歴史・国家観を教えて何が悪いのか?

/ 3月 5, 2010/ オピニオン/ 0 comments

田母神氏開設の「歴史・国家観講座」を廃止 防衛省統合幕僚学校

産経IZA 2010/03/05 00:15

 政府見解と異なる内容の論文を発表したとして事実上更迭された、前航空幕僚長、田母神(たもがみ)俊雄氏(61)が防衛省・統合幕僚学校(東京都目黒区)の校長時代に、幹部自衛官から大局に立つ国家観を備えてほしいと設けていた「歴史観・国家観」の講座について、同学校は4月から廃止することを正式に決め、関係者に通知した。

関係者にはカリキュラム全体の見直しの一環と説明していたが、国会の批判を受け、省が見直しを表明していた。廃止が伝えられた講師からは「国防に就く自衛官にとって国家観や歴史観は不可欠」といった批判が聞かれる。

 「歴史観・国家観」の講座は陸海空自衛隊の1佐クラスの自衛官50人程度を対象にした幹部高級課程で、防衛法制や国際情勢、戦史などカリキュラム全体約200時間(半年間)のうち4科目13時間分を占めていた。田母神氏が校長時代に「幹部自衛官になるには大局観や国家観を備えてほしい」として導入。新しい歴史教科書をつくる会の福地惇(あつし)副会長や高森明勅(あきのり)理事、作家の井沢元彦氏らが講師を務めた。

しかし、ここにきて4月から正式に廃止が決定する経過は何か?

以下の社民党の質問を受けて、前政権から決まっていたことだったのだろうか、社民党連立の政権交代の結果しか考えられない。
日本の政治家は自民党時代を含めてシビリアンコントロール(文民統制)を分かっていない。それにもまして防衛省官僚自体と北沢防衛相が、先日の自衛隊での発言に厳重注意したことでも、直接指示したかは知らないが、防衛省内部が警戒したのだろうか。

シビリアンコントロール(文民統制)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%B0%91%E7%B5%B1%E5%88%B6

ハーバード大学のサミュエル・P・ハンティントンによれば、この文民統制にも大きく2つの形態が存在する。第一に「主体的文民統制」であり、文民の軍隊への影響力を最大化することによって、軍隊が政治に完全に従属させ、統制するというものである。しかしこれは政治家が軍事指導者である必要があるため、軍隊の専門的な能力を低下させるとになり、結果的に安全保障体制を危うくする危険性がある。もう一方に「客体的文民統制」がある。これは文民の軍隊への影響力を最小化することによって、軍隊が政治から独立し、軍隊をより専門家集団にするというものである。こうすれば軍人は専門化することに専念することができ、政界に介入する危険性や、軍隊の能力が低下することを避けることができる。また現代の戦争は非常に高度に複雑化しているため、専門的な軍人が必要である。

つまり、シビリアンコントロール(文民統制)とは、戦争への歴史的経過から軍の横暴を防ぐために軍の発動権は政府、国民にあるとしたものである。しかし、専門ではない政治家があまりにも軍事へ介入することはむしろ安全保障を危うくする危険性がある。軍人が政治から独立し専門化することに専念することができるための考えであり、その内容に介入することではない。軍隊の専門的な能力を低下させるとになってはならないのだ。

戦時に限らず、かえって顕著な弊害がある。阪神淡路大震災で、阪神地区に近い伊丹陸上自衛隊が準備し出動要請を待っているときに、村山(社会党)首相がに対する要請が遅れ、もっと早ければ救えた命も守れなかったという。肝心の緊急時の判断におけるが大きい。北朝鮮からミサイルが飛んできて首相の要請がなければ防衛できないようではなんのために日々訓練しているのかわからないのだ。ミサイルは数分の勝負。軍事大国アメリカでも議論があるほどだ。

日本では自民党政権ですら、憲法9条という縛りがあるため、シビリアンコントロールを拡大解釈し誤解している。
そもそも、GHQによる日本解体のための戦争放棄が、すでにとっさの処置で数年後には憲法改正するだろうと思っていたと当時のGHQ関係者は供述している。アメリカでも親日派は矛盾していることを認めている。9条護憲の解釈派は、憲法にあるから守れということにのみこだわり安全保障の本質を議論しない。9条が平和を唱え、諸外国に核廃絶や軍隊をなくし、世界が平和になるように願い続ければ世界が平和になるなら誰も戦争などしたくはない。

