京都神社巡り~東山周辺

吉田神社

2月1日に放送大学試験のため約半年ぶりに京都へ。
Googleマップのルート検索では、豊岡から京都へは老ノ坂峠ルートまでは9号線を利用せずに、北近畿豊岡道豊岡自動車道養父ICから春日和田山道路-舞鶴自動車道丹南篠山ICから舞鶴自動車道丹波篠山ICから国道372号線で亀岡大井ICに京都縦貫道のルートが8分早いとなっている。

しかし京都駅周辺なら最短ルートは北近畿豊岡道豊岡自動車道-舞鶴自動車道-中国自動車道-名神自動車道で17分早いらしい。Googleマップでは実際にはさほど差はないが、国道312号線からは八鹿氷ノ山ICよりそのまま国道312号線から養父ICから乗るほうが信号が少ない。京都まで国道9号線は、朝来市山東町~福知山~丹波ICまでの変化のないルートが長く感じるので、午前5時に自宅を出発し、7時半に京都市内へ。試験は8時間目までありますが、9時15分からの1時間目の1科目だけで終わり、いよいよ神社めぐりに。いつもならスマホのナビを利用するのだが、うっかり沓掛(くつがけ)ICから降りられず長岡京ICまで行ってしまうポカ・・・。

京都三条通近代化遺産群

わけあってほぼ一ヶ月ぶりのブログ更新です。
6月1日・2日、放送大学面接授業で1月以来五ヶ月ぶりに京都へ行きました。先月11・12日に奈良学習センター面接授業「平城京の研究」でへ奈良へ行ってアクシデントが起き、29日まで入院していたので、退院後4日目にして外出は、ハードなスケジュールに思われるが、体調はいいので出かけました。
それだけに古都奈良平城京と平安京をほぼ同時に比較できるというものです。

講義は、「利休の生涯と茶の湯の文化史」 講師:千里金蘭大学教授・表千家不審菴文庫運営委員 生形 貴重先生
会場は、市内のど真ん中烏丸三条の京都伝統工芸館。
放送大学で京都へは所属が京都学習センターでもあり、大学生時代京都に住んでいたので道の隅々まで知っているので気が緩むというか、何度も来ていますが、はじめて電車ではなく自家用車で。コインパーキングに停めました。どこの都市でも増えているコインパーキングですが、使い方が分からず不安でした。料金を支払い夕方までで2100円は高い気もするが。京都の繁華街へ自家用車で行く事自体がおすすめではない行為です(汗)。。。


文椿ビルヂング


烏丸三条角のみずほ銀行京都中央支店( 旧第一勧業銀行京都支店 ) 赤煉瓦に白い石のラインが走るデザイン


中京郵便局


京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)

三条通は、東西路で、昭和 60 年(1985)歴史的景観界隈地区指定。寺町通と室町通の間には洋風建築も見られ、明治期の面影が伝えられる。ここ数年、流行のオシャレなお店や京都独特のものを扱うお店が次々とオープンし、若い方から年配の方まで年齢を問わず楽しめる通りとなっている。京都話題のニュースポットです。現在では南の五条通が国道1号(東海道)・9号(山陰道)の主要道路ですが、明治までは江戸から京へと続く「東海道五十三次」の終点が三条大橋で、三条通がメインでした。

古くは豊臣秀吉の命により大改修が行われ、その後も旅人にとっては欠かせない要路でした。江戸から京まで、また京から江戸まで約490kmもの道のりを徒歩で旅をする。
その旅人のゴールであり、スタートでした。かつて長州藩(現河原町御池京都ホテルオークラ)、土佐藩(三条河原町と四条河原町の間の東側、旧立誠小学校)など全国の京都藩邸が立ち並び、幕末維新では龍馬や桂小五郎もこの界隈をきっと逃げ回っていたことでしょう。。。

