伏見稲荷大社と藤森神社

  
伏見稲荷神社               藤森神社

放送大学2学期試験で京都に半年ぶりに出かけ、合間に伏見稲荷大社と藤森神社を参拝して来ました。伏見稲荷大社は十数年前にも参拝したことがありますが、当時は神社そのものに深い興味はなかったのと、ひとりでご神体である稲荷山を歩きたかったので。
JR京都駅から奈良線で稲荷駅に乗り換えます。電車が出発した直後で時間があるので、近鉄で伏見という駅まで行ったのが失敗。深草の狭い町中を歩いて伏見街道で藤森神社を見つけたのはラッキーでしたが、、、稲荷山は広大で、至る個所に鳥居と神社と石段が続き、さすがにきつかったです。

神社は500社近く参拝して来ましたが、伏見稲荷大社で、はじめて参拝の御朱印をいただきました。大きな宮司さんのおられる神社では朱印をいただけます。(200円)

伏見稲荷大社

鳥取市西部の地形と似たような道路の訳は

鳥取市の地形図

因幡の式内社は50社。そのうち鳥取市西部5社が残っていました。鳥取市との合併までは鳥取県気高郡で、青谷町(あおやちょう)、気高町(けたかちょう)、鹿野町(しかのちょう)が2004年10月31日に鳥取市と合併しました。

実は我が兵庫県豊岡市日高町も城崎郡と合併するまでは気多郡日高町で、郡名が同じ気多郡だったことから、関心があった場所です。

鳥取県気多郡は、1889年(明治22年)10月1日、町村制施行により、青谷町、鹿野町、気高町が誕生。1896年(明治29年)3月29日、高草郡・気多郡が合併し鳥取県気高郡が発足。

浜村温泉のある旧気高町から旧鹿野町一帯には、中国山地から日本海に向かい似たように南北に並行する4つの谷が存在します。式内社はその谷あいにあり、あらかじめ地図を見て探すのですが、すぐ隣の谷に行くのに道がなく、まっすぐな道を進むと広域農道は大きくカーブしているので方向がわからなくなり迷います。
鳥取市河原町にかけてもよく似た地形で式内社が位置します。

東の谷あいから、3社

氣多郡[ケタミ]:5座並小

板井神社[いたい]

「天明玉命、倉稻魂命」板葺大明神と称した。祭神を稲霊(豊受気姫命)とする説があり、地形、玉造の伝承のなさから有力視されている。鳥取県鳥取市(気高郡)気高町奥沢見1292

志加奴神社[しかぬ]

「大己貴命、素盞嗚尊、少彦名命、保食神」 往古鹿野に鎮座。勝島大明神と称した。鳥取県鳥取市(気高郡)気高町宿527 県道233号線沿い

加知彌神社[かちみ]

「彦火火出見命、鵜萱葺不合命、玉依姫命」鳥取県鳥取市(気高郡)鹿野町寺内155-1 県道32号線沿い

利川神社[はやかわ]

「速開津比命、速佐須良比命、瀬織津比命、素盞雄命、保食神」鳥取県鳥取市(気高郡)青谷町早牛855 県道280号線沿い

幡井神社は青谷町

幡井神社[はたい]

「天照大御神、幡千千姫命、須佐男命、保食神、事代主命、天熊人命」鳥取県鳥取市(気高郡)青谷町絹見802 県道51、259号線沿い

詳しくはこちら
http://jinja.kojiyama.net/?cat=319

国道9号を白兎海岸の道の駅を過ぎ、水尻池お手前で小沢見を奥沢見に向かい南へ行くのがわからず、行き過ぎてしまい、気高町宝木から目指しましたが、結局、時間切れで無理でした。金曜日にもう一度行く機会ができたので、改めてチャレンジします。

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伯耆国庁・国分寺をたずねる


伯耆(ほうき)国庁・国分寺跡

鳥取市から倉吉市へは国道9号線が、鳥取バイパス、青谷羽合道路が開通し、国庁所在地で別の旧国であるが時間的に早くなった。高校時代にまだ国鉄だった頃、同級生3人と香住から夜行の山陰号でどこまで行けるかと乗った。今は時効だろうが最初で最後のキセル乗車である。誰も乗っていない客車で限界を感じて倉吉駅で降りて引き返した。深夜の倉吉駅は遠くて寂しい思いがしたことを覚えている。

鳥取県は倉吉に限らず道路がやたらに多く整備されていて、方向がわからなくなります。しかも、倉吉市周辺は、30年近く前に来た頃とはがらりと様相が違い、商業施設や住宅開発が進み、最近某CMで登場の鳥取の羽合も北栄町も市町境の区別がつきません。

  

国府・国衙・国庁


各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を「国府」、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を「国庁(政庁)」と呼んだ。

