垣屋氏の本城 楽々前城・鶴ヶ峰城・栗山城

ブログ ポートフォリオの写真撮影に三方地区にある垣屋氏の楽々前城・鶴ヶ峰城・栗山城を撮影してきた。

  

国道482号線久田谷交差点付近から三方富士(鶴ヶ峰)

  
鶴ヶ峰                         栗山城(亀ヶ崎城)

  

楽々前城                       三方地区から見る気多谷入口

鶴ヶ峰城と殿区
東構区の元となった小字北構は宵田城か祢布城どっちの構か?!

10年ぶりに宵田城跡を登る

  2014-10-19-10.26.36

豊岡市日高町岩中区の宵田城跡へ約10年ぶりに登った。FBに30年ぶりと書いたけど、10年ほど前に一人で旧道から登ったことを思い出した。新しい広い道からははじめて。
毎年、地元消防団で竹だんじりを製作していた頃は、この城山の麓まで真竹を採りに登っていたので、よく知っているし、城跡では最も回数が多い。しかし60歳近くなって広い道なのに息切れがして老化を痛感した。神社の長い石段には慣れているものの、城山としては156mと低いのに、なかなか着かない。


宵田城中枢部縄張図 西尾孝昌氏

講師は但馬では城郭研究の第一人者である西尾孝昌先生。指導を受けながらメジャーで本丸、二の丸や各郭の実寸を測り方眼紙にスケッチする。

宵田城については、すでに書いているので概要のみ記すと、中世から戦国時代前記まで山名四天王といわれた重臣の一人で気多郡西気谷(現在の豊岡市日高町と竹野町南部)と阿瀬金銀山、竹野鉱山を押さえていた垣屋氏の居城のひとつ。道場区と佐田区の西南にあった楽々前城(ささのくまじょう)を本拠として垣屋隆国の長男、垣屋熙続(熙忠長男:越前守)が楽々前城、次男の垣屋熙知(次男:越中守)がここ宵田城、三男・垣屋豊茂(熙忠三男:駿河守)が竹野の轟城主となった。兄弟三人は、越前守家が楽々前城、越中守家が宵田城、駿河守家が轟城と、それぞれ城を分かち持ち垣屋氏の勢力はおおいに伸張したのある。

山名四天王のうち、竹田城の太田垣氏は生野銀山と朝来郡を配下に置き、中瀬金山と八木城を築き養父郡を配下に置いた八木氏は、丹波道主命の末裔で但馬国造日下部一族の流れをくむ但馬の国人衆、田結庄(たいのしょう)氏は桓武天皇の皇子葛原親王の後裔で、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、その子の盛長が一命をとりとめて田結庄に住み田井庄氏を名乗ったという。鶴ケ城(豊岡市山本)と城崎郡を配下に置いていた。垣屋氏はこの3人と異なリ但馬国人ではなく、山名氏の重臣の一人として群馬県山名庄から起こった山名氏に従って但馬へ移り住んだ。もとは土屋姓で、相模国大住郡土屋邑を本貫地とする関東の武門の名門の一つ土屋党で、垣屋氏は土屋氏分流のひとつである。

いまNHK大河「軍師官兵衛」では秀吉の但馬・因幡侵攻で竹田城が登場するかもと期待してみていたら、織田軍羽柴秀吉の備中松山城水攻めに重点が置かれて、羽柴秀長率いる豊臣軍の竹田城を始め但馬や鳥取城攻めまで、ものの見事にカットされてしまっていたが、宵田城のすぐ南の浅倉の岩山城では毛利方についた山名一門の激烈な防御戦により秀長軍は気多郡からの侵攻は諦め、出石へルートを変更したのである。

【たんごる】 丹後田辺城(舞鶴城)


田辺城門
京都府舞鶴市

室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり舞鶴を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれた。以後、丹後国は一色家が守護を努める領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において但馬他守護山名氏が率いる西軍に属した一色氏は没落し、丹波の細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱する。

戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落した。信長の命により丹波国は明智光秀、丹後国は細川藤孝の領地となり、田辺(舞鶴)が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治した。

1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与した。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。西軍の派遣部隊と対戦したが、藤孝の死によって歌道秘訣が絶えるのを恐れた後陽成天皇の勅命により、包囲軍は田辺城から撤退しました。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。

しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。戦後細川家は、九州の豊前中津藩(福岡県東部)に転封され、かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。

さらに寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後熊本藩の大藩に転封される。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。細川護煕元首相が有名です。


内部 天守閣跡


丹後田辺藩(舞鶴藩)藩祖・京極高三

京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩しました。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部でした。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩しました。これが、一般には舞鶴市の始まりとされています。

京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きました。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となりましたが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けました。

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【たじまる】 村岡山名氏をたずねる

  
村岡山名氏ゆかりの兵庫県香美町村岡区に行って来ました。

  

あいにく雪で断念しました。また別の機会に行きたいと思います。


武家屋敷

住んでおられ、手入れが行き届いています。

  


村岡山名氏菩提寺の法雲寺

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祢布(にょう)城山

豊岡市日高町祢布

当店の国道482号交差点北側に、いかにも城山らしい頂上が平坦な小山があります。東西南北が見渡せる位置にあり、楯石神社があります。垣屋氏の宵田城が南に向かい合い、国分寺城が東にあります。

私はここにお城があったことを最近まで知りませんでした。というか但馬では入り組んだ地形のためか至る所に山城跡があります。

城主は高田次郎貞長という 南北朝期
城主は高田氏ですが、旧名は高田郷といったのでこの領地の地方豪族だったと思われる。創建時期からすると垣屋氏が勢力を強める以前の城ではないだろう。

麓には、かつて但馬国府が置かれた好立地で、但馬国府国分寺館があります。

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