養父市立大庄屋記念館(旧長島家住宅)

母方の墓参で母と叔母を乗せて養父市大塚へ。帰路養父市小城の大庄屋記念館(旧長島家住宅)へ立ち寄った。ここの長島家に先々代が大塚中島家から嫁がれたそうだ。母や叔母が子供の頃は法事で来たことがありまだ住まわれていたそうだ。 養父市小城の裏山高台にある。江戸時代後期に出石藩の大庄屋を勤めた長島善右衛門の時代に母屋が建てられたことから大庄屋記念館と呼ばれている。敷地と建物は養父市が長島家から寄贈を受けて、古い建物を保存しながら昔の生活が体験できる歴史民族資料館となっている。 明治期に母屋が改造され、大正時代に客殿が増築された。このため現在の屋敷は大正時代に最盛期を迎えた豪農が生活する建物群として完成されている。建物が無傷な状態で良好に保存されていることから養父市指定文化財「長島家住宅」となり、玄関前には山梨の古木がある。

但馬最初の民俗資料館

養父市教育委員会ホームページ・パンフレットによると、 江戸時代の大庄屋屋敷を利用した資料館です。 母屋や納屋、土蔵などが広い敷地に配置された風格ある建築空間は見事です。 館内には生活用具や民具などが収集展示され、かつての暮らしや養蚕の歴史などが学べます。 江戸時代後期に小城村の庄屋をつとめた旧長島邸をそのまま利用して民族資料館として開館しています。建物は寛保3(1743)年に建設されたことが、土蔵金具から明らかになっており、建物空間・構造・石垣など当時の生活をうかがうことができます。現在展示している民族資料は、長島家のものと町民から無償で寄付していただいたもので、養蚕・和牛・炭焼きを中心に生活用具を展示しています。 昭和49年11月、養父町民俗資料館として開館 平成16年4月、養父市発足を機に養父市大庄屋記念館と名称変更 但馬でも最初に開館した民俗資料館で、市内にはほかに市立山田風太郎記念館、市立上垣守国養蚕記念館、市立木彫記念館がある。

歴史文化遺産の長島家住宅

敷地:3,718㎡ 上段・中段・下段の3段 下段:現在は管理棟がある 中段:母屋・客殿・土蔵 上段:納屋・物置 また中段の母屋と常談の納屋の間には帯状の段(スロープ)があり、地神の社 建物:892㎡(母屋・客殿・土蔵など) 居宅:部屋数21室、風呂2ヶ所、便所5ヶ所 納屋:納屋2棟、倉庫、土蔵3棟、土塀、門5ヶ所

庭園:表座敷前の母屋庭園、客殿横の裏庭園、さらに母屋の西方の庭園と3箇所 特徴 住宅東側の谷川沿いには高さ10mもある石垣が積まれ、日本の伝統である隅角部がなく、緩やかなカーブを描いて石垣ライ ンが形成されている。これは西洋風の石垣をモデルにして築いた珍しい石垣工法で、明治期に築かれたもの。 さらに谷川には谷底が掘れないように石材を敷き詰めた床固工法を採用している。またすぐ上流には砂防堰堤も施されている。セメントを利用しない石積み工法で作られた大正期の貴重な土木遺産である。

2013-08-17-09.15.26-300x250   2013-08-17-09.05.40-300x250

JR山陰本線最大の難所に開通したトンネル

桃観トンネル

JR山陰線最大の難所に開通したトンネル


桃観トンネル(余部側)


山陰線久谷・余部間には、山陰線で最も長い桃観トンネル (全長1,991m) があります。余部鉄橋と並ぶ最大の難工事で、

桃観トンネル(浜坂久谷側)
後藤新平の筆による石額

そのトンネルの東西の坑口上部に山陰線建設当時の逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平の筆による石額が掲げられています。
久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」
余部側は「惟徳岡小(この徳は少なくない)」
と刻されています。
初期の鉄道工事には、記念すべきトンネルの両端を煉瓦や石で装飾し、石額を掲げていました。桃観トンネルも明治43年に完成し、山陰線の記念すべきトンネルとしてトンネルの両端に石額が掲げられています。山陰線の歴史を語る文化的遺産です。
・建立年月日 明治43年
・碑文 碑面 久谷側「萬方惟慶」
余部側は「惟徳岡小」
・揮毫 逓信大臣兼鉄道院総裁 後藤新平
・建立者 鉄道院 米子建設事務所