三条通の西には大正時代の洋風建築「文椿ビルヂング」、烏丸通を渡り、そのまま北に30mほどのところに「新風館」、レンガ造りの概観で明治時代に作られた中京郵便局、旧日本銀行京都支店を改修した京都文化博物館別館や、老舗が軒を連ねて賑わっています。

伏見稲荷大社と藤森神社

  
伏見稲荷神社               藤森神社

放送大学2学期試験で京都に半年ぶりに出かけ、合間に伏見稲荷大社と藤森神社を参拝して来ました。伏見稲荷大社は十数年前にも参拝したことがありますが、当時は神社そのものに深い興味はなかったのと、ひとりでご神体である稲荷山を歩きたかったので。
JR京都駅から奈良線で稲荷駅に乗り換えます。電車が出発した直後で時間があるので、近鉄で伏見という駅まで行ったのが失敗。深草の狭い町中を歩いて伏見街道で藤森神社を見つけたのはラッキーでしたが、、、稲荷山は広大で、至る個所に鳥居と神社と石段が続き、さすがにきつかったです。

神社は500社近く参拝して来ましたが、伏見稲荷大社で、はじめて参拝の御朱印をいただきました。大きな宮司さんのおられる神社では朱印をいただけます。(200円)

伏見稲荷大社

【京都散策】 天皇と京都 御所と洛中を辿る1

放送大学試験で京都。何度も京都見物はしているが、定期観光バスは主なコースは有名な名所なので、これまで利用しなかった。大学を過ごした京都に20年以上経て半年に一度は訪れる機会を与えてくれているのは放送大学である。
今回冬の旅として特別参観できるので初めて定期観光バスを利用してみた。やはり年なのか個人で市バスを利用して歩き回るよりも合理的だ。なので泊まることにした。この時期の京都は年間で空いているシーズン。前日にホテルと観光コースを予約した。前から駅に近いリーガロイヤルや新都ホテルに泊まってみたかったが、素泊まりには高嶺の花。ネットで調べてみると前日なのに税込6300円だと!他と大きく変わらないので予約。


放送大学京都キャンパス図書室のNHKライブラリー

放送大学京都キャンパス図書室のNHKライブラリー
試験の前に時間あるので京都キャンパスの図書館へ行ったら、忌々しいNHKのシルクロードなどのビデオが並んでいた。メモする変わりにデジカメという便利なツールがあるのでおとなしくデジカメで2回撮影しただけであるのに、係員のひとに出ていけといわれ連れ出された。ストロボが光ったためなのだろうか、ご覧のようにストロボ撮影はしていないです、念のため。撮影の時カウンターにはいなかったが、デジカメごときのシャッターの音が迷惑をかけたとは思えないが突然静止されたのだ。思わぬ事態になった。
2時間以上JR車中でビールやお酒を飲んでいたため、その対応につい腹が立ち暴言を吐いてしまった。一学生であるのに出ていけとはなんなのか!そしたら携帯やその他ツールを持ち込み禁止と書いたのか、原口総務大臣に言うからあんたの名前を教えろと言ってもらった。もちろん民主党の馬鹿に言うつもりはないが、なんで私がデジカメで2枚撮っただけで連れ出さなければならなかったのだろうか。確かに誤解を招いたのかも知れないが大声で怒鳴ったのは軽率だったしその人に反省している。そのことで他の学生に迷惑をかけたと言われたのでは反省しているし、あまりにも相手が世間知らずの放送大学なので軽率だった。
(でも放送大学って5年も在籍しているとその内容からして高いし、無駄な資料送付や職員が多く改良の余地が大いにあると日頃から思っているから、その思いから反動が起きたのかも知れない)
金があって暇で放送大学に入学したのではないからだ。こいつらに腹が立つ。
しかし、いづれにしても、大声で口論したのは他の方々に迷惑をかけたので謝らなければ人間として最低だと思うので機会を見て職員の方に謝罪しよう。でないと世間音痴な放送大学職員及び大学職員よりも社会人である私個人が低俗に思われる。(^_-)


