南但馬の古墳

概 要

三世紀後半、倭(大和)には地方の指導者よりも優位にたつ「王」が誕生しました。但馬で育ちつつあった指導者たちは、ヤマトの大王と手を結び、力をつけ、ここに但馬王(国造)が誕生しました。当時は祀りや儀式で地域を支配していた但馬王は、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきましました。

弥生中期初頭の前方後円墳である池田古墳も、ヤマト王権誕生より数百年も前ですので、但馬は丹後・越前・出雲などと同様に、ヤマト王権による中央集権的な国家統一ではなく、連合国家的なものではなかったかともいわれています。いずれにしても、ヤマト政権は、祀りや儀式によって地域を治めるだけでなく、強大な武力と政治力を背景として、ヤマト近国から治めはじめます。丹国(丹波)の一部であった但馬王も、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきましました。

豊岡自動車道建設中に注目すべき複数の古墳や遺跡が発見されました。若水古墳群A11号墳は、南但馬最古の大型円墳です。茶すり山古墳は、5世紀前半に築造された円墳では全国で六番目の大きさです。

弥生前期後半の城の山古墳、弥生中頃の船宮古墳、中期末から後期初頭の但馬初の方形貼石墓の粟鹿遺跡など、古墳時代の有力な首長墓が、朝来市和田山町とその周辺に集中し、連続的に造られていることは日本国家形成期の周辺地域の歴史を考える上で重要な史料です。粟鹿の駅家跡豪族の居館跡(古墳時代では全国2位の面積)と120軒以上の竪穴住居跡であった柿坪遺跡、古墳中期から後期を中心とする108軒もの竪穴住居跡、加都(カツ)の3つの遺跡は、今まで但馬では発見されていなかった古墳時代の大きなムラです。奈良時代は但馬国府が気多郡に置かれたので、飛鳥時代までは但馬の国造の都であった可能性は高いです。

養父市の6世紀から7世紀にかけての大薮古墳群の時期には、六世紀初頭にヤマト王権は大きく動揺し、王統の断絶という危機を迎えます。『日本書紀』によると、507年、応神の五世孫と称する越前のオオド王が、即位しました(継体)。オオド王は、近江・越前を基盤として、日本海沿岸から琵琶湖・淀川・伊勢湾、さらに朝鮮半島にかけての水運を掌握した人物とされています。継体は、前王朝の手白香(てしらか)王女との婚姻により、いわばヤマト王権への婿入りという形で即位の正当性を求めたものと思われています。しかし、ヤマト王権には、その即位を認めない勢力も多かったため、継体は容易には大和に入らず、淀川水系に沿った宮を長い間転々としていたと伝えられています。

また、粟鹿遺跡から但馬で初めての方形貼石墓を1基が発掘されました。方形貼石墓は出雲・吉備地方から丹後・越国にかけて、日本海沿岸や中国山地で確認されており、山陰・吉備・丹後・越前地方独特の形式で、丹後の貼石墓は、同時期に営まれた出雲や伯耆のように隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる出雲の墳墓の形が、中国山地から出雲・伯耆・因幡、そして日本海を北上して越前・越中へとその広がりを持っているのとは異なり、なぜかこれまで但馬では発見されませんでした。但馬地方は、同じ日本海沿岸に位置しながら、日本海沿岸との土器の交流が希薄で、畿内のものだと指摘されていますので、比較的後からヤマト王権に加わったのではないかと推定できます。

但馬発掘状況

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北但馬の古墳


但馬北部(円山川流域)

概 要

さて、丹後地方とは隣り合わせの但馬(たじま)の古墳についてはどうでしょう。

兵庫県はもともと5つの旧国からなる広大な地域であることから、古墳18,351ヵ所は日本第1位、遺跡28,882ヵ所は日本第2位であり、上古より拓けていた地が多いとされています。但馬地方には、これまで約3000ヵ所の古墳が見つかっています。記紀に崇神・垂仁・神功皇后・応神の頃には但馬は丹後と並び、記載がとくに多くなることから、ヤマト朝廷と朝鮮半島南部との要衝として朝廷との結びつきが強まります。
8世紀の初めの頃までに記された「播磨国風土記」には、但馬の郡名が三つ載っています。夜夫(やぶ)の郡(現養父市)、氣多(ケタ)の郡(旧気多郡、現豊岡市日高町)、それに伊豆志(いずし)の郡(現豊岡市出石町)です。それはこの地域に首長が納めるクニが存在していたことを記しています。いずれも円山川流域で、上流部の但馬南部には近畿地方で4番目の巨大前方後円墳・池田古墳など、但馬国王級の巨大墓が多い阿相(あさぐ)の郡(現朝来市)があります。