今回の倉吉市訪問は、式内社と国庁裏神社ですが、もちろん国府国分寺跡も関心はあった。伯耆国府・国分寺跡は国庁裏神社を探す途中に偶然に立ち寄った。伯耆国府跡は国道313号(美作街道)の沿いのなだらかな広大な丘陵地にあって自然がよく残っていて壮観です。但馬国府の住人として、国府と国分寺は関心が湧いて、これまでに丹後、因幡、若狭(丹後は国分寺跡、若狭は博物館のみ)をまわりました。

また、話が脱線するが、欠くことができないのは豊岡と倉吉は山名氏に縁が深いということであろう。伯耆は南北朝時代、足利尊氏に属して伯耆守護になった山名時氏の代からである。時氏は難しい時代を生き抜き、伯耆を含めて因幡・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を兼帯する大勢力に成長した。時氏の死後氏清の時、山名氏は勢力を拡大し、ついには室町時代の日本全国六十八州のうち六分の一にあたり、山名氏は「六分一殿」とか「六分一家衆」と呼ばれる大守護大名になった。

山名氏の強大化に対して危惧を抱いた室町三代将軍足利義満は、その勢力の削減を謀るようになった。あたかも、山名氏内部で惣領と庶子家の対立が生じ、それを好機とした義満の策謀によって山名惣領の時熙は没落、代わって氏清・満幸らが山名氏の主流となった。しかし、義満はさらに山名氏の勢力削減を図り、その挑発に乗せられた氏清・満幸らは明徳の乱を起こして没落、山名時熙が惣領に返り咲いたものの但馬・伯耆・因幡三国の守護職を保つばかりとなった。山名氏は時熙のあとを継いだ持豊(宗全)の代になると、但馬・備後・安芸・伊賀・播磨の守護職を与えられ、着実に勢力を回復していった。宗全は、城崎城・九日市城を詰め城とする九日市(豊岡市九日市)の丘陵に広大な守護所を構えたとされている。1467年(応仁元年)には応仁の乱の勃発に至った。この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の細川勝元と戦ったが、乱の最中である1473年(文明5年)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。そんなこんなで守護として最初の領地が伯耆であり、宗全が本拠とした国が但馬(豊岡市)なので、豊岡市と倉吉市は姉妹都市となってもよいような間柄なのであると勝手に思っている。(^^ゞ

主な国衙遺跡には、武蔵国衙(府中市)、周防国衙(防府市)、伯耆国衙(倉吉市)、常陸国衙(石岡市)、近江国衙(大津市)、土佐国衙(香美市)などがある。これらの国衙遺跡から、各国の国衙区画プランにいくつかの共通点があることが判っている。

伯耆国庁跡は、伯耆大山を西に望む久米ケ原という丘陵にある。あたりは一面の草地で、農道の脇に史跡の説明板が一つ立つだけだ。国庁の範囲は、張り出し部を含めて東西が324メートル、南北は227メートル。儀式を行う内郭(政庁)と実務を行う外郭(官衙(かんが))が確認されている。この遺跡の北東には、国府に関連する法華寺畑遺跡と不入岡(ふにおか)遺跡があり、2000(平成12)年に3つの遺跡をまとめて、「史跡・伯耆国府跡」と名付けられた。 平安時代、律令制によって各地に置かれた国府は、地相の面で一定の条件を求められていた。「東に川、西に大道、南に窪地(くぼち)、北に山」。いわゆる四神相応(しじんそうおう)の地で、これが当時、最も尊い地形とされた。 伯耆の国庁はまさに四神相応の地にあった。北に四王寺山、東に国府(こう)川、南には低湿地、西には道がある。1970年代の調査でこの遺跡が確認されたとき、専門家をさらに驚かせたことがあった。周辺は都市化を完全に免れており、古代さながらの景観を保っていた。「国府の遺跡としてきわめて貴重」という評価を得たのは当然である。現在、法華寺畑遺跡と国分寺跡は歴史公園として整備されています。

伯耆国分寺跡

国庁跡にほぼ隣接しており、近い位置に伽藍配置がよく残っている。天平13年(714年)聖武天皇の発願により全国の国ごとに造営された国立の寺院跡です。寺域約2.9ヘクタール、東西182m、南北160m。主要建物の遺構は、南門、金堂、講堂、塔などがあります。

国道482号 酷道小代行き止まりを辿る

このブログタイトルである祢布(にょう)交差点は、当店が位置する場所に近く、国道312号と482号の交差するクロスロード。その東西に通るのが国道482号です。

実は但馬に生まれ旧美方町に行くのはよく憶えてないのですが初めてではないだろうか。
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国道9号鳥取方面 村岡区和田交差点

県道4号分岐交差点

(帰りに撮ったので日が暮れかけている)

国道9号小代口交差点(482号分岐点)

