年寄りを連れて三千里
母親が兄弟同士最後になるかも知れないので会いたいと長女のおばさんが暮らしている三田の有料老人
社会福祉法人敬寿記念会特別養護老人ホームゼフィール三田へ行った。
母親は6人兄弟で、長男、次男のおじさんはもうこの世になく、残る女の91歳の母親と私のおばさんにあたる2人の3人を載せて、4人が集まれる最後になるかも知れないから連れていけという頼みであった。
昨月25日開通した日高神鍋高原インターから養父市八木(今滝)のおばさんを拾い、
播但自動車道で姫路の末っ子の香寺町のおばさんを載せる。
近畿豊岡自動車道ー播但自動車道ー福崎-中国自動車道 神戸三田
まるで広い兵庫県を但馬ー播磨ー丹波とL字に駆け巡るようなドライブ。疲れましたw
子供の頃にいろいろお世話になった昭和の良き時代が蘇ってくる。叱られたり褒められたり怖かったおばさんたちがこの車にみな乗ってると思うと、いろいろなことが蘇ってくるのだ。
そんなことは関係なく女3人だから、車内で勝手に分けの分からない話を数時間延々聞かされある意味地獄の黙示録である。これは人生の業だと悟るしかない。
個人的なことより、高齢化社会に世話になった高齢者たちの幸せとはなんだろう。今年60歳を迎える自分もやがてそうなるのだから。
播但道から岐路竹田城が見えるトンネルでそんな母親たちが但馬の山々はやっぱり美しいなあ、城がきれいだなぁといった。どのトンネルか憶えていないが姫路から但馬に行く間の竹田城の手前トンネルでその真下を通る絶好のポジションがある。
その母は中島家のルーツや歴史好きでいろいろ調べていた。そんな母親たちの感想ではなく、竹田城含めてその家老中島家の血を継ぐ者のはしくれにとって、なんとか、その竹田城やその家老家として関わった子孫のおばさんたちや竹田城のことを遺さねばならないと思うのだ(けど)。播州から赤松が南但を所領に治めるために築いた砦が竹田城の礎である。母系祖先中島家はその家老中島重右衛門として、与えられた所領は養父郡(大塚)だった。秀吉の但馬征伐によって百姓に下った当家は、この私の母系子孫である。私の母の兄弟でようやく代々中島重右衛門から単に重門になったのである。それが母の6人兄弟の長男。赤松とともに竹田城築城に従って家老中島砦(佐用町中島)の中島十右衛門が但馬に移住したのが母方のはじまりである。したがって元々は但馬人ではない。といっても三代続くと江戸っ子といえるのだから十何代前の話である。
本家に円山応挙が滞在し門下が描いた絵が残る。また古い仏像もある。したがって私のルーツは但馬ではなく播磨上月町となる。