米ソ冷戦構造が終わり、これで世界は平和になったと錯覚している人が多いが、むしろ米ソの抑止が利いていることで、おとなしくしていた独裁国家にすきを与え、ここ20年で核配備と軍備を急激に増強している。もっとも危険は地域はいまや共産国家の北朝鮮と中共が残る東アジアであり、沖縄を含めた日本は民主主義国家として日本とアジア・オセアニアの防衛拠点である意義は増してきている。

幹部候補生が、国防の歴史と国家観を学ぶことはこれまでなかったことがおかしい。

しかも、学ぶといっても、講義の一環で決して十分とはいえない程度の講義時間。
防衛省統合幕僚学校(東京)が5日に開く卒業式に、歴史認識に関する論文問題で航空幕僚長を更迭された田母神俊雄氏をいったん招待した後、出席を見合わせるよう要請していたことが同省への取材で分かった。

防衛相及び防衛省の官僚はろくなものがいない。問題は国防意識が欠如した、自らの談合汚職をくり返すネクタイの防衛省内部や大臣の資質であり、自衛官の国防意識に影響するおそろしい事態だ。更迭しなければならないのは共産党と社民党、民主党左派、及び左寄りの歴史認識のない政治家たち、マスコミや学者のオツムだろう。

調べてみると、2009年 田母神元航空幕僚長の論文問題の頃から共産党井上哲士議員の再三の執拗な質問に対して、当時の浜田防衛相及び前麻生太郎首相が検討するとしていたようだ。

国防について、歴史を学ぶことがこれまでなかったらしい。そこで田母神氏が自衛隊幕僚学校校長時代に「歴史観・国家観」の講義を新設した。

2008(平成20)年11月7日、麻生首相は参院本会議で、「政府としては文民統制に万全を期す」と述べた。また、河村官房長官は論文の内容に対し文民統制の概念が欠如していると批判した。田母神氏が更迭され、自主的引退となった経緯は以下の通り。
平成二十年十一月六日提出(2008)

質問第二〇七号
提出者  辻元清美、
http://www.shugiin.go.jp/itdb_rchome.nsf/html/rchome/News/ampo17020081127002_f.htm

自衛隊幕僚学校の歴史観講義
全講師が侵略美化派
井上議員に防衛省回答

2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」

 防衛省は十九日、前空幕長の田母神俊雄氏が統合幕僚学校長時代に新設した「歴史観・国家観」講義の講師名の一部を明らかにしました。日本共産党の井上哲士参院議員の再三にわたる求めに応じたもの。二〇〇三年度からの講義で講師を務めたのは六人で、明らかになったのは五人。うち三人は侵略戦争を美化する「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーです。
 判明したのは、大正大学の福地惇教授、日本文化総合研究所の高森明勅代表、作家の井沢元彦氏、元統幕学校教育課長の坂川隆人氏、冨士信夫・元海軍少佐です。

 福地氏は、侵略戦争を美化する「つくる会」の副会長で、高森氏は理事。井沢氏は、同会のホームページで、賛同者として紹介されています。冨士氏は『こうして日本は侵略国にされた』と題する本を出版。東京裁判について「自虐史観の源流となった」と主張しています。

 また、講義内容の概要も明らかになりました。坂川氏は「誇るべき日本の歴史」として「欧米諸国によるアジア諸国の植民地化に対して立ち向かった日本」を強調。「建国以来の米国の西進は太平洋を越えてアジアに。そこで生起したのが大東亜戦争」と、“自存自衛”論を展開しています。

 氏名が黒塗りになっている一人は、「つくる会」三代目会長の八木秀次・高崎経済大学助教授(当時)とみられます。八木氏は本紙の問い合わせに否定しませんでした。

 麻生太郎首相は井上氏の国会追及に「(講義内容は)バランスのとれた内容に努めることが大事だ」(十三日)と答弁していました。今回の資料により、政府の弁明とはかけ離れた偏向教育が行われていたことが改めて鮮明になりました。

