参議院を政党から分離せよ
自民党は27日、夏の参院選比例代表に出馬の意向を示している片山虎之助元総務相(74)の公認を見送る方針を決めた。執行部は、党の内規である比例代表の「70歳定年制」に抵触するベテラン候補者のうち、すでに山崎拓元副総裁(73)と保岡興治元法相(70)の公認も見送ることにしている。片山氏も公認しないことで、有権者に候補者の若返りをアピールしていく。
山拓氏やわからない長老は引退していただきたいと思う。しかし、単純に70歳定年制がすべてなのかと思う点もある。少し歴史を調べてみたい。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
元々元老院が貴族院となり、現在の参議院となった。元老院とは王政ローマにおける王の助言機関、またのちの共和制ローマでは統治機関、さらにのちにはローマ帝国皇帝の諮問機関を指す語である。また現在では多くの国が上院の呼称に用いる語でもある。米国議会で上院、下院に分けられているが、正式には上院ではなくて「元老院」である。
古代ローマでは初代ロムルス王以来、多くの一族を抱える有力者は「貴族(パトリキ)」として終身の「元老院」を構成させ、王の「助言機関」とした。これが最初の「元老院」である。ラテン語で「老いた者」を意味する senex が語源で、ここから派生した senatus「年長者」という語が「年長者会議」という意味で使われるようになった。
前509年、王制が打倒されたあとの共和制ローマでは元老院が実質的な統治機関となった。
また近世になり、体系的な国家構造と将来展望をもつ初の近代的共和国としてアメリカ合衆国が独立すると、その議会には旧宗主国イギリスの両院制を取り入れながらも、名称は「貴族院・庶民院」を改めて「元老院・代議院」としている。
この結果、現在でも古代ローマを源泉とする西欧文明を継承する国々、なかでも英・仏・西・米の旧宗主国とその旧植民地領に20世紀になってから独立した国のほとんどが、上院の正式名称に「元老院」を用いるに至っている。
なお日本でも江戸時代に幕府の政策決定者を「老中」や「大老」と呼んだり、「若年寄」は全国支配の担当である老中に対し、旗本や御家人の支配を軸とする将軍家の家政を担当した。大相撲の親方のことを「年寄」と呼ぶなど、年長者を意味する語を意思決定機関の名称に用いた例がある。明治維新後の明治初期の太政官制では、1875年に設置された立法諮問機関のことを「元老院」と呼んでいた。
元老院は、新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。
1875年に大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退助らの大阪会議での合意に基づき、続いて出された立憲政体の詔書によって1875年4月25日左院にかわり設置された。
当初は正副議長各1名が置かれ定員は無制限とされたが、程なく財政上の都合から同年11月25日に職制が改正されて正副議長各1名とこれを補佐する幹事2名(1886年廃止)、その他の議官28名の計32名が定数とされた。
議長は左大臣の兼務とされたが実際には一度もその事例は無く、設置当初は議長は空席で副議長の後藤象二郎が議長の職務を代行した。1875年11月の改正に伴い、岩倉具視の要請で1876年9月8日に国憲(憲法)草案起草の勅命が元老院に対して出された。
このころの元老院の議論は低調で1878年1月20日付の「輿論雑誌」には、元老院でまともに議論をしているのは両幹事(陸奥・河野)と中島信行・細川潤次郎の4名だけと揶揄されている。しかも追い討ちをかけるように6月には幹事の陸奥宗光が立志社の獄の容疑者とされて元老院を追放されたのを機に、正院側から元老院の権力を抑制しようとする動きが現れ、以後正院の干渉を受けるようになった。1880年以後、定数は事実上無視されて知事や政府高官経験者が次の役職を得るまでの待機ポストの色合いを強める。廃止時には定員が91名にまで増員され、その多くが元老院廃止後にそのまま貴族院議員に転身する。
正院(せいいん)とは1871年(明治4年)の廃藩置県後に発布された、太政官職制の最高機関である。 それまでの太政官を正院、左院、右院の三つに分け、左右両院の上に立つ。政務を執る正院は従来の太政官に相当し、太政大臣、納言、参議、で構成される。その後、1873年に改正され、その権限はさらに強まり、天皇輔弼の責任が明確にされた。1875年に左右両院が廃止されたが、正院は引き続き存置される。1877年廃止。