但馬地方は奈良時代までは、丹後と同じ丹国(丹波)で、但馬地方の古墳は、丹後地方の古墳が築かれた時代と重なりながら、円墳や前方後円墳が築かれました。弥生時代中期から弥生後期まで吉備・山陰・北陸の各地方で行われた四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓である「四隅突出型方形墓」は、出雲と越との中継地の丹後には数基のみ見つかっていますが、なぜか中間の但馬地方ではいまだ見つかっていませんでした。しかし、近年、朝来市・粟鹿遺跡から但馬で初めての方形貼石墓1基が発掘されています。

但馬で発見された貴重な遺物を時系列で並べると、
・中谷貝塚(豊岡市中谷 縄文時代)
・見蔵岡遺跡石棒(豊岡市竹野町松本)西日本初、子孫繁栄を願う石棒の出土品
・粟鹿遺跡で発見された但馬初の方形貼石墓(弥生時代中期末~後期初頭)
・気比銅鐸4個(弥生時代中期(前2~前1世紀))
・珍しい久田谷銅鐸片(豊岡市日高町 弥生時代)
・森尾古墳(豊岡市森尾)の正始元年(240年)三角緑神獣鏡
・城ノ山古墳(4世紀後半 朝来市和田山町東谷 国指定重要文化財)の三角縁神獣文帯三神三獣鏡
・茶すり山古墳の「三角板革綴襟付短甲(さんかくばんかわとじえりつきたんこう)」(5世紀前半)
・船宮古墳(朝来市桑市 県指定史跡)5世紀代の同一水面の周濠をそなえた前方後円墳  日本最古の牛形埴輪が出土
・八幡山古墳群(香美町村岡区福岡 県指定史跡 5~6世紀)三角持送り式天井の竪穴系横口式石室
・大藪(おおやぶ)古墳群(養父市大藪 県指定史跡 6世紀後半~7世紀代)但馬最大級の後期古墳群。環頭大刀単龍式
・箕谷(みいだに)群集墳(養父市八鹿町小山 国指定史跡 7世紀前半(630年ごろ))戊辰年銘大刀が7世紀前半(630年ごろ)
・二見谷古墳群(豊岡市城崎町上山 県指定史跡)但馬では類例の極めて少ない家形石棺を内蔵し、金銅製の鉄刀や鈴などを副葬するすぐれた古墳群。圭頭大刀2点
などがあります。

京都府加悦(かや)町(与謝野町)と豊岡市加陽(かや)の地名が似ている点も、朝鮮半島南部の伽耶と同じ氏族が渡来した可能性も指摘でき、古くは丹国(但馬・丹後・丹波)としてまとまった文化圏であった可能性も高いものです。

森尾古墳

画像
古墳前期-古墳(方墳、竪穴式石室)

豊岡市森尾字市尾

この古墳の発見は、但馬地方でもっとも早く大正年間の工事中に発見されて以来、地元研究者や大学の研究者が何回となく取りあげていました。その時すでにいくつかの遺物が発掘されています。そして但馬地方が考古学的に論及されるのは、ほとんどこの森尾古墳だけであったのが最近までの状況でした。1墳丘3石室となっており、埋葬施設は3基の竪穴式石室です。

また、昭和51年8月~平成6年3月30日に行われた「森尾古墳確認調査概要報告」(豊岡市教育委員会)で、古墳の構成や出土遺品などを考慮すると、この古墳自体が新旧で使われていたものであろうと考えられています。~森尾古墳を但馬最古の古墳と位置づけ、県下でも最古の一群に入れられるものとして考えられてきました。

ところが、近年森浩一氏が消滅したとされる森尾古墳の墳形について、ひとつの可能性として長方形説を打ち出し基底部が残存しているのではないかとの指摘もあわせて行ない、さらに本村豪章氏も「前期古墳の諸様相」を著して森尾古墳の再検討をも行ない、今後の発掘調査等によらなくてはならないとしながらも、大胆に方墳あるいは前方後方墳の可能性を指摘していました。