香美町小代地区(旧美方町)へ
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小代区石寺

この先通行止めの標識現る

中心部を抜ければいよいよ国道から酷道へすすむ

小代区秋岡

さらに道が急に細くなった

さらにこの先通行止めの標識

長く進むと工事休工中との看板

香美町の大川 矢田川源流部の渓谷を酷道が併走する

若桜方面→

90度近い急斜面と渓谷が続く。心細くなりそうなほどの酷道を3kmほどでようやく行き止まり

小代渓谷へここから約4kmで鳥取県境を越えて氷ノ山・若桜町春米

台風23号まではまだだいぶ先の小代渓谷まで行けたようだが、工事も休工中のまま。

いつになったら鳥取若桜まで通行できるだろう。

かつて大正時代に藤本日高村長が夢見た但馬鉄道計画(丹後宮津(加悦鉄道)から鳥取(若桜鉄道経由)までつなげた)を、国道482号昇格につなげた今年他界された故清水豊前日高町長・豊岡市長のことを偲びつつ引き返した。

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布勢天神山城(鳥取県鳥取市)

布勢天神山城の歴史

山名氏宗家但馬山名氏(出石町)のお膝元豊岡市の住民としては、鳥取にたびたび行く機会があれば因幡山名氏について辿ってみたい思ってた。2月19日にかねてから一度目指したかった久松山(鳥取山城)を登るとどうしても布勢天神山城を訪ねてみたかった。
城山(天神山と卯山)を南東から眺める

  
『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、布勢天神山城は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市湖山町南、布勢)にあった丘城で、戦国期の因幡国守護所とされる。当時は布勢ではなく布施と表記された。つまり布施という地名は全国に多いが、政治の中心が置かれていた場所という意味であろう。

湖山の県立緑風高校のそばだと地図で確認し国道53号から県道181号へ進む。橋を渡ると同じような小山が乱立していてそばまで来ているのだが、近道をしようと脇道に入ってしまうと新興住宅地が多くて袋小路でなかなか分かりにくい。最初から国道9号バイパスか県道181号など主道路を通った方が良かったと後から思う。

北側から天神山と左は県立緑風高校校舎

『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書かれている。

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。1466年(文正元)因幡国第5代守護・山名勝豊によって二上山城(岩美町)より守護所が移転されたと伝わるが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれている。確実な史料による初見は1513年(永正10年)である。一説に『応仁記』にみえる布施左衛門佐は山名豊氏を指すのはないか考えられており、豊氏の築城との指摘もある。(平凡社『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』)

第13代守護・山名誠通はこの城にあって、同族である隣国但馬守護の山名祐豊と対立、敗れて敗死した。誠豊の死後、守護職は豊定、棟豊と但馬山名家から送り込まれた人物が継承した。棟豊が若くして死去した後に家督を継いだ守護・山名豊数の時、重臣・武田高信が鳥取城を本拠として離反する。1563年末(永禄6年)に山名豊数は武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退いた。1573年(天正元年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったとされる。この時、天神山城に聳えていた3層の天守櫓も鳥取城に移築されたという。ただし、山名豊数が武田高信の攻撃によって鹿野城に退いた1563年以後は確実な史料に天神山城の名前が出てくることはない。廃城時期については今後の検証が必要である。

1617年(元和3年)に備前岡山の池田光政が鳥取に転封された際、手狭な鳥取城に替わる新城候補地として、城地の要害と城下町を作る利便性から布勢天神山城が新城として検討されたことがあった。しかし半世紀近く前に廃城となっているため整備に時間がかかることから、布勢天神山城が再び因幡の首府になることはなかった。

公園内に建てられた見取り図

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。

守護館は天神山麓に築かれていたようで、古地図や伝承によると3層の天守櫓も存在していたとされる。天神山周辺には湖山池の湖水を引き込んだ内堀が巡り、卯山周辺にも水堀が設けられていた。

卯山の丘陵北側には布勢1号墳がある。古代の古墳を城域に取り込んで砦として利用した例として興味深い。

布勢1号墳(前方後円墳、国指定史跡)

日吉神社(布勢の山王さん)

因幡国初代守護・山名時氏が近江から日吉神社を勧請したとある。比叡山麓坂本の日吉神社だろう。

広い道路脇にそびえる鳥居から一直線に天神山城跡のある卯山まで参道が通っている。まだ補修されたのが新しく立派な社です。瓦などの家紋は因幡池田家の家紋揚羽蝶である。天神山城と因幡山名氏亡きあとも池田家や布勢村の人びとによって大切に護られてきたことが伝わります。