リーガロイヤルホテル京都

今年で40周年。フロントで今なら最上階のエグゼブティブツインがあと3000円でお泊まりになれますが・・・と誘われ、老舗だけにシングルでも広いのに、申し込んでしまった。多分最初で最後だからまあいいかと。


室内は改装されているので綺麗。通常ならシングルでも15750円はするので最上階エグゼクティブツイン35,805円が9450円なら納得(^_-)。


さすがにサービスは高給料金。トップオブキョウトは若い時は縁がなかった。夕食ディナー

【翌日】

京都定期刊行 特別参観「御所と洛中」コース
昼食付き 8500円
東寺
国宝 五重塔 初層内部
京都御所
大徳寺 本坊
〃    大仙院
御寺 泉湧寺(Sennyu-ji) 御座所・霊明殿
前々日、宿泊を決めてネットで予約。
当日なんと大型観光バスに私を含め3名参加。完全に貸切状態で贅沢というか気の毒な事この上ない。
ガイドさん曰く、年間で1月2月の冬の京都は観光客が少ない期間だそうで、1名でも運行します。
御所で他のコースの2名の方と後のコースが同じなので合流し5名となった。

■真言宗総本山 東寺(教王護国寺)

国宝 五重塔

東寺は2回目だが、前回は五重塔など伽藍内部には入らなかった。五重塔初層内部が特別参観できるこのコースを選ぶ。
弘法大師空海が講堂の次ぎに建立した。日本唯一の高さを誇ることでも落雷に遭いやすかったことも考えられ、創建以来、落雷等で4度の焼失に遭っていますが、現在の5代目の塔は1644(寛永21)年、徳川家光によって再建されたもので総高55m。現存する木造建築物で日本の古塔中最高の高さの塔。京都の新幹線とともに必ず映る風景だ。
パンフや東寺HP(http://www.toji.or.jp/gojunotou.shtml)によれば、心柱は三本に分かれて接合されている。また各層ごとに軸部・組み物・軒を組み上げ、最上階までくり返す積み上げ構造になっていて、木材同士も切り組や単純な釘打ち程度で、柔構造になっており、地震で倒壊したという記録はない。地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動するため、倒れようとする力よりも元に戻ろうとする復元力の方が大きいので地震に強いと考えられている。どう見ても偶然に考えられたものではないからすごい技術力だ。
塔自体は木材であり乾燥で収縮するが、独立した心柱は収縮しないので、そのためズレが生じ、そのズレを直すために元禄五(1692)年、一尺五寸(約50cm)ほど心柱を切り下げたため、心柱の彩色が少しずれていることが分かった。


初層内部

撮影禁止なのでここまで。

弘法大師が唐より持ち帰った仏舎利が治められている。
内部を貫いている心柱は、大日如来に見立てて、金剛界四仏と八大菩薩が安置されている。壁には真言八祖像が描かれ、現在は剥落しているが、当時は極彩色の文様がさぞかしこの世のものとは思えない豪華絢爛さを誇っただろう。

東寺講堂
講堂 修正会 1月28日は講堂修正会という行事が行われていた。偶然に行事が観られたのでラッキーだ。

■京都御所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大政奉還
大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件である。

幕末の政局が動揺し桜田門外の変以来、幕府の権威が低下すると、幕府および雄藩は朝廷と結んで権威を回復しようという公武合体路線をとるが、かえって尊王攘夷派に利用され、将軍徳川家茂が上洛を余儀なくされるなど、幕府が本来朝廷の下位にあることが目に見えるようになっていく。松平春嶽に請われて越前藩の改革を行った横井小楠や、大久保一翁・勝海舟ら開明的な幕臣やなどの先駆者が、早くから政権を朝廷に返上して、政体を変革する大政奉還論は提唱されていたが、現実的な政策となることはないまま、政局は流動。