より大きな地図で 桃観トンネル を表示

山陰線の中で最大の難所だった香美町香住区余部~新温泉町久谷を結ぶトンネルで、1911年(明治44)に完成しました。山陰線のトンネルの中で1番長く(全長1,991m)、約4年間の年月をかけ、当時としては巨費の61万円が投じられました。

この工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)で、難所工事であったため殉職者や病死した人もいました。その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中 職斃病没者 招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。

工事は西より東に向って上り勾配を利用して、掘削は久谷側の西口から始まりました。空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮な空気を供給して作業を行うという、当時の技術の中でも最も近代的な工法が採用され、山陰西線(鳥取~香住)において、機械掘削の初めての試みとなりました。

煉瓦で造られたトンネルの出入り口には、山陰線の開通記念として、当時の逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平の筆による石額が掲げられています。久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」、余部側は「惟徳罔小(この徳は少なくない)」と刻されています。実際このような石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかありません。

=但馬の百科事典より=

工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)ということで、強制連行され不当な待遇であったかのように叫ぶ人たちがいた。しかし、考えていただきたいのは、工事期間の1906(明治39)から1911年(明治44)ころは朝鮮併合で貧富の差が激しかった併合前の朝鮮から、日本国民として一旗揚げようと日本に渡ってきた朝鮮労働者も多くいたのである。アメリカのゴールドラッシュのように学歴も素性も分からない外地の朝鮮人にとって必然的に鉱山や土木工事など肉体労働者が多かった。

従って戦時中には国家総動員法によって、日本国民は日本人・朝鮮人・台湾人の区別なく徴兵・徴用はあったが、終戦から多くは日本政府の補助で帰国している。

朝日新聞

戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが外務省が証明されている。朝鮮総連などが使う強制労働などという言葉すら造語である。明治に強制労働など行われなかったし、むしろ朝鮮人としてではなく同じ日本人殉職者として差別なく石碑に刻まれていたことがそれを示していると思う。

豊岡駅、新駅舎デザイン決定

羽ばたくコウノトリ 豊岡駅、新駅舎デザイン決定
(神戸新聞 2010/04/06 09:15)
JR西日本福知山支社は5日、来年3月の完成を目指す豊岡駅(豊岡市大手町)の新しい駅舎のデザインを発表した。コウノトリが羽ばたく姿を屋根部分に取り入れたほか、伝統工芸品の柳ごうりや北但大震災復興建築のイメージを部分的に採用した。
(中略)
新駅舎は現駅舎の北側に建設する。ホームをまたぐ自由通路とつなげて2階部分に改札を設ける「準橋上駅」となり、1階にはコンビニ、豊岡観光協会、2階は改札口のほか駅事務所、みどりの窓口、待合室を設ける。また、すべてのホーム(1~3番)にエレベーターを各1基設置する。新駅舎だけの総工事費は約7億円。
(宮下裕史)

現在の駅舎は1935(昭和10)年に建築された木造平屋で北但大震災で崩壊した駅舎を耐震構造を取り入れた市役所や大開通に残る建物群の一つだ。
平面に広い現在の駅舎は、JR西日本福知山支社管内の主要駅が和田山、西舞鶴、東舞鶴、福知山、亀岡、綾部、園部など橋上駅舎として相次いで建て替えられたなか、最後まで国鉄時代の匂いが残った駅舎だった。

※新駅舎のイメージ
http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/04/05/20100405_toyooka.pdf
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