「布勢の山王さん」と親しまれているらしいが、但馬山名氏の豊岡城のある神武山近くにも山王山に山王神社があり但馬山名氏から一族共通のものであることは興味深かい。

拝殿と本殿

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小浜歴史探訪 6/6 県立若狭歴史民俗資料館

■県立若狭歴史民俗資料館

小浜市遠敷2丁目104

重要文化財の福井県若狭町の「鳥浜貝塚出土品」をはじめ、多数の資料で若狭の歴史を紹介しています。鳥浜貝塚丸木舟が完全な形で展示してある。

日本での先史時代の丸木舟の発見例はおおよそ200例ほどで、その分布は関東地方に最も多く150例近くあり、そのうち千葉県での発見例は100例を数え日本全体の半分を占める。各地域での発見例では、千葉県北東部の縄文時代のラグーン(潟湖)が湖沼群として残る栗山川中流域での出土がことに多く、流域には山武姥山貝塚などの貝塚も分布している。次に多いのが滋賀県の琵琶湖周辺で25例ほどあり、福井県から島根県にかけての日本海側がこれにつづく。また、大阪湾では古墳時代のものと推定される大型のものの出土例が何例かある。

日本の先史時代の丸木舟の出土例の多くは縄文後・晩期のものであるが、縄文前・中期の出土例も報告されている。縄文前期の丸木舟として、福井県若狭町の鳥浜貝塚、京都府舞鶴市の浦入遺跡、島根県の島根大学構内遺跡、長崎県多良見(たらみ)町の伊木力(いきりき)遺跡、埼玉県草加市の綾瀬川や千葉県多古町の栗山川流域遺跡群などの出土例があり、このうち、千葉県多古町の栗山川流域遺跡群で1995年に出土したムクノキの丸木舟は全長が7.45mあり、京都府舞鶴市の浦入遺跡で1998年に出土したスギの丸木舟の現在長は4.4mであるが全長8m、幅0.85mと推定されている。このような大型の丸木舟は海洋での使用が十分可能であり、縄文前期には人々は、丸木舟に乗って島々に出かけていたと推測される。

なお、縄文時代の舟材に鳥浜貝塚、浦入遺跡や島根大学構内遺跡の出土例のようにスギ材が使われるのは稀であり、東日本での出土例ではイヌガヤ、ムクノキ、クリ、カヤなどが使用されている。古墳時代の大型の丸木舟にはクスノキの使用例が目立つ。
鳥浜遺跡から1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。(1998年に京都府舞鶴市浦入遺跡でも同時期の丸木舟が出土している。)保存状態は良好であるが先端部分が失われている。船尾はとも綱を巻き付けたものか浅いくぼみが残っていて、長期間使用されたことが窺える。舟体は直径1メートルを超えるスギの大木を竹を縦に二つに割る要領で造ったと想像でき、内と外を削り、火に焦がしたりして造っている。舟底は平たい。長さ6.08メートル、最大幅63センチメートル、厚み3.5~4センチメートル、内側の深さ26~30センチメートル。後者は縄文時代後期(約3000年前)のもの船底のみが残っていた。現在の長さ3.4メートル、最大幅48セントメートル、厚みは4センチメートルで、内側には肋骨のように舟を補強するためのものか、または、漕ぐ時に足をかけるものかは不明だが、凸型の彫り出しがあった。材は第一号と同じくスギで造られており、第二号丸木舟と名付けられた。スギ材で造られている丸木舟は縄文時代では非常に珍しく、東日本で見つかっている舟は、イヌガヤ、ムクノキ、クリ、からなどで造られていた。丸木舟は、鳥浜の人の活躍の範囲を拡げたことであろうし、食料獲得に果たした効果も大きかったと推定される。

漁撈関係では、他にスズキ・マダイ・クロダイ・サメ・フグ・イルカ・シャチ・クジラの骨なども出土しており、淡水魚・海水魚・貝類・堅果・野菜など多様な食糧利用が明らかとなった。

小浜歴史探訪 5/6 多田寺・妙楽寺 (但馬史研究会)

■多田寺

小浜市多田27-15-1
山号石照山 高野山真言宗
・木造薬師如来立像(国指定)
像高192.5cm 平安初期
・木造十一面観音菩薩立像
(日光菩薩)(国指定)
像高154.0cm
平安初期
・木造菩薩立像
(月光菩薩)(国指定)
像高144.2cm 平安初期
天平勝宝元年(749)孝謙天皇の勅命によって勝行上人が創建したと伝えられ、12坊の塔頭があったといわれています。江戸初期に火災に遭い、今の本堂は江戸時代文化4年(1807)のものです。
厨子に安置されている本尊薬師如来、十一面観音、菩薩立像の3体は、いずれも平安時代初期に若狭で作られた桧材の一木造で重要文化財の指定を受けています。これらの像は、通常の平安時代初期の像とは趣が異なり、天平的手法を幾分踏まえながら新しい技法様式を求めて造像されています。
また、十一面観音が若狭地方で作られたということは、日本に密教が布教されていった平安時代初頭には既に、若狭では密教受容の社会基盤がつくられていたことを示しています。この十一面観音像は歴史資料としても価値が高いといえます。
県指定文化財、平安後期作の木造阿弥陀如来坐像(三躯;像高144.5cm、他の二躯は91.5cm)を所蔵しています。(小浜市)
ご本尊は日光東照宮の陽明門が施され、絢爛豪華。元々他の寺同様に檀家は少なく二十数軒とか。
■妙楽寺