長州征討の失敗とそのさなかの家茂の病死により、幕府の権威はさらに低下し、新たな将軍に就任した徳川慶喜は幕権強化に邁進することになる。一方、独自の考えで幕府改革を行おうとしていた 薩摩藩の島津久光らは参預会議などで慶喜と衝突し、また切り札と考えた四侯会議でも慶喜の巧みな主導で無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、長州藩と結んだ薩長同盟をもとに武力倒幕運動を推し進めていく。

このような状況の中、土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬(かつて勝海舟から教えを受けた)から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部に大政奉還論の採用を主張。これに薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通も同意し、6月22日薩土盟約を締結した。これは慶喜に大政奉還を迫り、もし拒否された場合には武力による圧迫で政変を起こすというものであった。後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、武力の発動を拒否する山内容堂(前土佐藩主)の反対にあい、頓挫。薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日には薩土盟約は解消。結局土佐藩は単独で10月3日に大政奉還の建白書を山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。

これを受け、10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。10月14日(11月9日)に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれを受け入れるつもりはなかったが、慶喜の意を受けた薩摩藩城代家老の小松清廉、土佐の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定。天皇から慶喜への大政奉還勅許の沙汰書が授けられたことで、大政奉還が成立する。

折しも、倒幕派公家の岩倉具視らの画策によって討幕の密勅が下されようとしていたときであった。慶喜は先手を打って大政を奉還することで、討幕の名分を失わせた。慶喜は10月24日に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出る。当時の朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えてのことである。上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになる。

このような朝廷の下では、大政奉還後の新政権も徳川慶喜が主導するものになることが当然予想された。薩長や岩倉らが実権を掌握するためには、武力蜂起により親徳川派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して天皇親政の新体制を樹立し、慶喜には辞官・納地(旧幕府領の返上)を求めて新政権の中心となることを阻止することが必要となり、王政復古へ向かっていくことになった。

他方では、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らに大政奉還が薩・土両藩の画策により行われたものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。

王政復古の大号令

上記のような閉塞状況を打破するため、大久保利通や岩倉具視は秘かにクーデター計画を練る。12月8日夕方から深更にかけて行われた朝議で、毛利敬親(長州藩主)・広封(同世子)の官位復活と入京許可、三条実美ら八月十八日の政変で追放された5人の公卿の赦免、および岩倉具視ら謹慎中の公卿の処分解除が決定された。翌9日未明、公卿たちが退廷した後、待機していた薩摩藩・芸州藩・尾張藩など5藩の軍が御所9門を固め、摂政二条斉敬をはじめ要人の御所への立ち入りを禁止した後、明治天皇臨御の下、御所内学問所において王政復古の大号令が発せられた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、摂政・関白・将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を置くなどの方針が発表された。これにより、二条摂政や中川宮朝彦親王ら親幕府的な公卿は発言権を失うことになった。
この大号令を受けて、さっそく新設の三職を小御所へ召集し、同日18時頃から小御所会議が開かれた。
ちょっと長くなったが、前置きはこのくらいにして、

  
諸太夫の間                皇宮警察のパトカー

正式な用向きで参内した時の控えの建物。最も格式の高い「公卿の間」、諸侯・所司代の控えの「殿上人の間」、それ以外の者の控えの「諸太夫の間」の三室からなっている。宮内庁の案内された方に西郷隆盛はどこに座っておられたのですかと聞いたら「分かりません」といわれ、他の同乗者のおばさん(といっても大差ない年齢の仲良しになった佐賀の人)に笑われた。

  
御所参観

京都御苑は2度目だが御所は初めて。これも事前に宮内庁に申し込みが必要なので定期観光コースならでは。
右が建礼門。左(北)が紫宸殿の承明門


承明門と紫宸殿


紫宸殿

即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿。大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われた。中央には天皇の御座「高御倉」その東に皇后の御座「御帳台」が置かれている。大正天皇の即位礼に際し、古制に従って造られたものであり、今上天皇の即位礼には、東京の皇居に搬送し宮殿で使用された。階段脇には東に左近の桜、西に右近の橘があり、前面には白砂の南庭が広がり、感動する。ひな人形の原型だ!