クローズアップされてきた「但馬三江」駅

「但馬みえ」フィギュア、駅で限定販売…北近畿タンゴ鉄道

限定販売されるフィギュア「但馬みえ」
「但馬みえ」と申します――。
北近畿タンゴ鉄道(KTR=本社・京都府福知山市)は18日、車内で観光案内などのサービスをしているアテンダントのフィギュア1000個を、4月1日から豊岡駅など有人15駅で限定販売すると発表した。
宮津線がJRから転換されて、4月1日で20周年を迎えるのを機に企画。模型メーカー「トミーテック」(本社・栃木県)の「鉄道むすめ」のシリーズで、全国販売されるのをポーズを変えて限定品にした。
市販品は髪に手を添えている姿だが、限定品は左手を上げ、「こちらをご覧ください」と、車窓からの観光名所や郷土史を説明しているポーズをイメージした。
名前の「但馬みえ」は、豊岡市の但馬三江駅から付けた。制服や手に持つカートのデザインは、KTRで使用されているのと同じで、高さは約10センチ。
1個630円(消費税込み)。問い合わせはKTR企画総務課(0773・24・2510)へ。
(2010年3月23日 読売新聞)

鉄道むすめって何?初めて知った。
http://tetsudou-musume.net/character/10_mie.html
<日本三景「天橋立」へKTRがご案内いたします。>
北近畿タンゴ鉄道株式会社/アテンダント
・物静かな美人タイプ。お客さまへの落ち着いた案内が好評。
・日本神話と古文に詳しく、百人一首にも詳しい。競技かるたにも参加。
・「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」の歌は必ずとる。
※北近畿タンゴ鉄道のアテンダント。
※名前の由来は「但馬三江駅」から
※vol.9からの新キャラクターです
だそうだ。無人駅だし…。
天橋立なら羽衣の天女のイメージでは。まあどうでもいいが…。
こんなサイトがありました
http://ktr-tetsudo.jp/attendant/
世紀の大規模工事
“円山川橋りょう” 架け替え見学ツアーを実施
平成22年4月3日(土)・4日(日) の2日間
http://ktr-tetsudo.jp/news/archives/004237.php

兵庫・但馬三江駅の愛称を「コウノトリの郷駅」に

改修後の但馬三江駅
北近畿タンゴ鉄道(KTR)は10日、兵庫県豊岡市日撫の但馬三江駅に「コウノトリの郷さと駅」と愛称を付けた。記念に自転車を積んで乗車できるサイクルトレインが特別運行され、乗客は駅前で愛称を刻んだ石碑の除幕後、市内の観光地を目指して走り出した。
木造の駅舎で1929年に設置された。同社の駅の中で、乗降客は最も少ないという。「降り立ってみたくなる駅づくり」をテーマに利用客増を目指し、近くにある県立コウノトリの郷公園にちなんで名付けた。
この日、運行された記念列車は座席を取り外して自転車を固定する金具を19台分取り付け、京都府舞鶴市の西舞鶴駅と豊岡駅間を1往復。列車がコウノトリの郷駅に到着すると、乗客は自転車を押して降り立ち、駅前に設置された石碑(高さ約2・5メートル、直径約0・6メートル)の除幕式に参加した。
仲間と乗車した同府綾部市上野町、西山裕樹さん(48)は、郷公園や玄武洞を巡るといい、「列車を降りて徒歩や自転車で回るのは健康的でいい」。辻本泰弘社長は「復活を果たしたコウノトリにあやかり、利用者増加に向け、『快速コウノトリ号』やウエディング列車を運行するなどで粘り強くやっていきたい」と話していた。
(2009年5月11日 読売新聞)