小浜市野代28-13
山号岩屋山 高野山真言宗
・本堂(国指定)
鎌倉時代初期
・木造千手観音菩薩立像
(国指定)
像高176.3cm 平安中期

山門

小浜の妙楽寺は真言宗のお寺で高台にある敷地の広いお寺です。山門までの両脇には桜並木が続き、その壮大な風情は価値があります。境内は静寂が広がります。桧皮葺の本堂、地蔵堂、鐘楼、神社などの堂宇が建ち並ぶ。鐘楼は
奈良時代の養老3年(719)僧行基が本尊を彫り、平安時代の延暦16年(797)空海が諸国を廻っていたときに本尊を拝して堂舎を建立したと伝えられています。寺領は明通寺より常満保地蔵丸名を寄進されています。
本堂は鎌倉時代初期に建立されたもので、厨子には永仁4年(1296)と銘があり、若狭における最古の建造物です。桁行5間(11.51m)・梁行5間(10.61m)寄棟造桧皮葺で、和様天井は化粧屋根裏内外陣境に菱間と格子戸を入れて区画されています。外観はゆるやかな屋根の流れは豪華な王朝建築にみえます。


本尊の千手観音菩薩立像は、平安中期の作で、桧材の一木造、頭上には菩薩の顔が3面あり、その他に菩薩面・憤怒面・狗牙上出面・大笑相面21面をいただいています。実際に千本の手が整然と美しく配されており、長く秘仏であったため、今も黄金色に輝いています。完全に手と仏具が揃っている千手観音菩薩立像は全国的にも2、3点のみで貴重です。
県指定の聖観音や地蔵像などの文化財も多く所有しています。
本堂わきには、芭蕉没後百年を記念して芭蕉の句碑が建てられています。秋には参道の紅葉が見事です。
引用:小浜市
時間の関係で回れなかったが、小浜には上記の他にも「小浜 国宝めぐり」コースがあり、巡回バスとレンタサイクルコースが設けられている。
○羽賀寺 (高野山真言宗)
○圓照寺 (臨済宗南禅寺派)
○妙楽寺 (高野山真言宗)
○多田寺 (高野山真言宗)
○国分寺 (曹洞宗)
○明通寺 (真言宗御室派)
○神宮寺 (天台宗)
○萬徳寺 (高野山真言宗)
●羽賀寺 (高野山真言宗)
女帝・元正天皇の御影と尊崇される木造十一面観音菩薩立像
●圓照寺 (臨済宗南禅寺派)
モリアオガエルが生息する庭園が見事で、四季移りゆく禅寺に北陸随一・金色燦然の大日如来坐像(重文)、木造不動明王立像(重文)
●国分寺 (曹洞宗)
諸国に建てられた国分寺の一つで、天平の仏教文化の息吹きを感じさせる。木造薬師如来坐像(重文)のほか、像高318cmの木造釈迦如来坐像は福井県下最大を誇る巨像
●萬徳寺 (高野山真言宗)
枯山水の庭園
本尊・木造阿弥陀如来坐像(重文)や絹本著色弥勒菩薩図像
他、見どころ
●常高寺
京極高次の死後京都妙心寺の槐堂和尚を招いて開祖とし、栖雲寺を移転させた跡地に常高寺を創建しました。常高院栄昌尼は、お市の方と浅井長政の3姉妹の次女として生まれ、寛永10年(1633)江戸で亡くなりましたがが、その後侍女たちと共に常高寺に葬られました。現存する常高院の貴重な肖像画、自筆の消息、墓所の他、書院に遺るこの壁画が、往時の盛運を偲ばせています。
本堂は大正12年(1923)に焼亡、荒れた書院、庫裡などが残りましたが、昭和39年(1964)には山門の炎上もあって、まさに廃寺同然の荒れ寺となりました。しかし、この間、由緒ある名刹復興の動きもあって、平成2年より再建事業が本格化し、平成13年に本堂が完成しました。
書院奥の間の床壁画は、壁画床2面、障壁画1面が描かれており、正面壁画は縦253cm、横278㎝、その両側面は80cm幅の画壁です。
●正法寺
真言宗泉涌寺派。本尊如意輪観音は、平安末期の縁起物語に登場する。ときは元暦元年(1184)、佐渡島巡検使船に忽然と現れてその使命を果させた老翁が、帰還着岸の間ぎわ、小浜港坂尻浦にて我を信ずること篤く久しかったことを謝して入水した。ところがその後、夜々海中に金色の光がさすので、その時の浦の長、大橋五郎左衛門なるものが海中に入り、光り耀く仏像を脇に挾んで拾い上げ、堂を上山(うえやま)に建てて奉安した。そして浦の名を仏谷(ほとけだに)と改め、長(おさ)の名を脇左衛門と称したと伝える。
蓮華寺、正林庵、長慶院など小浜は寺院が大変多いが、いずれも真言宗や臨済宗などの古いお寺で檀家が少ないという特徴があるそうだ。

