政党とは何か
『政治学入門』(07) 小林 良彰・河野 武司・山岡 龍一で、
かつて政党はイギリスの政治学者E.パーカーによって「国家と社会の架け橋」と評されました。またアメリカの政治学者E.E.シャットシュナイダーは、政党を「民主主義的な政治のメーカー」であり、「政党は、単に近代政治の付属物ではなく、近代政治の中核であり、そしてそのなかで決定的にして創造的な役割を演じている」と評しました。確かに20世紀の前半までは選挙制度と並んで代表制民主主義を駆動させるエンジンの一つとして、このような政党を賞賛する声が満ちあふれていました。しかし今日においては、政党に対する不信感が世の中に充満しています。日本における近年の世論調査が示す、時には50%を超える無党派層の存在はその象徴です。
民主主義とは何か
民主主義は「統治者と被治者の同一性」という原理を含んでおり、しばしば有名なリンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」と表される。こうした政治を発明したとされるのが、古代ギリシャの都市国家(ポリス)のいくつかであり、なかでも代表的なのがアテナイ(アテネ)の民主政である。自由主義は「公と私の分離」という原理を含んでいる。自由民主主義という政治は、この容易には両立しがたい葛藤を抱え込んでいます。
つまり、公と私の区別という、自由主義的な政治観の再検討です。これは言い換えるなら「政治的なもの」と「非政治的なもの」の区別を再考することです。この問題こそ、現代の政治のあり方を考える際にしばしば提起される重要なテーマだといえます。
自由主義とは何か
では自由主義をどのように捉えたらいいか。まず、自由主義の主要な政治的要素として、公的領域と私的領域の区別という原理を含んでいます。政治言語としての「自由主義」の起源はさほど古くない。1820年頃のスペインにおいて、王統派の絶対主義に対抗して「立憲主義」政治を唱えた党派につけられた「リベラレス」という呼び名に始まる。だが、自由を尊重する政治という考えそのものは、古代ギリシャにまで遡ることができるが、一般に自由主義思想の歴史は、初期近代ヨーロッパに始まるとされる。
立憲主義は確立された法的制度により統治行為を制限する。この葛藤は、政府をはじめとする公的領域を、すべての私人が選んだ代表者によって制御するという方法で対処されてきました。そしてこの代議政治の諸問題を解決するために、さまざまな方法が試されてきたのです。
政党とは何か
政党の最大の特徴は、政権の獲得を平和的に、すなわち選挙において国民の支持を票の獲得という形で追求することである。公共の利益を掲げ、一旦政権の座に就いたならば、公共政策に責任を負うことが、政党を単なる権力闘争の道具ではなく、民主主義の偉大な道具にたらしめる。このような意味で政党とは、ある特定の原理に基づきながら公共的利益を達成するために選挙を通じて政権の獲得を目指す組織化された集団ということになる。
政党は成立の初期から民主主義の偉大な道具として存在することを期待されていたわけではない。J.マディソンによる『ザ・フェデラリスト』に、アメリカの建国の父達は、政党を「他の市民の権利あるいは共同社会間の永続的・全般的利益に敵対するような感情または利益といった、ある共通の動機により統合し行動する」徒党と同一視して、政党政治を否定した。実際にイギリスで誕生した近代的政党である保守党や自由党の前身は、それぞれ国教会と君主制を支持するストーリーと、プロテスタントに対する宗教的寛容と議会を支持するホイッグと呼ばれる徒党であった。
しかし、マディソンであっても、そのような政党の発生は、否定することのできない政治的権利である自由を求める人間の本性による必然的なものと認め、政党を禁止する代わりにその弊害の抑制策を、多様な利益が存在することになる大きな共和国として連邦制の確立に求めた。このように当初は公共の利益や少数者の利益を脅かす存在とみなされた政党であったが、民主政治はその発展の過程において選挙民を組織するものとしての政党を必然的に欠くげからざるものとしたのである。
政党の機能
政党の第一の機能は、利益の集約による選挙民の組織化である。そのままではそれぞれ異なった利害関心を有し、個々バラバラのまま、自分自身や社会の未来に関してどのような選択を行えばよいのかわからない選挙民に対して、市民の中から表出されたさまざまな要求を政策という形で具体化された少数の選択肢として提示し、選挙民の選択に関わる負担を軽減するという役割を担います。
第二の機能は、政治的リクルートと政治的リーダーの選出です。政党に所属していなくても無所属という形で誰しもが自由に立候補でき、その首長が多くの支持を得て選挙に勝ったならば、代表として議会に臨んだり、大統領といった政治的リーダーになることが可能です。しかし必ずしも彼らが政治家たるに相応しい決断力、責任感、さらには情熱といったものを備えているわけではありません。多様な国民の中から、政治家として相応しい人物を発掘し、国民に提供するという責任を担っているのが政党です。すなわち、政党は所属する個々の政治家の保証人としての役割を果たしているのです。さらには政党は党内におけるリーダーシップ獲得の競争を通じて、国家の舵取りを担うに相応しい指導者を養成し、国民に提示します。