花岡信昭メールマガジン★★702号[2009・3・19]
 これはやはりまずいのではないか。田母神俊雄・前空幕長の論文問題にからんで、自衛隊統合幕僚学校で「歴史観・国家観」教育が行われていたことを共産党などが問題にしていたが、浜田防衛相は、新年度から中止することを明らかにしたという。
 まずいというのは、浜田氏の判断もさることながら、共産党の求めに応じて国会答弁で明らかにしたことだ。こういうことは、一政党の質問に答えるかたちではなく、防衛省の総合的判断として表明しなければおかしい。

いい加減にしてくれ!社民党・共産党
だれが国を守るのか?無責任政党とマスゴミ

中・高の日本史も日教組などは歴史や戦後史を自虐史観と戦争の悲惨さばかりでGHQの日本が戦争を始めたという押しつけをそのまま教えている。なぜ戦争をしなければならなかったを教師も知らないくせにウソを教える。ABCD包囲網で封鎖され、戦争を仕掛けられたからだ。負けたからといって独立国家なのだから、アメリカや連合軍の一方的な主張に従う必要はない。植民地政策を進めた欧米と黄色人種解放を掲げた日本とどっちが悪い?

せめて最低限、自衛隊幹部候補生には、正しい歴史観・国家観を教えなければいざというときに指揮する大義が揺らいでしまう。福島や辻元は寝る時に家に鍵はかけないのだろうか?窓も開けて外国人などに不法侵入されて殺されてもいいのだろうか?辻元はピースポートで命を自衛隊に助けられた恩は感じないなら思想以下である。

左翼とは言うこととやることが正反対でつじつまが合わない人間である。NHK、朝日、毎日も同じ。戦争を煽っておいて、負けたら軍部が悪いと被害者になる情けない責任転嫁集団。このニュースを産経新聞以外にどこも報じない。


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中国・韓国は世界でも歴史の浅い新興国である。そういうと「いや中国は四千年もの世界でも歴史の長い国ではないか?」と反論する人がいるだろう。黄河文明など人類の歴史は確かに長い。しかし、国家の歴史ではないのだ。

筑波大学教授・古田博司氏は、『正論4月号』で「朝鮮には国風文化の歴史がない。」という。
韓国の歴史教科書に流れる歴史観をまとめておけば、「韓国の歴史が(帯方郡などの)漢四郡の異民族統治から始まること、中国の文物を輸入して国造りをしたという受動的な側面は思考停止し、まずは遅れた日本にそれを変形し、あたえてやったという能動的な側面を強調し、わが国を中心とする東アジア文化圏が形成されたということを知らしめる」ということになろうかと思われる。元より無理のある歴史観であろう。

朝鮮半島の韓国人の祖先が儒教・仏教・算術・暦学、総じて漢学を発展させていた時期に、日本文明圏はかなり遅れていたことを、日韓の左派学者たちはわれわれにあえて喚起しようとする。これらは議論にはなり得ようがない。(中略)

それでも韓国人は自分たちがかつては文化的に卓越していたのだと主張する。だが、七世紀後半に『万葉集』が、八世紀には『古事記』『日本書紀』が編まれ、平安末期に『源氏物語』『鳥獣戯画』などが完成するころに朝鮮半島で花開いたという証拠はどこにもない。半島ではようやく12世紀に正史『三国史記』、十三世紀に野史『三国遺事』が登場するが、前者の記述に「律令」ないしその編目名らしきもの、その条文を修正した法典を指す「格」という文字が見られる。つまり「律令国家」だった、という主張が韓国でなされることがあった。しかし、これらの用語は、少なくとも法令を表す一般的な用語ととらえるべきであり、唐や日本と同様の「律令」を統一新羅が編纂・施行したとことはなかったというのが現在有力な説となっている。

さらに高麗時代(10~14世紀)、となると、『高麗史』『高麗節要』(内容ほぼ同じ)などは、李朝期の子孫が櫃底から見出した乱稿のたぐいしか史料として残されていない。『高麗図経』というシナ宋代の使臣が残した風俗記録帖があるが、肝心の図が失われているため、人びとが当時度のような着物を着ていたのかも分からないのである。韓国のテレビ時代劇に出てくる高麗時代の衣装は、全部推測の産物に過ぎない。『高麗実録』というものも確かにあったと記録にあるが、李朝に入って王権簒奪の正当化をはかるべく、『高麗史』の編纂を終えるや、一片も残すことなく火にくべられた。その後の『李朝実録』が丸ごと残ったのは、近代日本が朝鮮に入り、資料保存に誠心務めたからに他ならない。

