習となっていて、この夏越の祓では「茅の輪くぐり(ちのわ)」として多くの神社では茅(かや)を束ねてつくった大きな輪をくぐることで罪や穢れを祓うとして居るという。

高倉神社(綾部市高倉町)

より大きな地図で 丹波の神社 を表示

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丹後式内社めぐり 旧竹野郡から与謝郡

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京丹後市久美浜町兜山(甲山)と久美浜湾


日本海丹後町久僧海岸

朝5時から、思い立って丹後の残る式内社めぐりを決行しました。5時にはすっかり日が昇っていて、ネット注文も済ませてから、式内社のコピー資料とグーグルで作成した式内社所在地マップ、デジカメ、スマホ、ボールペン。

但馬131座、因幡50座は制覇。丹後は65座のうち、10社程度しか回っていません。先週、先々週は京丹後市久美浜町、網野町木津を回り終え、今日は京丹後市網野町、丹後、弥栄、峰山、大宮、与謝郡与謝野町、加悦町、宮津市由良のハクレイさんまで予定しましたが、与謝野町で日没。。。

式内社は、谷や山深い場所にあり、地元の人に聞いても年配者でなければ分からないことがしばしば。スマホのナビ機能はマップを使ってきましたが、カーナビに近いグーグルNAVIを使ってみました。所在地を入力するとGPSで居場所を判断して音声で知らせてくれます。専用のカーナビがあればいいのですが、遠出以外に使いませんので、高価なので持っていません。もっと早く使えばよかったと思います。一筆書きで回るように予習していくのですが、それでも集落の中心にある社とは違い、奥まった場所に多いですからわかりづらい式内社があります。同じような場所を行ったり来たりで時間をロスします。

しかし、ナビの音声が「すぐ近くに来ました。」「目的地に着きました。」とか、辿り着いたときは面白いですね。

くわしい各神社については。「神社拾遺」ブログに書いていきます。

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但馬国式内社131座制覇へ、残るは2社!

身近にある神社。そのうち、延喜式神名帳に記されている古へから地域の朝廷が管理していた重要な神社を、「式内社」といいます。

式内社 御井神社(豊岡市日高町土居)

式内社 高負神社(兵庫県豊岡市日高町夏栗)

式内社 佐久神社(兵庫県豊岡市日高町佐田)

 

ウィキペディアには、

延喜式神名帳とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧です。延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といわれます。

元々「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成していた官社の一覧表のことで、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列されており、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などについては記載がない。延喜式神名帳とは、延喜式がまとめられた当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座する神の数は3132座である。

式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる。式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社であるものも含む)。

神社に関する投稿は、「神社拾遺」ブログ

https://jinja.kojiyama.net/
に書いていますが、

神名帳は、単なる当時の神社総数目録を意味するのではなく、当時、律令制における一機関である神祇官(じんぎかん)が、神社を統括するようになり、彼らが、由緒正しき霊威ある神社を認定するとの趣向で編纂されたものとなります。そのため、ここに掲載されるということは、当時として、非常に格式が高い神社と認められたことになります(この制度を官社制度と言います)。

具体的には、この式内社は、大枠2種、官幣(かんぺい)社、国幣(くにべつ)社に分類され、更に、それぞれ大小に区分される計4種の神社に選別されます。

官幣社:朝廷管理(現在で言うところの中央政府管理)
=官幣大社:198社304座/官幣小社 :375社433座

国幣社:各国国司管理(現在で言うところの各都道府県庁管理)
=国幣大社:155社188座/国幣小社:2133社2207座

この場合の大小は、当時の社勢の違いによるものとされておりました。また、官幣社が、中央直轄系となるため、京都を中心とした畿内に集中し、国幣社は、逆に、全て畿外(地方)に指定されています。更には、これら式内社の中から、特にその霊験が著しく高いという意味を込めて、「名神」のタイトルを賜る神社もあり、その全てが大社であったことから、「名神大社」と呼ばれる神社もありました。

朝廷が管理する神社を官幣社(官社)、各国の国司が管理する神社を国幣社(国社)といい、今でいえば国立、県立の違いです。式内社はつまり当時は官社で国営神社であったことを意味します。

例えば、但馬一宮出石神社を例に上げるとややこしくなりますが、『延喜式神名帳』では「伊豆志坐神社八座」とあり、一社で8座祀られています。

座は神社の数ではなくご祭神の数です。御祭神は「出石八前大神、天日槍命」とありますが、1座ではなく8座とされています。天日槍命を加えると9座でないとおかしいと思いますが、これは天日槍命はすなわち八種神宝のことです。