改修前の但馬三江駅 神戸新聞

KTRは同社駅中で最も乗降客が少ない但馬三江駅に「コウノトリの郷(さと)」と愛称を付けている。豊岡市内に近いため乗降客が少なく存在感のない駅だ。
私も宮津線は、親父が公務員で宮津や舞鶴に単身赴任していたので子どものときに国鉄時代の宮津線は一二度は乗った思い出がある。また近所のお兄ちゃんに連れられて丹後木津にチューリップを見に行ったときに乗ったのをかすかに憶えている。
一昨年京都からの帰り道、福知山で久々にタンゴエクスプローラーに乗って豊岡まで帰ってみた。丹後は日本の美しい風景が残されている数少ないところ。日本海を走る車窓から天橋立などは美しかった。問題は距離が長いため山陰本線を通るよりも高くつくことだ。別会社の問題もあるだろう。
しかし、鉄道ファンにとって開業当時のままの駅舎は段々少なくなっているので貴重だ。2月に改修されたが面影を残している。主要駅でも近年福知山、綾部、亀岡駅はすでに改修され、最後まで大正時代のまま残されていた豊岡駅ももうすぐ改修が始まる。山陰海岸沿いの竹野駅や香住駅などと播但線の竹田、青倉駅など開通当時のままの駅舎は数えるほどだ。早く回らねば。
但馬三江の由来
駅の所在地は兵庫県豊岡市日撫(ひなど)である。本来は三江の中心部からは丘の反対側で路線上三江村の中心部を通らないが村の玄関として三江と決めたのだろう。JR、KTR含めて駅名に「但馬」がつく駅は但馬三江駅のみである。他にも三江駅があるから区別するためだろう。この地区はかつて城崎郡三江郷であった。北に隣接する地区名には田鶴野、下鶴井と鶴にちなむ地区名がある。
城崎郡三江郷の北に位置する城崎郡田結(たい)郷はかつて山名四天王の一人、田結庄(たいのしょう)氏の領地で、三江の西南には田結庄氏の居城鶴城(豊岡市愛宕山・山本)があった城崎郡の中心地であった。
城崎郡は、新田、城崎、三江、奈佐、田結、餘戸が知られている。かつて円山川河口部から豊岡盆地一帯が潟湖で周囲の山々から流れ込む土砂で黄色く濁っていたことから黄沼前海(きぬさきのうみ)と記載されている。城崎と言う地名は(黄沼前)の名を受け継いだ物ではないかと言う説があるが、豊岡城の城の字を充てたのではないか。
三江はその美しい入り江で美江が三江になったのだったのだろう。
三江や出石にかけて古くからコウノトリが生息していた場所で、全国で唯一のコウノトリの神社久久比神社があることからも古くからコウノトリのメッカだったことが伝わる地区だ。ただしクグヒとはコウノトリに限らず白鳥全般をさすようだ。
城崎郡の郡郷名は現在の旧城崎町ではなく、但馬国守護大名山名持豊(宗全)により、此隅山城の出城として、標高48mの神武山に木崎城(城崎城)が建築された。鶴城に対して亀城と呼ばれていた。1580年(天正8)の羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国山名氏が滅ぶと、宮部継潤の支配となった。
しかし、もともと山名持豊(宗全)より前の父・山名時熙(常熈)は、九日市に居館があった痕跡があり、此隅山城はそれより代が新しい。宵田城の垣屋氏によって木崎城(城崎城・豊岡城)がとられてしまい、劣勢になり此隅山城を築城し、さらに現在の出石城の山上の子有山城に退いたようだ。
宮部氏は、城崎を豊岡と改め、豊岡城を改修した。このとき、城下町も整備され、豊岡の町の基礎となった。最初は城崎温泉は湯島と呼ばれて現在でも温泉の中心部は湯島地区である。
コウノトリ伝説
日本書紀によれば垂仁天皇の御宇二十三年冬十月朔(ついたち)、天皇が誉津別皇子(ほむつわけのおうじ)をともない大殿の前に立ち給う時、鵠(くぐい;コウノトリの古称)が大空を鳴き渡った。 その時、皇子が「これは何物ぞ」とお問いになったので、天皇は大いに喜び給い左右の臣に「誰か能くこの鳥を捕らえて献らむ」と詔せられた。 天湯河板挙(あめのゆかわのたな)が「臣、必ず捕らえて献らむ」と奏し、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲国で捕らえたといい、あるいは但馬国で捕らえたともいう。 十一月朔、天湯河板挙はめでたくこの鵠を献上したのである。時に皇子は三十歳であったが、いまだ物言い給わず、あたかも児の泣くが如き声のみで、この日初めて人並みの言葉を発せられたのである。 これほどに鵠は霊鳥なのでその棲家の地を久久比(くくひ)と呼びなし、その後この地に宮を建て、木の神「久久能智神」(くくのちのかみ)を奉斎した。 これが久久比神社(くくひじんじゃ)の始まりであった。 さりながら、その頃豊岡盆地は「黄沼前海」(きめさきのうみ)と称して、まったくの入海、下宮の地はその入江の汀であった。 又そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもろう処、神自ら鎮まり座す景勝の地であった。 われらの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久久能智神」を奉斎し、木の御神徳の宏大に帰依したのも宜なる哉である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