率直に述べるに歴史上の朝鮮は、中華文明に対する他律的な文化史かもっておらず、国風文化はついに育たなかったと言うべきであろう。取りあえずの理由としては、李朝漢文はシナ魏・晋・南北朝時代の易しい漢文が主体で、高度な文化内容を展開するには無理があったこと。経済は明朝初期の反商業政策を受け継ぎ、流通は主に粗放なる市場と行商人が担っていたこと、農村には村界がなく、流民化した民が食える村に集まっては有力者の下で奴隷となって生活していたこと。

また、日韓の左派学者たちが古代における両国の活発な交流を仮構するのにもいささか無理がある。日本海は今も昔も渡航が難しいのである。せいぜい船による漢籍の往来と、亡命帰化人の土着ぐらいを現実のものとして把握しておけば十分であり、過度の想像は控えなければならないだろう。

中国・韓国の歴史教科書がいかなるものであっても、彼ら自身のうちでそれを信じているだけであれば、何もいう必要はないと心得る。だがそうではない。彼らは絶えず歴史問題を政争として惹起し、その無理ある歴史をわれわれ日本人に押しつけようとするのであるから、これは明確に言葉の暴力である。暴力には事実の楯でこれを防がなければならない。

韓国では、1960年代までは、朝鮮は清の半属国であり、日清戦争により朝鮮の独立が認められたという認識が普通だった。ところが、70年代のナショナリズムの高揚期を経て、80年代には、もともと名目上独立国だったということになり、2000年代にはいると侵略者であるはずの日本が朝鮮の許しを得て治外法権と関税自主権を得たというようになった。

じつは中朝どちらを理解することにおいても、両者を切り離して考えることは本来あまり意味がない。歴史的なセットとして捉えるべきであり、あえて総称すれば「中華文化圏」が適切であろう。そして彼らは歴史上つねに共闘してきた。
中国とは絶えず違う民族同士が滅ぼし合うことで王朝を塗り替えてきた。日本のように天皇一統で連綿と2600年つながってきた稀な歴史とは異なる成り立ちである。

近代には、列強の侵略を受ける以前、シナは満州族の支配する清朝だった。(中略)

彼らは満州語で、1616年、満州族のヌルハチは、祖父と父を殺害した漢民族の明を滅ぼすことを天に誓い明を滅ぼした。中国の歴史は三国志から他民族が相手国を滅ぼすというこの繰り返しである。
韓国は日本に中華文明圏から切り取られることにより、いったん歴史上初めて独立をし、かつて一度(併合というかたちで)日本文明圏に包摂された。そして大半の昔を忘れたふりをしているのである。

以上

拙者HPから黄文雄氏によると、

1.清国学生のブーム

 随・唐から清朝末期に至るまでの約1400年間、中国は日本のことを東夷や和夷と見なし、長い「蔑日」の時代でした。しかし、明時代は「北慮南倭」といわれ、北方のタタール人と南方の「倭寇」の脅威に恐れおののいていた「恐日」の時代があり、とくに豊臣秀吉の「征明」(朝鮮出兵)は、最大の「倭寇」として恐れられました。

 約二千年にわたる中華帝国時代、中国はごくわずかな期間を除き、ずっと鎖国を敷き、国として外交は朝貢使を受け入れるのみでした。

 そして、日清・日露戦争後、中国(清国)の対日態度は、「蔑日」から一変して日本に学ぶ「慕日」「師日」の時代となりました。日本も「支那革命」を第二の明治維新として、物心両面から清末の革命志士を支援しました。

 日本へ渡った清国留学生にとって、日本の新文化は実にショッキングでした。そして、「日本がここまでできるなら、清国はもっとできるはず」と思わずにいられなかったようです。

 しかし、辛亥(しんがい)革命が勃発すると、多くの学生は急遽帰国していきました。彼らは日本の近代化の進展に触発され、西洋思想、を懸命に学び、祖国の改革、あるいは反清革命を志しました。