小御所

御池庭に面して入母屋檜皮吹き。元服などの儀式に用いられ、天皇が将軍や諸侯と対面される場所ともされた。「王政復古の大号令」が発せられた後の「小御所会議」は慶応3年12月9日の夜、ここで行われた。昭和29年に焼失、昭和33年に復元された。
小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都の小御所で行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)からなる最初の会議である。すでに大政奉還していた徳川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、倒幕派の計画に沿った決議となったため、王政復古の大号令と合わせて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体[1]路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。
  
回遊式庭園で天皇のお写真にも欅橋がよく利用される。 建礼門

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【京都散策】 幕末ゆかりの木屋町界隈

京都観光では三条から四条河原町通りが有名だが、一本東へ入った木屋町通りは、静かな高瀬川と柳並木に沿った一番幕末維新の舞台としてその雰囲気を漂わせているスポットだ。幕末ファンならよだれが出そうなほど活躍した志士たちの碑や寓居が建ち並ぶ歩く歴史ミュージアムである。

まず、北から三本木料亭「吉田屋」(京都市上京区 東三本木通)が挙げられる。
慶応3年(1867)6月、土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀との間で大政奉還と公議政体を目指した盟約が結ばれた。後に「薩土盟約」と呼ばれる、幕末維新の時代において、きわめて重要な事件の1つである。

その舞台となったのが京都の三本木通に建っていた料亭「吉田屋」。ここは桂小五郎の妻、幾松が籍を置いていたことでも知られ、二人の出会いの場所でもあった。また、立命館大学の前身である京都法政学校が吉田屋の二階を間借りして授業を行っていたことから、この場所には現在<b>「立命館大学 草創の地」という記念碑が建てられているらしいと後であった。


旅館 幾松


薩摩藩邸跡(上京区烏丸通今出川上ル東側(同志社大学西門前))も足を伸ばすべきではあるが、今出川通りまではちょっと距離がある。藩邸門が残っている。木屋町通りを少し下ると島津繋がりで島津製作所発祥地がある。


現在はこじゃれた博物館になっています。ステンドグラスの窓がレトロです。


そこから道を西に行くと瓦町通りにホテルオークラ前に桂小五郎像が飛び込んでくる。かつてここは長州藩邸がおかれていた。


大村益次郎・佐久間象山遭難地石碑 京都市中京区三条木屋町上ル(高瀬川沿い)ホテルオークラの裏手の高瀬川を渡った橋の横に石碑が並んでいます。


池田屋跡


現在は同名の和食店になっている。


道をはさんだ南には高瀬川を渡った高瀬舟が飾ってある。


材木商酢屋跡:京都市中京区河原町三条上ル一筋目東入ル

海援隊の京都屯所になっていた。龍馬が暗殺される数日前までここに潜んでいたといわれる。現在2階がギャラリーになっています。


反対側を一本入ると細い道に先斗町歌舞練場がある。ここまで入ると人気もなく静かでいい。


土佐藩邸跡
京都市 中京区 木屋町蛸薬師下ル備前島町
現在は公会堂に利用されている旧立誠小学校(りっせいしょうがっこう)は、なかなか立派な洋風校舎だ。このあたりから河原町通一帯に土佐藩が置かれていた。坂本龍馬・武市瑞山・中岡慎太郎・後藤象二郎らの勤皇志士が、藩邸を拠点に活躍した場所であると思うとワクワクしてくる。河原町通をはさんだ向かいに暗殺された近江屋があった。当時の通りは河原町通り東側歩道ぐらいの幅で現在の河原町通には近江屋の母屋があった。京阪交通社の前に坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之碑があるがこないだ前を通るとコンビニになっていたような気がする。

【京都散策】 信長と本能寺


法華宗大本山 本能寺

本能寺の変で知られる本能寺ですが、はじめて訪れました。
本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている]。