但馬の死火山 神鍋山

神鍋山 万場から神鍋山を望む
大机山

わが日高町の神鍋(かんなべ)地区は、関西のスキー場として古くから知られるが、旧火山の神鍋山を中心に高原が広がり古来から人が早くから住み始めた。

兵庫県豊岡市日高町にある神鍋山は、大正時代に開かれた関西初のスキー場として知られています。約2万年前の火山活動でできたスコリア丘で、標高469m、周囲約750mの噴火口は深さ約40mの擂鉢状の草原になっています。北西隣の大机山、南東の太田山、ブリ山、清滝山といった単成火山とともに神鍋単成火山群を構成しています。周辺には同時代に生成された風穴・溶岩流・滝などがあり、同じくスキー場として知られる鉢伏高原(養父市)とともに早くから人が住み着いた遺跡や古墳が多数あります。

噴火した火山の火口跡が鍋のような形状から「神様のお鍋」という意味で神鍋山とついたのでしょう。これは上記のようにもともと「神奈備(かむなび)山」が訛って「かんなべ」となり、「神鍋」という字を当てたのではないかと思います。ゲレンデ名になっている岩倉という字名があり神奈備の磐座(いわくら)のことではないでしょうか。

気多人(けたじん)のルーツと思われる縄文人は、中国山地を尾根づたいに獲物を追ってやってきたとも考えられます。また、海水面が今よりも低かった頃、海岸づたいに転々と移り住みながら移動してきたと考えられます。

兵庫県内で古い遺跡が発見されたのは、温泉町畑ヶ平遺跡、養父町・但東町の尖頭器発見、 大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。2カ所は同じ山岳地帯で尾根でつながっています。人類は最初、山岳地帯から住み着いていました。

噴火した火山の火口跡を見つけた縄文人は、鍋のような形状から、「カネ・ナペ」、「神奈備(かむなび)」が訛って「かんなべ」となり、「神様のお鍋」、「神鍋」という字を当てたのではないでしょうか?!

このマオリ語のカネ・ナペとしても意味が通じるのです。これは神鍋山(かんなべやま)を神奈備と想定して、山神社、椒(ほそき)神社、雷神社の三つの名神大社を結ぶと正三角形に鳴ることに気が付きました。このトライアングルは、「三柱信仰」ではないか!と思うのです。

万場(マンバ)区は神鍋山から東に位置し、山田の奥神鍋スキー場と繋がるスキー場で、村落の氏神様が天神社です。てっきり名前から雷神社、山神社などとつながる古社のひとつだではないかと考えていたのですが、行く機会がなく初めて訪れました。境内の鳥居に天満宮と書かれてあり、したがって祭神はもちろん学問の神様菅原道真公です。

神鍋地区は古くは太多郷=旧西気村)で、鉢伏地区同様に意味不明の難解な地名の宝庫で、それだけ古くからの人が住み着いた歴史を感じさせます。神鍋(かんなべ)=カネ・ナペが訛った?、太田(ただ)、稲葉(いなんば)=イナパ?、山田(やまた)イヤマタ?、万却(まんごう)、名色(なしき)、万場(まんば)マパ?とポリネシア言語に近い発音です。この「まんば」は、マオリ語の「マノ・ポウ」、MANO-POU(mano=interior,heart,overflow;pou=pour out)、「水が流れ出す地中(のトンネル)」の転訛(「マノ」の語尾のO音が脱落して「マン」と、「ポウ」の語尾のU音が脱落して「ポ」から「ボ」となった)と解します。 →さらにまんばになったのでは?