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小浜歴史探訪 4/6 遠敷と丹生 (但馬史研究会)

遠敷川(おにゅうがわ)


遠敷川 鵜の瀬

小浜市のルーツとなった遠敷郷は、遠敷川流域に開けた地域で若狭国府・国分寺が置かれた。
別名音無川、鵜瀬(うのせ)川とも。川筋をたどる道は、古来都と若狭を結ぶ道だった。遠敷はこの地の郷名・郡名でもあるが先ず読めない。
滋賀三井寺さんのサイトに参考になる記事がある。
福井県の新羅神社(3)若狭地方の新羅神社
三、小浜市下根木(しもねごり)に鎮座する白石(しらいし)神社

http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/index.htm

若狭湾に沿って敦賀市、美浜町と続き、その西側に小浜市がある。遠敷郡(おにゅう)といわれた地方である。白石も新羅からの転化であるといわれている。新羅は白木・白城・白子・白石な どと変わる例が多く、ひどい例は今庄町のように、新羅→ 白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わっている。当地方には新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。

小浜市から国道二七号を滋賀県今津方面に向かう。遠敷郵便局前の信号を右折する。古い家並のすぐ右手に若狭媛神社がある。この神社から約一・五km、遠敷川の清流が巨巌に突き当たり淵をなすところに「鵜の瀬」なる場所があり、「鵜の瀬大神」を祭っている。この巨岩の上に若狭彦の神(彦火火出見尊(ひこほほでみ))と若狭姫の神(一の宮夫婦神)が降臨されたといわれている。二羽の白い鵜が二神を迎えたことが、地名の由来といわれている。彦火火出見尊は彦火火明命(ひこあめのほあかり)であり、山幸彦である。素盞鳴尊の子神で、大和の最初の大王といわれている饒速日(じぎはやひ)尊である。この鵜の瀬は東大寺二月堂「お水取」 行事の源泉である。このお水取の遠敷神社の遠敷明神は、若狭姫神社の祭神・若狭姫神(豊玉姫命)(山幸彦の妃)である。奈良・東大寺二月堂の右横手にも遠敷神社が奉祀してある。東大寺の産土神となっている。

この地名の歴史は古く、「若狭国遠敷郡遠敷郷」などの文字が記された木簡が、平城京跡などから出土している。和銅5年(712)までは「小丹生(おにゅう)」と書かれていたという。つまり丹生とは赤土であり、水銀の原料である
音読みの「おんふ」が転訛したとも言われている。「遠敷」の言葉自体には朝鮮語の「ウォンフー」(遠くにやるの意)に由来するとの説もあり、大陸と接する日本海に面 した場所ならではの歴史を感じさせる。

この説があながち捨てがたいのは、白石も新羅からの転化であるといわれている。新羅は白木・白城・白子・白石な どと変わる例が多く、ひどい例は今庄町のように、新羅→ 白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わっている。当地方には新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。敦賀(つるが)も角鹿(つぬが)の転訛といわれる。
辛国(からくに)(韓国)神社や、東大寺近くの漢国(かんご)神社(祭神は新羅系の園神と韓神)とも関係が深いといわれている。根来地方に祖神の白石明神をいつき祭って住み着いた人々は、若狭湾や敦賀湾などから入植した新羅・加那系の渡来人であったといえる。

「若狭地方における豪族の中で目立つのは秦氏の系統である。若狭の木簡には秦人の名が多くみられる。
<美々里秦勝稲足二斗、若狭国三方郡耳里秦日佐得島御調塩三斗若狭国山郷秦人子人御調塩三斗>などである。この秦氏が山城の太秦に根拠をもつ秦氏と血縁関係にあったのかどうかは不明であるが、『続日本紀』延暦十年(七九一)九月の条に若狭国で尾張・近江などと共に牛を殺して漢神を祭ることを禁止している記事をみると、牛を殺して漢神を祭るのは渡来人の風習であったので、秦人の中には朝鮮から渡来した人々や子孫が含まれていたことは間違いない」(『小浜市史』)。
ここから南へ一五〇m。「おにゆかわ」橋を渡ると左手に「白石神社」がある。『若狭彦神社由緒記』によれば「白石神社は若狭彦神社の境外社であり、小浜市下根来白石鎮座する。祭神は若狭彦神、若狭姫神を『白石大神』または『鵜の瀬大神』とたたえて奉祀。若狭彦神社創祀の社と伝えるが、年代は不詳」と説明している。境内には椿が群生し、樹高十二・三mの大木は小浜市の天然記念物。