三角縁神獣鏡の謎

画像画像:「三角縁神獣鏡」雲南市 神原神社古墳-島根県立古代出雲歴史博物館蔵
※画像:島根県立古代出雲歴史博物館は見学いたしましたが、館内撮影禁止のためHPからお借りしています。
森尾古墳が全国的に有名になったのは、発掘された二面の青銅鏡で、「三角緑神獣鏡」で卑弥呼の鏡ともいわれており、北近畿で最古の鏡であることが分かり、北部九州並みの大陸との関係が指摘されました。

神獣鏡(しんじゅうきょう)とは、古鏡の銅鏡の区分のひとつで神仙界の理想郷を図文化した鏡。鏡の裏の文様が神像と獣像とを半肉彫にしたものを主として組み合わせた文様を持つものがこう呼ばれています。鏡の縁の断面が、平たくなっている平縁(ひらぶち、へいえん)式と、三角形になっている三角縁式(さんかくぶち、さんかくえん)とに大別され、特に三角縁式のものは、魏の明帝が邪馬台国の女王卑弥呼に下賜した銅鏡にあたると言う説があることで知られています。

三角縁神獣鏡の銘文中に紀年が記された銅鏡は四面あります。

島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡
群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳
兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳
山口県周南市(旧新南陽市)竹島御家老屋敷古墳

神原神社古墳出土の「景初三年」鏡以外の三古墳から出土したものは同型の「正始元年」鏡です。これらの鏡四面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式。

また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」と同じであることがわかりました。

もう一面は、1917年に出土した「方格規矩四神鏡」は、約二千年前の紀元前後、中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれています。

森尾古墳の三角緑神獣鏡は、北近畿最古の鏡で、山口県竹島御家老屋敷古墳で出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」や蟹沢古墳(群馬県高崎市)と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年(240)は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。それらが遠い距離を隔てて別の地点で出土していることから、ある政治的な意志で1か所から配布されたのではないかとも説明されています。

従来、三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡というのが定説で、銘文に「景初三年(239)」「正始元年(240)」などの魏の年号や「陳氏」「張氏」「王氏」など中国人の作者名があり、図像文様からみても明らかに中国鏡の特徴を持っています。このため、三角縁神獣鏡は3世紀中葉の魏で作られ、卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」にあたると考えられ邪馬台国畿内大和説の有力な根拠とされてきました。

しかし、三角縁神獣鏡は中国本土ではいまだ1枚も出土していないことや、魏の元号が改元されて存在しなかった「景初四年」銘の鏡が見つかったことから、最近ではこの三角縁神獣鏡は日本製との見方が強まっています。しかも、これまで中国で出土した神獣鏡は、魏が支配した北中国に少なく、呉の領域とした南中国に多いことから、三角縁神獣鏡は神獣鏡をつくる伝統のない魏の製作ではなく、呉の鏡工人が日本に渡来して製作した説を、中国考古学者の王仲殊は唱えたのです。

しかし、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(239)に画文帯神獣鏡をモデルとして三角縁神獣鏡がつくりだされたことは確かであり、「銅鏡百枚」のなかにそれが含まれていたであろうことも容易に推測できます。

三角緑神獣鏡は倭王権の誕生を示すものなのか

したがって、卑弥呼が若い頃に入手した画文帯神獣鏡は、近隣の首長に分配しただけですが、晩年に入手した三角縁神獣鏡は、分配域が九州から関東まで大きく拡大しました。それは邪馬台国を盟主とした倭王権の誕生を意味するものでしょう。

1953年、鉄道工事中に京都府椿井大塚山古墳で32面以上の三角縁神獣鏡が出土しました。調査に関係した小林行雄氏は、4組9面の同笵(どうはん)鏡があることを見つけ、もし鏡は一枚ずつバラバラの状態で入手されたのなら、偶然が重ならない限り起こりえないから、それがセットにまとまった状態でもたらされたと考えました。そして、日本全国の三角縁神獣鏡に42個の同笵(どうはん)鏡であることを確かめ、それが九州から関東まで広がっていること、椿井大塚山古墳を中心に畿内と地方の間で分有され、地方だけの分有関係はほとんどないことを明らかにしました。そこから、三角縁神獣鏡は畿内の倭王のもとに一括保管されたのち、椿井大塚山の首長が各地の首長にたいして分配したと考えました。さらに4つの違う形式ごとに分布の偏りがあることから、数回に分けて配布され、倭王権と地域首長との政治的関係が成り立つことによって各地に古墳が出現したと論じました。

1998年には奈良盆地東南部の黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土しました。7組15面も同笵(どうはん)鏡がみつかり、九州から関東にわたる39古墳と同笵(どうはん)鏡を分有しています。倭の中枢部から多数の同笵(どうはん)鏡が出土したことにより、小林行雄氏の同笵(どうはん)鏡論は揺るぎないものとなりました。