第三の機能は、政治的社会化です。人は生まれてから政治社会に有権者としてデビューするまでに、ある一定の政治的指向や知識を持つことが期待されています。政党は、街頭演説、パンフレット、ビラ、さらには今日ではホームページ等のさまざまな手段を用いて政治問題に関する情報の提供を国民に行っています。そのことは選択に必要な情報の蓄積に役立っています。ただし、今日においては、政治的社会化を担うアクターとして政党以外に、家族、仲間集団、学校、マスメディア等も存在しています。さらにいえば、政治的社会化の担い手は政党というよりはマスメディアとなっています。
危機に立つ政党
1960年代の後半から。政党に対する懐疑論が世界的な規模で展開されてきている。
日本の著名な政党研究者である岡沢憲芙はこれを、「自己特権化した政党は対応能力を失ってしまい、もはやそこには政治的改革能力は期待できない」と描写している。18世紀末にフランスの啓蒙思想家であったJ.J.ルソーがイギリスの議会政治を批判して「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや否や、イギリス人民は奴隷と成り、無に帰してしまう」と述べたが、もはやそのような状態にあることに気づいてしまった市民における政党を経由しない政治への直接的参加の欲求の高まりに他ならない。かつては、現代の民主主義をエリートの競合として描いたJ.A.シュンペーターが述べたように、選挙民の第一の目的は選挙で代表を選ぶことであって、選ばれた代表は政策を作り決定するという政治的分業を市民も受け入れていたといえる。このような政治的分業のなかで政治家や政党の世界において生じる政治腐敗など市民がコントロールし得ないkとがあったとしても、市民たちはたいていの場合、代表制のコストの一部として容認しているとまで述べたのは、現代民主主義の代表的な研究者として知られているR.A.ダールであった。
しかしそれは、政治についての情報があまり行き渡っていなかった時代で通用したことです。新聞以上に単純化した形で政治のことを伝えるようになったテレビの普及と共に、新たな反政党論がわき起こったのは偶然ではありません。さらに今日においては、インターネットという新たな情報メディアの発展が市民における政治的情報の蓄積に大きな役割を果たすようになってきています。今まで余り知ることのできなかった政治の世界におけるさまざまな出来事を、以前より容易に知ることができるようになりました。
テレビに映し出される居眠りをしている国会議員にとどまらず携帯電話をしたり、無用な揚げ足取りをして党利党略を行う議会、その議員の表情を見ればその議員が何を言っても、嘘かどうかが瞬時に伝わってしまいます。しかも、マスメディアが奉じない議員数削減が急務であるとか、参議院は不要だ、という声が多いのもわかります。何より諸問題が山積みとなっている現代に、相変わらず提案から審議・可決まで、あまりにも時間がかかる現状の国と行政のシステムを改善することこそが、地方自治体以前に行うべき最大の改革ではないでしょうか。
政治のことを知れば知るほど、一般市民の基本的な政治参加である選挙において、中心的な役割を果たしている政党に対して、もっぱらその不満の矛先が向けられるのも当然の話です。国民自らが判断し得なかったことのツケを負わされることに、もはや市民は我慢できなくなったのです。
以上のように自らが主体的に考え判断し得るようになった市民を前にして、かつては国家と社会の架け橋といわれた政党が政治的決定を独占することはもはや不可能となりつつあります。そのような時代にふさわしい役割を新たに見つけることが、政党の生き残りを左右することは間違いありません。政党が提案し、国民自らが決定するよいう新たな政治的分業、すなわちイギリスの政治学者I.バッジが提案したような「政党民主政としての直接民主政」、すなわち政党に媒介された直接民主制の構想もその一つでしょう。代表制と直接制とを両立させる半直接民主制の提案です。現在の代表制の下において、政策を提案し洗練させ、市民の投票を指導し組織化するという二つの役割を担わせるかわりに、重要な問題の決定は市民の投票に任せようというのです。政党自らが特権の一部を放棄することが、新たな政党政治の未来を切り開くのです。
現代社会と民主主義
多くの国が普通選挙制度を採用している現代では、民主主義の価値は普遍的に承認されたかのようにみえる。だが、民主主義と同時に発達してきた資本主義とともに、「大衆社会」と呼ばれる状況を生み、諸問題をむしろ顕在化させたと考えることもできる。すべての人が政治権力をもつという政治体制は、本当に最善の制度なのかという問題である。
プラトン以来、衆愚政治の危険がいわれてきた。普通の人々に政治を委ねると容易にデマゴーグの餌食となり、一部の人々の恣意的な支配に転嫁してしまうという批判は、20世紀のファシズムの台頭によって強化されたといえる。民衆に決定を委ねないとしても、政治家が過度に選挙民の意向に従うようになると、適切なリーダーシップが阻害される危険がある。その場合、選挙による在職期間を超えた長期的な展望で政策を立てることが困難になるだろう。また選挙権が既得権となりながら、同時に経済・官僚組織をはじめとする社会構造が複雑化、不透明化するなかで、人々がますます政治への興味を失いつつあるという現象(政治的無関心)もある。自分の一票では、大勢に影響を与えることができないのではないかという疑念がある。