 この現象に対し、日本は中国の目覚めによる日本との提携関係に期待しました。しかし、実際は国家発展のための論理は、あまり理解されず、技術の手っ取り早い習得ばかりを重視して、長期的な教育にはあまり関心がありませんでした。中国人は、戦乱国家で生きてきた民族であり、利益を獲得するにあたり、成果を急ぐのは当然だと考えているため、理想の燃えた日本人の思想教育などは端から興味がなかったのでした。アヘン戦争以後、あらゆる戦争に負けてきた清国では、日清・日露戦争で勝利した日本に学ぼうという運動が起こりました。その代表格は「洋務運動」ですが、日清戦争の敗戦によって運動は失敗だとされました。

 しかしそれは、清国が本気で日本に学びたいと思わせるきっかけとなり、「戊戌維新(ぼじゅついしん)」といわれ、立憲君主制を目指した「制憲運動」です。

2.日本から中国へ

 清国は、今の中国と同じく言論の自由がありませんでした。しかし1900~1911年までに、清国からの留学生は日本で約六十種の定期刊行物を創刊しました。これらは、中国の近代化と辛亥革命に大きな影響を与えたのです。社会思想的な書物も禁じられていたので、清国留学生は、近代思想を代表する書物を競って読み、本国に持ち帰りました。

 モンテスキューの『法の精神』、ルソーの『社会契約論』、ダーウィンの『種の起源』などの洋書は、日本語から中国語に翻訳されました。また、日本で手に入る政治学、哲学、倫理学、法学、歴史学、社会学などの著書は、1902~1904年のわずか三年間で533点が清国へ輸入されました。日本人の著書だけでも321点あったといいます。これら日本から持ち出された書籍が、中国の近代化に大きく寄与したのでした。

 ことに1905年の科挙制度廃止後、清国政府は日本の学制を模した新式の学堂(学校)教育を導入しました。そこで採用された教科書の多くは、日本から持ち込まれ直訳されたものでした。

 中国の近代小説も、日本を抜きにしては語れません。魯迅、郁達夫、郭沫若など中国を代表する小説家は、みな日本留学組です。

 西洋音楽が中国に伝わったのも、日本を通してです。社会主義の思想も、無政府主義の思想も、中国で最初に翻訳された『共産党宣言』も、幸徳秋水の日本語訳をもとにしたものでした。随・唐以来の遣隋使や遣唐使をはじめ、千余年以来日本は中国から多くの経典を輸入し、大切に保存してきました。しかし、中国では禁書、焚書(ふんしょ)、文字獄、戦乱などによって、多くの経典が紛失していました。日本で保存されていた中国の経典は、開国維新以来、復刻再版されて清国留学生を喜ばせました。日本は、中国古典文化の保存に大きく貢献したのです。

 中国の近代教育は、日本の小学校を模したカリキュラムによって構築されました。日本式の図画、体操、音楽なども取り入れられ、天津初の私立学校では、週に十三時間も日本語の授業がありました。1906年に公布された「教育宗旨」は、日本の「教育勅語」の中国版です。また、清国が近大教育を施行する際、日本人教師が大量に雇用されました。その数は、1906年が最も多く、600人に及んだといいます。

 清国新式学校の最高峰である京師大学堂は、1902年に開設されました。現在の北京大学です。それは後者の建設から教学の指導まで、目指したのは日本の大学です。事実上、日本人が築いた大学なのです。