しかし、椿井大塚山の首長が同笵(どうはん)鏡を配布したという考え方は、加茂岩倉から39個の銅鐸に15組26個の同笵(どうはん)関係が確かめられたように、出度数か多くなれば、それだけ同笵(どうはん)関係の中心になるのは当然で、椿井大塚山と黒塚の被葬者は、倭王から相当の数の銅鏡を下賜された有力者であったのでしょう。

神仙と霊獣の図像の外縁に「景初三年」を含む銘文41文字が鋳出されています。邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を賜ったとされる魏の年号「景初三年(239年)」という銘のある銅鏡は、大阪の和泉黄金塚古墳とともに全国でわずかに二例が知られるのみです。

入佐山(いるさやま)・茶臼山(ちゃうすやま)古墳

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■入佐山古墳

豊岡市出石町入佐

入佐山は50mほどの丘で、沢庵和尚ゆかりの宗鏡寺と出石高校の間に位置しています。 「入佐」の地名は沢庵和尚が入佐僧と号した事などで、江戸時代に「城崎温泉」や「生野銀山」とならぶ但馬の名所となりました。また公園整備された展望台のある山頂部は古墳群で家型埴輪や中国製の銅鏡なども出土しています。

入佐山1号墳 前方後円墳??
入佐山2号墳 直径15mの円墳
入佐山3号墳 砂鉄と共に数々の遺物が副葬 4世紀後半 高さ3.5m 36mX23mの方墳

資料によると標高約90メートルのこの入佐山の狭い尾根筋には弥生時代後期から古墳時代前期いたる墳墓群が点在。尾根筋をつなぐ小さな3つのピーク部にそれぞれ古墳があり、尾根筋には50を越える小さな木棺直葬墓が点在している。このうち 一番奥のピークにある3号墳が発掘調査され、時期のほぼ同じ二つの墓壙が一部重なさつて存在し、第一の墓壙では赤く塗られた木棺の中 頭の直ぐ上に土器と共に砂鉄 鉄鏃 鉄斧が置かれ、体の右側に四獣鏡と太刀 左側に割れた方銘四獣鏡と刀・剣・ヤリカンナ 足元には鉄鏃と槍がおかれ、棺の直ぐ左にも鉄剣が置かれていた。この墓壙に重なるもう一つの墓壙はむしろこちらが古墳の中央にあり、先の墓と考えられるが、第一の墓壙で一部壊されていて、詳細はわからないが、ガラス玉が出土している。

但馬北部では前方後円墳がまだ見つかっておらず、入佐山1号墳が勇逸の前方後円墳?らしい。
3号古墳が他の2つの古墳より先に作られたと考えており、その副葬品などから 鉄の技術を有する渡来系のこの地を治めた豪族と考えられている。また この尾根筋の直ぐ近く 南東の丘陵の端に但馬最大の円墳茶臼山古墳があり、一つの古墳群を形成している。

■茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)
豊岡市出石町谷山字ムク谷
北但馬最大の円形古墳。

古墳構成
墳丘直径49m、高さ7mの三段築成で北但馬最大の円墳。明治時代、耕作の最中に偶然発見されるが、その時石室の一部が破壊されている。また、人骨や遺品なども出てきたのだが、そのまま埋め戻されてしまった。正式に発掘調査に入ったのは、1977年(昭和52年)のときである。
全国最大規模の祭祀跡 入佐川遺跡(出石郡出石町宮内)

小野川河川改修のために昭和62年度から発掘調査を進めています。これまでの調査では、奈良~平安時代の“祓”(はらえ)に使用する木製の人形・馬形などの祭祀具が大量に出土しています。今回の調査では、古墳時代中期の水田跡や川跡が見つかり、お祭りをした跡と考えられる土器列や緑色の石で作られた石釧(腕輪)の破片も出土しました。

■小見塚古墳

兵庫県豊岡市城崎町今津
但馬海直(あま)一族のものと考えられています。北但馬には5,000基以上の古墳がありますが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在但馬地方で一番古い埴輪が出土しています。丹後久美浜との関係がうかがえます。