くわしくは
http://sakezo.web.fc2.com/jomon6.html

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

山陰線八鹿-城崎100年の軌跡企画展

http://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/0002344960.shtml

JR山陰線の歴史をたどる企画展「山陰本線100年-八鹿~城崎間開業100年-」が、豊岡市日高町祢布の但馬国府・国分寺館で開かれている。同線にまつわる資料93点を展示している。

詳細は但馬国府・国分寺館

http://www.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/html/exhibit18.html
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

三大杜氏 但馬杜氏(たじまとうじ)

酒のメッカ、灘五郷をかかえる兵庫県は、全国的に有名な最高級酒米「山田錦」をはじめとする酒米どころです。また丹波杜氏、但馬杜氏という酒の二大技能集団があります。

丹波杜氏は灘に近いので灘では丹波杜氏がほとんどです。
南部杜氏、新潟の越後杜氏、丹波杜氏と並んで「日本四大杜氏」(人数的には丹波杜氏の代わりに能登杜氏で四大杜氏とも呼ばれる)といわれる但馬杜氏は、南部、越後両杜氏組合に次いで全国で3番目の規模を誇ります。主に伏見などの近畿一円、中国、四国、東海地方で活躍しています。但馬人気質であるねばり強さ、山廃、吟醸等あらゆる製法を器用にこなし、毎年新酒鑑評会において優秀な成績を上げています。但馬杜氏は但馬牛と夢千代日記で知られ、日本一の湯村温泉がある雪深い美方郡が中心で、その半数は温泉町が占めています。

県内の杜氏組合は、丹波、但馬、南但の3団体。丹波ではメーカーに籍を置く「社員杜氏」が増え、40人中12人を占める。一方、但馬は93人全員が季節限定。2004年、城崎郡の組合は但馬杜氏組合の傘下に入り、出石郡の組合は解散した。(神戸新聞)残りは村岡町、美方町、浜坂町の順になると思います。(温泉町以外は正確なデータがないので、検索してわかる範囲を下記の杜氏一覧表にしてみました)

春から秋までは農家に従事して、毎年米の刈り入れが終わる10月に蔵入りし、翌年の3月まで約6~7ヶ月の間蔵元で寝泊まりして行われます。毎年但馬杜氏組合などで相互に研鑽を高め合いながら、良い酒を造ろうとする心意気が日本酒の伝統文化を支えています。しかしながら全国的に高齢化が進み、30年前には300名以上いた杜氏(親父、おやっさんと呼ばれる)の数も200名を切るまでに減ってしまいました。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

桂小五郎最大の危機 久畑関所跡


旧久畑関所跡 豊岡市但東町久畑

  
旧京街道

旧山陰道(支道)の石畳が往時を偲ぶ。ここから但馬と丹波の境である登尾峠を越えると夜久野に出る。
元治元年7月、桂小五郎は蛤御門の変で、対馬藩邸出入りで知っていた出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ遁れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出、京街道の諸藩の関所をくくり抜けながら、もう少しで出石城下に入る但東町久畑にある京街道(現在の国道426号線)の久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けていました。


数年前まで木の関所門があったが撤去された。(残念です)

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変で出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。

しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。

後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。


一宮神社

式内社ではないから比較的新しい神社だろう。
どういう謂われで一の宮と呼ばれるようになったのかわからないけれど、
久畑関所そばにあるから、江戸時代に出石藩主が、京街道を出石領内に入る最初の守り神として建立したのではということは十分想像できます。
一宮神社には「兵庫県指定天然記念物」に指定されている大ケヤキ
(樹高35m幹周り7m)があります。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

Scroll to top