山門は寺町通りに門があります。現在本堂普請中。


織田信長公廟

本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き(いわゆる本能寺の変)、その際、堂宇を焼失した。


京都市役所

本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年(応永22年)、京都油小路高辻と五条坊門の間[1]に、日隆によって創建されたものである。日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。

1429年(永享元年)、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年(永享5年)、如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。その後、本能寺は日蓮の本義である「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方4町(約4万m²)の敷地を有し、また多くの子院も有していた。 応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、本能寺は、その本山として繁栄した。

1536年(天文5年)、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。

1547年(天文16年)-1548年(天文17年)の頃帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺し「第8世」を称し、四条西洞院・油小路・小角・錦小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。

1587年(天正15年)豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転された。伽藍の再建は1592年(天正20年)。現在の御池通りと京都市役所を含む広大な敷地であった。

1788年(天明8年1月)の天明の大火、1864年(元治元年7月)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。
御池通北にあります。かつてはここも本能寺の広大な敷地でした。
御池通は、新しく造られた大通り。

京都市営地下鉄東西線 京都市役所前駅 徒歩すぐ
京都駅からバス17・205系統のバス20分、「河原町三条」下車すぐ

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【京都散策】 二条駅と平安京跡

京都駅で降りず手前の二条駅で下車。新しくなってから初めてです。
かつてこの一体は平安京大内裏があった都の中心でした。


旧二条駅舎 梅小路機関車館に移設されています。
京都鉄道本社を兼ねていました。最古の長浜駅舎に次ぐ古い駅舎です。
山陰本線はかつての朱雀大路を南北に走っています。

道すがら平安京の御殿跡と書かれた石碑がありました。

平安京大極殿跡

 

NHK京都放送局

二条城の北にあります。中へ入ってみましたが、別にとくにこれといった展示物はありませんでした。もうすぐ烏丸通へ移転します。

二条城

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ルーヴル美術館展

放送大学の試験の合間に岡崎公園の京都市美術館で開催中のルーヴル美術館展(2009.6.30~9.27)に行って来ました。

 

真夏の割りに京都は曇りで気温は高くなく、過ごしやすかったです。

フェルメール「レースを編む女」をはじめ、レンブラント、ベラスケス、プッサン、ルーベンス、ラ・トゥールなど71点(うち日本初公開60点)の17世紀の絵画は「黄金の世紀」といわれます。私はフェルメール「レースを編む女」とレンブラント以外は無知でしたが、いずれも緻密でさすが一流の絵画でした。(すくなくとも小学生全国コンクール入賞の程度ですが)

同時期にルーヴル美術館展「美の宮殿の子どもたち」が、大阪・中之島の国立国際美術館でも開催されているようです。

受講科目がアーツ・マネジメントだったのですが、ルーヴル美術館は、世界最多の年間来館者数600万人以上を誇る。16世紀フランソワ1世の時代にルーヴル宮殿に、古代から現代に至るまでの美術品を並べ、美術の歴史を一堂に展示してみせることは、文明の歴史を領土化する、時間を「植民地化」する、ことを目的としたことにほかならないとされています。
やがて、コレクションを分類と体系化の方法を生み出し、近代的な制度・施設としてのミュージアムの形が出来上がりました。今日の世界のミュージアムのコレクションの仕方、展示の方式がそこから生まれました。1793年にフランス革命の後「共和国美術館」として一般公開されました。イギリス大英博物館とともにミュージアムの原点といわれています。

  

京都市美術館も1933(昭和8)年開館。公立美術館としては東京都美術館に次ぎ日本で二番目の古さです。

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【京都散策】 東本願寺平成大修理

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の特別記念事業である真宗本廟両堂等御修復事業の工事については、2003年7月から、御遠忌を厳修する前年の2010年までの期間を、御影堂の修復工事を中心とした第1期工事として御遠忌法要の厳修。
第2期工事として阿弥陀堂及び御影堂門の修復工事が始まっています。


御影堂内部は修復中で入れませんでした。


御影堂門


御修復後の御影堂

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