【たんごる】 丹後田辺城(舞鶴城)
田辺城門
京都府舞鶴市
室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり舞鶴を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれた。以後、丹後国は一色家が守護を努める領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において但馬他守護山名氏が率いる西軍に属した一色氏は没落し、丹波の細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱する。
戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落した。信長の命により丹波国は明智光秀、丹後国は細川藤孝の領地となり、田辺(舞鶴)が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治した。
1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与した。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。西軍の派遣部隊と対戦したが、藤孝の死によって歌道秘訣が絶えるのを恐れた後陽成天皇の勅命により、包囲軍は田辺城から撤退しました。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。
しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。戦後細川家は、九州の豊前中津藩(福岡県東部)に転封され、かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。
さらに寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後熊本藩の大藩に転封される。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。細川護煕元首相が有名です。
内部 天守閣跡
丹後田辺藩(舞鶴藩)藩祖・京極高三
京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩しました。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部でした。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩しました。これが、一般には舞鶴市の始まりとされています。
京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きました。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となりましたが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けました。