「左翼ファシズムに奪われた日本」西尾幹二 P47

 小さなナショナリズムを克服しようとしたのがEUです。いわば近代国家の境目を外し、小異を捨てておおきなところで手を結び、戦争のない状態にしていこうとしたわけです。その理想のモデルがアメリカン・デモクラシーとフェデラリズム(連邦制度)だとアメリカは主張します。アメリカのベイカー国務長官が1991年、ベルリンで公演しました。ソ連のゴルバチョフ大統領が「欧州共通の家」という新たな価値観を提示したのを受けて、ベイカーはアメリカとヨーロッパは一つの価値観を共有しており、歴史的に一体だと強調しました。そして国民国家の枠を超えてバンクーバーからウラジオストックにまで伸び広がる、つまり東ヨーロッパとロシアをも巻き込んだ共同体を造っていこうと語りました。北米大陸からソ連までのキリスト教文明大同団結を示したのです。フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』はベイカーの語った内容とパラレルであったと言っていいでしょう。これをそのままそっくり受けてEUの理念が生まれ、1992年にマーストリヒト条約が調印され、EUが発足します。
(中略)
 「歴史は終わった」というこの浮かれたお祭り騒ぎは、日本の政治にも乗り移って東アジア共同体の幻想を生みますが、歴史は果たして終わったのか?冗談ではない。終わらないどころか歴史は戻ってしまいました。そもそも歴史が終わるには、ロシアと中国という二つの国が民主主義国家になるということが前提にありました。ところが、この二国はどうにも民主化されないし、今後もされそうにありません。少なくともアメリカやヨーロッパが考えるような民主主義国家にはならないでしょう。日本だって欧米にそっくりにはならないんですから、歴史は終わらないわけですよ。

 まずドイツが納得していません。戦後、ドイツは忍耐し「良きヨーロッパ人」として振る舞うことで東西の統一を達成させました。これを実現したコールはなかなかの政治家だったと思います。しかし、ドイツの我慢は限界に達していました。
 戦後五十年祭の1995年にドイツは動き始めました。まず、「戦後ドイツ人に加えられた不正をあからさまに語ろうではないか」という声が出てきました。それまでは戦後、占領軍がドイツ人に加えた不法に対して、「ヒトラーの犯罪で帳消しだ」という声に黙していましたが、「そんなわけにはいかない」といった声が出てきたのです。

 そして1995年5月8日付の『フランクフルター・アルゲマイネ』に「ドイツ人は敗戦、戦後の最初の数年の苦しみに品位をもって思いを馳せる権利を有するものである」という言葉で結んだ論文が掲載されました。(中略)ドイツの東部で(ソ連)赤軍によって受けた集団暴行、逃げてきたドイツ人が虐殺された事件、ロシアの抑留…。こうした犯罪をヒトラーの犯罪で帳消しにしてはいけないという気持ちを多くのドイツ人は公言し始めたのです。

 ドイツのこの気運に対して、ヨーロッパは大騒ぎになりました。敗戦によってバルト三国、ポーランド、チェコスロバキアなどに定住していた千数百万人ものドイツ人が財産を残したまま逃げ帰りました。こうした人たちが「自分の土地や財産を返せ」と声を上げ始めたからです。
(中略)
 日本に当てはめるなら、満州、朝鮮半島、台湾、中国大陸に置いてきた財産を返せと声を上げることと同じです。
(中略)
 日本はどうでしょう。東アジアは冷戦後一貫して「歴史の終わり」ではなくて、歴史が圧倒しています。つまり歴史が政治や外交を動かしているという現実があります。ところが、日本の政治家の頭には「歴史の終わり」の幻想がしっかりと宿っている。保守と革新が真に実りある対決をせず、どちらも現実を逃げてきたからです。保守はアメリカに甘え、革新は空想に遊び、どちらも似た体質で、混ざり合ってほぼ一体となってしまいました。小泉と小沢が自由に溺れ、独裁に暴走した双生児であることはむべなるかなです。両者はともに歴史の拘束を知りません。
(中略)
 これから日本はどうなってしまうのでしょう。私の推定ですが、小沢は民主党から排除されるでしょう。鳩山政権もそう長くは続かないでしょう。しかし、問題はその先です。幼い政治意識しかもたない政治家たちがどんな合従連衛をくり返しても、私たちが期待しているような、自我の固い殻で幾重にも守られた国益第一の保守政権ができるとは到底思えません。

 最近、国家議員の定数削減が話題となります。あれは憲法改正がしやすくなるという含みがあると私はにらんでいます。定数削減が実現すれば、五年以内に憲法改正がプログラムに上ってくると思います。私が恐れるのは、日本に「歴史の終わり」という幻想を固定化してしまう改正になるのではないかということです。歴史が終わるのだから、もう軍備は要らない、東アジアは国境を低くしてみんな仲良くという友愛憲法ができるのではないでしょうか。それゆえ私は、この流れのなかでは、憲法改正は起きない方がいいとすら思っています。

以上


【高森アイズ】自衛隊教育から「歴史観・国家観」排除の愚[桜H22/3/10]

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