「瀬にしみて奈良までとどく蝉の声」(山口誓子)の句碑がある。
白石神社の本殿は小屋状の建物に覆われているので、一見して神社の建物が見えず異様な感じがするが、外部を覆っている建物の中に入ると、庇に接して木造の彫刻を施した鳥居があり、「白石大明神」の額が掲げてある。本殿の柱などにも手のこんだ彫刻があり、りっぱな社殿である。境内地は広く千坪位ある。前面は遠敷川であり、神社の森の背後は深い山につながっている。遠敷の里は小浜から保坂・今津・大津を経る若狭路、小浜から朽木・大原を経る鯖街道、更には周山街道など、都とのつながりが深かった。当地方は滋賀県の 今津町や白鬚神社で有名な高島町も近い。

隣接の上根来村の社についても同由緒記は、「氏神の御社については、祇園牛頭天皇の由、昔より申伝候。この神の勧請の時分明ならず。更に、本堂本尊地蔵尊也、右地蔵安地の時代不レ知・・・・・・老人口伝云上下宮白石影向後宮居レ堂……建立の由二月毎年勤三修正会於二祇園・・・・・・宝前一毎年五月五日大般若転読す。延宝三年九月廿日別当神宮寺桜本坊秀俊」と記述しており、上・下の根来村が新羅系の神と縁が深かったことが推測される。
下根来から川に沿って神宮寺、若狭彦神社、若狭姫神社(若狭一の宮と呼ばれる)が存在する。
「これらの神社はみなその根は一つで、どちらも根来の白石(新羅)神社からでている」(金達寿『古代朝鮮と日本文化』)という。

この地方には他にも「白石神社」が多くあり、特に上中町熊川村熊川字宮ノ下の「白石神社」は「元々は白石大明神、或いは白石明神社と称し、三社相並べり。境内の白鬚神社は近江より勧請せりと伝わる」(『遠敷郡誌』)。

上中町河内の白石神社について『若州管内社寺由緒記』によれば、「此明神白神楽谷と申所に御座候」とある。白神楽谷は何と読むのか分からないが、しがらく又はしがらき谷かも知れない。そうだとすれば、しらぎからの転化ではないだろうか。
一方で、小浜市は園城寺や源氏との係わりがみられる。中世の小浜市において、寺門(園城寺)と山門(延暦寺)の争いがあり、園城寺が四十町の免田を認められ、賀斗(加斗)荘とし、加納の名目で荘田を拡大したのに対し、延暦寺も菅浜浦や志津浦に進出していた。十世紀のことである。

日本海では朝鮮半島の東海岸を南下するリマン海流が対馬の近くで対馬海流と合流、 山陰や北陸沿岸沿いに北上してくる。この海流を利用して、 古代から大陸の文化が朝鮮半島を経由して日本にもたらされたといわれている。
出羽弘明氏(東京リース株式会社・常務取締役)

(以上)

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小浜歴史探訪 3/6 若狭神宮寺 (但馬史研究会)

■若狭神宮寺
小浜の若狭神宮寺は、奈良時代初期に創建された天台宗のお寺で、奈良・東大寺二月堂へのお水送りが行われるお寺です。若狭神宮寺の現在の本堂は室町時代に建てられ、重要文化財として指定されています。若狭神宮寺の本堂の中には本尊薬師如来坐像をはじめ見事な仏像が立ち並んでいます。
若狭神宮寺では金剛力士像を安置した鎌倉時代建立の仁王門も重要文化財として指定されていますが、場所が200mほど離れているため見逃す人が多いようです。若狭神宮寺は小浜国宝めぐりの寺院の1つです。(小浜市)
若狭一の宮の神願寺として成立、縁起によれば元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元の創建したといわれています。鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました。

  
神宮寺本堂

本堂の前には注連縄と御幣(白い紙垂)が飾られている。初めて見たので不思議な感じだ。

若狭井

奈良東大寺二月堂のご本尊にお供えする閼伽水(あかすい・清浄聖水)をお水送りの神事が行われる閼伽井(あかい)といわれる供養される聖水の湧き水取り屋。せっかくなので飲んでみたが、美味しいふつうの水だが、凡人には違いがわからないのだろうか。

いただいたパンフレットによると、西暦710年、奈良に平城京が造られ、聖武天皇ご在位の752年春に、東大寺において国家を捧げての盛大な大仏開眼供養が行われました。若狭ゆかりの「良弁(ろうべん)僧正」が、その初代別当(開祖)と言われています。