社伝によると垂仁天皇の時、天日槍命が来朝し、当地を開拓したので、その徳を敬慕し、命が奉持していた八種の神宝を八前大神として祀った。八種神宝とは、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡であり、このことは既に『延喜式神名帳』にも八座の神として明記され、名神大社となっている。

名神大社、旧社格は国幣中社(現、別表神社)となっていました。

さて、かつての「延喜式神名帳」の旧国別でも、但馬国の式内社数の多さに驚きます。但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

但馬国は大きな国でもないのに、大小合わせて131座というのは意味があるはずです。

例えば
大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲国:187座 大2 小185
近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118

近隣で比べると、
丹波国:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭国:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨国:50座 大7 小43

となっているので遙かに引き離していることがわかります。

それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。大和の朝廷・畿内から半島への日本海の玄関口として重要だった証です。

但馬國:131座 大18小113
但馬国には、官社131座で、その内訳は名神大18座、名神小113座という意味です。

朝來郡[アサコ]:9座大1小8
養父郡[ヤフ]:30座大3小27
出石郡[イツシ]:23座大9小14
氣多郡[ケタ]:21座大4小17
城崎郡[キノサキ]:21座大1小20
美含郡[ミクミ]:12座並小
二方郡[フタカタ]:5座並小
七美郡[シツミ]:10座並小

当方の住む氣多郡(気多)は、ほぼ旧日高町域(現在の豊岡市日高町)にあたります。但馬国府国分寺が置かれていたことから、神社でも式内社や大社が多いことは地元でもあまり関心がありませんが。但馬国式内社131座の2社が地元気多郡で最も身近にある高負神社、佐久神社、御井神社は再三訪れながら、正確に参拝しておらず、最後に残ってしまいました。因幡国50座はすでに制覇し、丹後國:65座 大7小58の半分、但馬国式内社もあと、雪や時間帯で訪れながらあきらめた旧出石郡内の比遅神社[ひじ]「多遲摩比泥神」兵庫県豊岡市但東町口藤と、須流神社[する]「伊弉諾尊、伊弉册尊」兵庫県豊岡市但東町赤花2社のみとなりました。

『神道と日本人』を読みながら・・・

昨日、山村明義氏著『神道と日本人』新潮社が届いた。私は読書家ではない。本を買うのは、これは読みたいと思うときだけである。昨年2011年9月の初版ですでに3刷り目となったこういう本では異例といわれるほど売れているそうだ。

25歳から40歳まで消防団に在籍し、秋祭りのだんじりは消防団を中心にして神社でお祓いを受けお神酒をいただいてから出発する。

神社に興味が湧いたのは、10年ほど前、組(隣保)の小旅行で区の舂米神社の元である鳥取県八頭郡若桜町舂米(つくよね)にある舂米神社を訪れたことがきっかけだったと思う。

また4年前、区の四役を仰せつかり、区の神社行事に関わるようになり、神社と氏子の関わりこそコミュニティ(共同体)そのものであると感じ始めたからである。

以前からなぜ村々には必ず神社が存在するのかなど深く考えていなかった。自然にあるものだし、古来から村ができればそこに村の神社がある。

政治は、古くは「まつりごと」といった。まつりは、祀り、政り、祭りと書くがすべて神である。祖神を祀り、収穫を祭り、田植えから稲刈りまで多くの人手がかかる稲作の共同作業を決めるために政治があったのだ。

全部は読み終えていないが、神戸生田神社について、神社こそコミュニティセンター(共同体)だと自分なりに思っていたことと合致することが書かれてる。

神社の再興こそが神戸の復興に

P129~133

阪神・淡路大震災の衝撃から震災の中心地・神戸の復興に向けて、いち早く牽引役を果たした生田神社。現在、神社本庁の「長老」を務める加藤隆久宮司が奉職する兵庫県の古社である。

生田神社は長く「神戸の総鎮守」として、いまも三ノ宮駅近くの中心部に鎮座する神社だ。神功皇后が三韓征伐の帰途、現在の神戸港周辺で船が進めなくなったため天照大神に御神託を伺うと、稚日女尊(わかるひめのみこと)があらわれ、「吾は活田(生田)長峡国に居らむ」といわれて以来、約千八百年。今日まで神戸市民の崇敬を受け続けてきた。

(中略)