1889年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)の下での帝国議会(一部補足)では、衆議院と貴族院の二院制で、貴族院は1890年11月29日から1947年5月2日まで存在した。皇族、華族議員と勅選議員、多額納税の議員で構成され、解散はなく議員の多くが終身任期であった。ただし、皇族が議会に出席したことはなかった。議院相互の関係などは議院法によって規律された。両院は、衆議院の予算先議権を除き、対等の権限を有する。貴族院は衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が持っていた。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、日本国憲法下の参議院のように、良くも悪しくも「衆議院のカーボンコピー」という批判は起きなかった。
参議院不要論
不要論は大きく分けて、一般的な両院制への批判と日本独特の理由との2種類がある。
政治学者のアーレンド・レイプハルトは、両院制を推奨する前提として(1)人口が多い(2)連邦制である(3)多民族国家である、のうち2つ以上に当てはまる場合とし、日本は「人口が多い」という条件しか当てはまらないため参議院は不要である、と結論付けている。
アメリカなどのような連邦国家では、連邦を構成している州・国の利害の調整の場として単なる人口比率にかかわらず各州・国が代表を送り出せる場としての上院(元老院)が必要になるが、日本は連邦国家ではない。
・北欧を中心として、国連加盟国の過半数は一院制を採用している。
・両院の存在は時間と金の無駄ではないかという、コストの問題。
・伝統的な不要論で、「第二院は第一院と同じ意思決定をするのなら無駄である。また、異なる意思決定をするなら有害である」との主張がある。
日本独特の理由としては次のような主張がある。
・参議院の「衆議院のカーボンコピー」化。
・現在の都道府県地方区を一選挙区とした上での定数配分自体が各都道府県の人口を適切に反映できない。(一票の格差)
・歴史的には、参議院は貴族院を継承したものであって、明治憲法改正の手続き上あるいは政治上の必要から残されたものにすぎない、とする。
衆議院の「カーボンコピー」化について
参議院の「衆議院化」によって、元来参議院に期待されていた「良識の府」としての機能が、十分に果たされなくなっているとする批判がある。これは「衆議院のカーボンコピー」化と言われる。
明治憲法下では上院の貴族院は、国家功労者などによる貴族と、有識者や功労者の勅撰議員からなっており、戦後に公選の参議院になった際にも、被選挙権が30歳以上と定められ、全国区制を採用するなど、できるだけ有識で党派に属さない議員が増えるような努力がされた。緑風会はそのような思想の下でできた無所属議員たちによる緩やかな院内会派であった。しかし、参議院は次第に政党化し、衆議院と同じような党派対決の場へと変貌した。全国区制は逆に最も党派対決の要素が強い比例代表制へと変えられた。このような中で、衆議院と変わらない参議院に存在意義を見い出せない、とする。
参議院不要に対し、参議院が不要なのではなく、参議院の衆議院化こそが問題なのであり、参議院改革によって存在意義を取り戻せるという考え方がある(参議院改革論)。
現在の参議院が衆議院と同じ政党選挙であるなら衆議院のカーボンコピーで、誰の目にも一院制でいいという現実論になる。
塩川正十郎(塩爺)氏や三宅久之氏(元毎日新聞記者)など、年齢や多様な経験から政界や組織を離れてから党派にかかわらず正論を聴くことができるので、片山氏などまともな考えを持っておられる方は、党派を離れて本来元老として諮問的機関として上院に当たる参議院にこそ活躍される場があることがふさわしいと思うし、知恵を生かしていただかないともったいないと思う。衆議院の上位議会として、政界から離れたり政党とは無縁な国を思う有識者の渡部昇一氏や櫻井よしこさんのような見識者も含めて、参議院を構成することこそが衆議院のみで議決することへの危険性をチェックするためには、元老院(上院)に当たる参議院は必要ではないでしょうか。そのためには政党候補でなければ有名人でない限り当選しにくいのだが、参議院議員は党議拘束に縛られず国や国民を思う見識者の議会として衆議院の上位議会としての違いを作り出さないと無用論はなくならないだろう。
戦前・戦中を実際に経験された方々が少なくなってきている。与党やマスコミでは戦後教育の自虐史観に影響された学生紛争を行っていた左翼的層が中心を占めていることが、「国家意識の欠落」「外国人地方参政権」「地域主権」など国家主権を脅かすこの国の危うさだ。安保闘争の世代が時間経過でいなくなるにせよ、現在は70歳以上のしっかりした考えを持った方々は、この国の歴史伝統と将来にとって貴重である。
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