大師山(だいしやま)古墳群

画像

豊岡市引野

90墓近い円墳が造られています。2008年11月29日に訪ねました。
大師山は標高100mほどの細長い丘陵で、円山川と出石川に挟まれた豊岡平野が見渡せる見晴らしの良い場所で、すぐ近くに葦田神社があります。しかも気多神社(上郷)や楯縫古墳と出石神社にも近く、それらを結ぶ中間にあるのが興味深いです。この地区はかつては気多郡中郷で、加陽(かや)といわれていて、現在でも加陽という地区が残っています。

竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は、半島南部の伽耶(カヤ)地方にみられ、引野がかつて賀夜(カヤ)郷と呼ばれ現在も加陽という地名であったことと考えあわせて興味深い。
古墳時代に朝鮮半島から渡来した人たちが、ここに墓を造り、故国の基制をまねたと考えると想像がふくらんでいく。

■妙楽寺見手山古墳群
昭和4 0年8月。但馬における竪穴系横口式石室の調査による最初の確認であり、但馬で最も新しい時期の前方後円墳の調査例となった。
-豊岡市教育委員会-

古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものです。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はありません。竪穴式石槨、粘土槨、箱式石棺、木棺直葬などがあります。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものです。古墳時代前期から中期に盛んに造られました。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされています。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛んに造られました。

伽耶諸国の有力国の一つに安羅国があって、高句麗に対抗する勢力の一員として「広開土王碑」にもその名が見えます。その王族たちの末伊山古墳群は、伽耶諸国のなかでも最大級の規模を誇り、当時の国力のほどが推察されます。出石町に安良(やすら)という地名があります。

伽耶諸国の竪穴式石槨や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺えます。

大師山古墳群と『日本書紀』の考察

豊岡市加陽の大師山古墳群や八幡山古墳群の半島南部に見られる竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は、百済の侵攻から逃れてきた伽耶からの渡来人系の墓である可能性が高いし、豊岡市加陽や与謝野町加悦という地名からも有力。また、日本以外では朝鮮半島南部の伽耶のみに見られる円筒埴輪や内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴う前方後円墳が丹後から発見された。伽耶(任那)に朝廷より派遣された丹波国首長クラスの倭人のものかも知れないので、首長のみに前方後円墳を許可したのかも知れない。

いずれにしても、丹波(但馬・丹後)と伽耶諸国の当時の関係が強まった。

『日本書紀』崇神記によれば、
崇神紀10年9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(実際には4世紀初めのことと思われる)(四道将軍)。

しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。 崇神紀11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。
崇神紀12年9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。 崇神紀48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。
崇神紀60年7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。 崇神紀65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
垂仁紀3年3月(紀元前27年)、(実年は三世紀)新羅王子(伽耶だろう?!)の天日槍(あめのひほこ)が神宝を奉じて来朝。→伽耶人のこと、あるいは、伽耶に移住していた丹波の倭人か?
垂仁紀5年10月(紀元前25年)、皇后の兄・丹波の狭穂彦(さほびこ)が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。→丹後加悦(伽耶)人の抵抗ではないか?
垂仁紀7年7月(紀元前23年)、野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。→伽耶人の抵抗を鎮圧
垂仁紀15年2月(紀元前15年)、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后とした。→丹国の政略結婚による支配

垂仁紀25年(紀元前5年) 倭姫命(やまとひめのみこと)は、日本神話中の登場人物。第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。また日本武尊の叔母とされる。天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として大和国から丹波・伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により現在地に伊勢神宮を創建した(丹波籠神社より伊勢に遷る・元伊勢伝承)。→丹国および諸国平定

垂仁紀32年7月(3年)、垂仁天皇の皇后 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は、伝説上(記紀)の皇族。父は丹波道主王。母は丹波之河上之麻須郎女で、日葉酢媛が薨去し野見宿禰の進言に従い、殉死に替えて土偶を葬る。

『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。(埴輪の起源説話)=(否定されている)

と古丹波の話題に集中しているのも何か作り話ばかりではないようだ。垂仁天皇の皇子 誉津別命(ほむつわけのみこと)がしゃべれないので湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で鵠(くぐい、今の白鳥)=コウノトリを捕まえて献上すると話せるようになったとか、コウノトリとは半島から渡ってくる鳥を伽耶人(ひと)にたとえているのではないだろうか。伽耶を併合または征服したことを語っているのかも知れない?