(阪神・淡路大震災で)生田神社の拝殿の柱という柱が倒壊し、無残にく崩れ落ちた社殿の屋根が、大きな獣の甲羅のように映った。

神戸の街全体も悲壮感に包まれ、いったい、いつ復興できるかわからない。市民が悲観にくれる状況下で、加藤宮司も鉄槌で殴られたような落胆と喪失感に襲われ、激しく意気消沈していた。実際、これから神社を再興しようにも膨大な年月と資金のかかることが予想され、ただ茫然自失とするばかりで、正直、「もう、ダメだ」と何度もやる気を失いかけた。

そう思った瞬間、加藤宮司の脳裏に、亡くなった父親の加藤凌次郎(正しくは金偏)先々代宮司の姿が現れ、こんな言葉を語りかけてきたという。彼の耳には、父親の声がまるで神の啓示のごとく、自分をこう論じているように聞こえた。

「おーい、あんたは大学の先生で、文学博士で、全国の宮司でも唯一の博士学位をもっているということでやっていたんだろうけれども、あんた神社を建てていますか?私は多賀神社(滋賀)と焼けた吉備津彦神社(岡山)、そして大東亜戦争で六百発の焼夷弾で消失した生田神社を苦労して建てて、三べんも神社を建てた」

(中略)

「とにかく一日も早く神社を造営させる」
そう固く心に誓い、以降、社殿の片付けから造営まで、自ら先頭指揮を執り始めたのである。神主の装束を着ていても、その頭には、常に落下物防止の工事用ヘルメットをかぶり、いつしか「ヘルメット宮司」と呼ばれていた。

「神戸市は昭和20年6月5日、米軍の落とした600発の焼夷弾による大空襲で焦土となり、神社は丸焼けになってしまいました。残っていたのは、石の鳥居だけです。それを立て直し、造営したのが私の父親でした。そして阪神・淡路大震災でその石の鳥居も倒れた。私はその父親の言葉で“そうや!”と、発想の転換ができた。

とにかく神社は、その街のコミュニティセンター(共同体)で、街作りの中心なのです。もともと生田神社は、神を守る戸ということで、神戸(かんべ=こうべ)の地名の発祥となっている。神戸の地名の発祥の地が立ち上がってきたら、“生田(神社)さんがこうやって元気になって復興した。我々もやらにゃいかん”と、ひとつの呼び水となって、神戸の街が奮い立つ。復興をとにかくやらなくては、とコロッと考えが変わって、気力が生まれたのです」

いまも昔も神社は、地域の住民とその家族、地縁血縁者たちの心の支えであり、中心であり続けている。だからこそ、神社の中心にいる宮司自身が復興を使命と感じ、頑張らなければならないのである。

(中略)

一般的に、人は何か悪いことが起きると暗い気分に陥り、イベントやビジネスが中止されたりする自粛ムードとなりがちである。

だが、人は苦難や苦境の時こそ、「祓へ(はらえ)」をはじめとする「神迎えの祭」を執り行う必要がある。それは、お互いに助け合う精神のある「祭」によって、人々は勇気づけられ、明日への希望に満ちた活力をもらうことができるからだ。祭りが単なるイベントや馬鹿騒ぎなら自粛もよいだろうが、日本の古い祭りからは逆に力をもらえるのだ。

今にも崩れそうだった加藤宮司の心を奮い立たせ、神社を蘇らせた原動力は、ほかならぬ父親という先祖の“伝統”が存在したと同時に、祭による人々の活力の復活、そして発想の転換という「祓へ」の力であったからだろう。

加藤宮司が振り返ってこういう。

「震災のときは、みんな音楽に飢えているわけですね。オーケストラが来るまでは大変ですが、みんなの支援で実現させました。翌年2月3日の節分(豆まき祭)には、シンディ・ローパーさんが来るという。(中略)本当に(豆まきの「福女」として)来て、三宮の駅の高架下からこの境内まで、約1万5千人も人が集まりました。それから藤本義一さんと河島英五さんが来たりして、NHKの大晦日の『ゆく年、くる年』では生田神社の境内が生中継されました。こんな事は今までありませんでした。」

こうして、加藤宮司は震災への「祓へ」と「祭」を同時進行でおこなっていったのである。

実は山村明義さんはCh桜でもおなじみですが、私のフェイスブックのお友達でもあります。(^^ゞ

東北大震災に、天皇陛下自らがお言葉を発せられ、被災地へお行きになられた事自体が、異例の非常事態であるという認識が野田総理以下閣僚にない。いまの東北大震災や福島第一原発事故対応で野田総理以下閣僚に欠けているのは、口や金だけでは人は動かないという当たり前の日本人としての心である。

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