若狭神宮寺に渡ってきたインド僧「実忠」は、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼の二ヶ月前から(旧暦二月)天下世界の安穏を願い、14日間の「祈りの行法」を始められました。「修二会(しゅにえ)」と呼ばれるこの行の初日に、実忠和尚は「神名帳」を読み上げられ、日本国中の神々を招かれ行の加護と成就を請われたのですが、若狭の「遠敷明神」だけが漁に夢中になって遅れ、3月12日、修二会もあと二日で終わるという日の夜中に現れました。遠敷明神はお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする「閼伽水(清浄聖水)」を献じられる約束をされ神通力を発揮されると地面をうがち割り、白と黒の二羽の鵜が飛び出て穴から清水が湧き出しました。若狭の根来(ねごり)白石の川淵より地下を潜って水を導かせたと伝えられます。

お水送りとお水取り

奈良のお水取りが終わると春が来る。関西の人々は、毎年この春の兆しを待ちわびます。この奈良東大寺二月堂のお水取り(修ニ会の「お香水」汲み)は全国にも有名な春を告げる行事ですが、その「お香水」は、若狭鵜の瀬から10日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれています。

この湧き水の場所は「若狭井」と名づけられ、約2km上流の川淵は「鵜の瀬」と呼ばれるようになり、古来より若狭と奈良は地下で結ばれていると信じられてきました。3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」に先がけて、毎年3月2日に行われる小浜市神宮寺の「お水送り」は、午前11時、下根来八幡宮で営まれる山八神事から行事はスタート。神宮寺僧と神人がカシの葉に息を吹きかけ、手を交差させて後ろに投げる。これは、体内に宿った悪霊を振り払うためだ。それから赤土をお神酒で練ったものをご祈祷してからなめて、残り土で柱に「山」と「八」の字を書き込む。

午後1時からは神宮寺境内において弓打神事。紫の装束に身を包んだ氏子代表が古式にのっとり、30メートルほど離れた的に向けて弓を放つ。

午後5時半ごろ、白装束の僧がホラ貝を吹きながら山門をくぐり入場。午後6時からお堂で修二会を営み、「だったん」の行へ。7メートルもあろうかと思われる巨大松明を「エイッ、エイッ」とのかけ声とともに振り回す。
いよいよ大護摩に火がともされると、炎が水面に燃え広がったようになる。住職が送水文を読み上げ、邪気払いをし、香水を遠敷川に流す。香水は10日後、奈良東大寺の「お水取り」で汲み上げられる。
実際には遠敷川は奈良とは反対の日本海に注いでいるのですが、地下を通って奈良に届くといわれています。古くから御食国として大和に塩や海産物を送ったことも関係しています。
神宮寺(じんぐうじ)
神宮寺とは、日本において神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神宮寺とその神社の関係は一様でなく、どちらが主体であったのかは、一概には言えない。
平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々は護法善神であるとする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社が営まれるようになった。
鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主によって保護され、祈祷寺として栄えた。
しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈によって、その殆どの寺院が神社に転向したか消滅したりして、急速に数を減らした。現在は、残存した寺院の住職の努力によって再興されている。

鵜(う)の瀬と白石神社

小浜市下根来(ねごり)


鵜の瀬

神宮寺から遠敷川の上流に向かって2kmあまり行った所に鵜の瀬があります。遠敷川が狭まった浅瀬で昔ここいらには鵜が集まっていたことから「鵜の瀬」といいます。奈良時代に若狭神宮寺から東大寺へ行かれたインド僧実忠和尚が大仏開眼供養の指導の後、二月堂を創建し2月初日に全国の神々を召集するものの、若狭の遠敷明神だけが遅れて2月12日に参列されたことより、そのお詫びをかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送ることを約束したのがはじまりで鵜の瀬で3月2日にお水取りの行事が行われるようになりました。鵜の瀬の水中洞窟から奈良の二月堂はつながっており鵜がもぐって行ったとの伝説が残っています。鵜の瀬の水は名水100選に選ばれております。川の水を飲むのはちょっとという方には、近くの鵜の瀬公園に給水場が設けられています。ポリ容器1個に300円、ペットボトル4個に300円のステッカーを購入することで利用できます。
鵜の瀬公園に隣接する白山信仰の白石神社には、天然記念物の椿が群生しています。


良弁僧正像

白石神社の前、鵜の瀬公園入口
良弁(ろうべん、持統天皇3年(689年) – 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。
ボランティアでガイドをされている方は、良弁僧正は、ここ小浜市下根来の生まれだとする言い伝えがあると話されたが、他の説もしっかりと話されました。としては『東大寺要録』には持統天皇3年(689)、相模国(さがみのくに:神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正に師事されたといいますが、『七大寺年表』では近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたともいわれています。
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇から信任を得て、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定された。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階を改めるよう奏上した。宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没。

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