南構遺跡(兵庫県豊岡市日高町久斗)について
いただいたパンフレットから
去る10月26日(土)、一般国道483号北近畿豊岡自動車道(八鹿豊岡南道路)の建設に伴い、豊岡市久斗(本籍は祢布)の南構遺跡の現地説明会が行われました。当日告知があったのかなかったのか、それもネットから知って毎日新聞一社のみでした。翌日現地へ行ったみました。
久斗となっていますが、字が南構なので現在の行政区は東構区でもあります。なぜかというと東構区は、西端の祢布(にょう)字北構と東端の岩中字東柳の東と構を取って東構区となったからです。現在はこの近辺では久斗に付き合われるか東構に付き合われるかどうかが境界です。
字名の「南構」は、楽々前(ささくま)城の南の構えがあったとか聞かされていたのですが、もっと以前からこの場所に人が住み着いていたことが分かりました。
いただいた現地説明会パンフレットによると、
この調査では、竪穴住居跡12棟の他、多くの土坑や柱穴が発見されました。柱穴は1000基以上に及びますが、掘立柱建物跡として考えられる柱の並びは。約10棟を数えます。また、県道に近接する調査区の北端からは、埋没した3基の横穴式石室も発見されました。調査区の全域からは、コンテナ(遺物収納箱)150箱を超える時が出土しており、古墳時代前期(約1800年前)から平安時代中期(約1100年前)に至る時期の須恵器や土師器、緑釉(りょうゆう)陶器、勾玉などがみられます。また、数は限られていますが、縄文時代早期の土器(約8000年前)や石器も出土しており、遺跡周辺が古くから人々の生活場所であったことが分かりました。
南構遺跡の北あるいは北東の約1km圏内には、奈良時代の官衙(役所)跡と考えられる定谷遺跡や第二次但馬国府跡と推定されている祢布ケ森遺跡などが所在しており、奈良時代以降の南構遺跡いついては、それらの遺跡との関連を含めて検討していく必要があります。
調査は、来年度以降も引き続き行われる予定であるため、今後、地域の歴史が解明されていくものと思われます。
夏栗から久斗、祢布、国分寺、水上までの一帯は、明治以前までは気多郡高田郷といわれた地域で、但馬国府・国分寺が置かれ但馬の中心になります。また久斗には久斗寸兵主神社があります。おそらく気多軍団に関係する但馬に最初に整備された軍とされる気多軍団にゆかりのある神社で、同遺跡にも関係がある気がします。
『国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記・上)に、
人皇37代孝徳天皇大化三年、多遅麻国気多郡高田邑(村)に於いて、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以て軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どる。