さらには、すべての人民の利益を実現しようとすると、民衆の間に実際にある多様な利害を考えるなら、結局は不可能なことを目指していることになる。そのため民主政は、全体の名の下に一部の利益を実現する、政治の実態をごまかす虚飾に過ぎないという批判を生みかねない。
大衆社会化状況が進むと、複雑化する社会を統治・管理する組織と専門家、なかでも政党と官僚制による政治が発達していき、民主政の再定義が試みられた。ヴェーバーやシュムペーターは「競争型エリート主義民主政」と呼ばれるモデルを提示した。それは、官僚や政党政治家のような専門家による統治を前提としながら、選挙による政権交代のメカニズムによって、国民に対して責任のある統治を実現するのが、現代の民主政治なのだという主張である。この考えは、大衆の政治的な無関心を前提としつつ、官僚制的統治が専制化しない保障を求めている。そしてそれは、大衆に統治を任せたら、非効率的で専制的なものになるだろう、という危惧を前提としている。
こうした民主主義理論に対して、様々な批判がなされた。特にアメリカでは1960年代以降、多元主義的政治観が前提としていたコンセンサスが覆されるような事態が現れた。つまり、経済、文化、人種、性差、その他様々な要因に基づく不平等は社会に蔓延し、社会統合の保持が困難になったことが明らかになり、様々な急進的な問題定義がなされた。この状況は、人民を大衆として捉えることの限界も示した。なぜなら、政治が取り組まねばならない問題は、教育、健康、雇用、治安、都市問題といった種々の社会問題から、戦争、平和、環境といったものまで、人々の日常生活に深く関わるものばかりであり、それらが高度に論争的である限り、かかる問題の対処を統治の専門家に委ねるだけではうまくいかないことがはっきりしているからである。人民は何らかの仕方で統治に参加することが必要だと考えられるようになった。
(中略)
「民主主義は否か?」よりも、「どのような民主主義か」という問いが、今後とも重要になると考えられている。
理想の民主主義とマスメディア、市民
情報獲得の手段として優れた双方向性と非同期性を主要な特徴とするインターネットの普及があっても、依然として新聞やテレビをはじめとするマスメディアが、我々にとって社会の様々な出来事を知る上での主要な情報源の一つであり続けることには疑問の余地はない。いずれにしても我々は何らかのメディアを利用しなくては遠く離れた場所で起こった出来事について知ることはできない。
しかし、我々が常に意識しておかなければならないことは、このようなメディアが提供する情報の質である。我々が健全な政治意識を持ち、正しい未来の選択をなしえるか否かは、マスメディアなどが提供する政治的情報の如何にかかっているからに他ならない。マスメディアが常に我々の政治的思考や決定に優れて役に立つ情報を提供しているのならば問題ない。それを正しく利用できるか否かは、我々自身の責任である。しかし、現実には公共の利益ではなく、私企業として自らの利益や広告主らの利益に専念するマスメディアのあり方を批判したり、マスメディアの提供する情報に関して、質の低さや、偏向、誤報の存在を指摘する議論には枚挙にいとまがない。また今日、マスメディアは巧妙化した対メディア戦略を駆使する権力者によって大衆操作の道具として利用される危険性にさらされている。
出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 放送大学准教授 山岡 龍一
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1955年、社会党や共産勢力の危機から、自由党と民主党が保守合同して自由民主党が誕生しました。自由党が自由主義を目指し、当時の民主党が民主主義の思想に基づいているかは置いておいて、しかし、この二つは同一ではありません。
民主主義とならんで自由主義は、政治体制を正当化する際によく利用される。そして「自由民主主義」という言葉があるように、両者はしばしば結びつけられてきた。だが、この連合は歴史的なものに過ぎず、両者の間には理論的な対立もある。また民主主義と同様、自由主義も時代によって、同時代においても国によって多義である。
我々が政治に無関心である一つの問題点としては、戦後の日本の政党がわかりにくいことです。もともと民主主義の理念による自由党と民主党が合併し自由民主党(以下自民党)が発足しました。政治学の定義では上記のように民主主義と自由主義とは同一ではありませんが、かといって旧社会党を中心に発足した民主党や自由党が合併して今の民主党という政党も自民党に対して違いがわかりにくいものです。また政教分離に反するような政党が与党に参加していることこそ問題であるといえます。しかし、日本以外でも宗教思想と政治が全く関連がないことはないのですが、そうした個人個人の意志ではなく組織的な選挙は危険であります。政治に関心を持とうとしても、とくに国会は国民生活から乖離した議論を繰り返してあまりにも膨大な国家予算と公的な時間を浪費している以外の何者でもありません。