垂仁紀90年2月(61年)、田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。→百済への侵略(中嶋神社創建)

但馬西部の古墳
出雲国造の同祖とされる二方(ふたかた)国造の名が記されていることからも、但馬国がまとまる前は、但馬西部には因幡・出雲に近しいクニが存在していたようです。
■八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)
香美町村岡区福岡

・県指定史跡
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められるといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器(はじき)や須恵器(すえき)が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。京都府福知山市夜久野町でも竪穴式石室が見つかっています。
流尾・長尾古墳 京都府福知山市夜久野町大字平野小字流尾、小字長尾

1961年、偶然発見されたが、当時夜久野中学校上校(現在宝陵中学校)の移転地とされていたため、緊急発掘調査が行われたものである。この二つの古墳は、同じ台地上の突端部に流尾古墳、その西約80mの台地端部に長尾古墳と、南面の見晴らしのよい高台に並んで築造されていた。

流尾古墳で注目されるのは石室の構造で、長さ5.13m、幅1.1~1.38m、高さ1.2mの羨道式窓のある竪穴石室で四壁の下半部は同時に石積みされ、上半部は三方と窓の壁を積み、埋葬後天井石をのせたもので類例のないものである。天井石は6枚で構成され、その最大のものは長さ2.2m、幅1.3m、厚さ0.2~0.3mあった。

こういった形式は、朝鮮慶尚北道達四面古墳群等の影響を受け5~6世紀に本邦に伝わって来たものではないか、又これらの形式は竪穴系横口式古墳と呼ぶのにふさわしいのではないか、言われている。(「日本の考古学」近藤良郎、藤沢長治編に記述)

■竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

古墳時代前期から中期にかけてよく見られる古墳の埋葬形式である。発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。中期には、先に石室を構築してから埋葬を行う、異なる系統の竪穴式石室が出現しています。これらは割石積みで構築されていますが、長さが短く、やや幅広の平面形の石室で、中期後半から後期にかけて、北部九州地方や中国地方、和歌山県の紀ノ川流域などで見られます。これらの石室は、旧来の竪穴式石室からの変化というより、朝鮮半島南部の洛東江下流域、の伽耶地域に顕著にみられる竪穴式石室からの影響を考えるべきものと思われています。

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三大杜氏 但馬杜氏(たじまとうじ)

酒のメッカ、灘五郷をかかえる兵庫県は、全国的に有名な最高級酒米「山田錦」をはじめとする酒米どころです。また丹波杜氏、但馬杜氏という酒の二大技能集団があります。

丹波杜氏は灘に近いので灘では丹波杜氏がほとんどです。
南部杜氏、新潟の越後杜氏、丹波杜氏と並んで「日本四大杜氏」(人数的には丹波杜氏の代わりに能登杜氏で四大杜氏とも呼ばれる)といわれる但馬杜氏は、南部、越後両杜氏組合に次いで全国で3番目の規模を誇ります。主に伏見などの近畿一円、中国、四国、東海地方で活躍しています。但馬人気質であるねばり強さ、山廃、吟醸等あらゆる製法を器用にこなし、毎年新酒鑑評会において優秀な成績を上げています。但馬杜氏は但馬牛と夢千代日記で知られ、日本一の湯村温泉がある雪深い美方郡が中心で、その半数は温泉町が占めています。

県内の杜氏組合は、丹波、但馬、南但の3団体。丹波ではメーカーに籍を置く「社員杜氏」が増え、40人中12人を占める。一方、但馬は93人全員が季節限定。2004年、城崎郡の組合は但馬杜氏組合の傘下に入り、出石郡の組合は解散した。(神戸新聞)残りは村岡町、美方町、浜坂町の順になると思います。(温泉町以外は正確なデータがないので、検索してわかる範囲を下記の杜氏一覧表にしてみました)

春から秋までは農家に従事して、毎年米の刈り入れが終わる10月に蔵入りし、翌年の3月まで約6~7ヶ月の間蔵元で寝泊まりして行われます。毎年但馬杜氏組合などで相互に研鑽を高め合いながら、良い酒を造ろうとする心意気が日本酒の伝統文化を支えています。しかしながら全国的に高齢化が進み、30年前には300名以上いた杜氏(親父、おやっさんと呼ばれる)の数も200名を切るまでに減ってしまいました。

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黒部銚子山古墳 (京丹後市弥栄町)


京丹後市弥栄町黒部

竹野川右岸の丘陵端部に立地する大型前方後円墳。葺石・円筒埴輪の存在が知られている。規模は全長105m、後円部径70m、高15m、前方部幅50m、高さ11m。二段構成 前方部は東南を向く。丹後町にも同名の銚子山古墳があり、こちらは黒部銚子山古墳と呼ばれています。

墳丘は丘尾を切断して構築され、墳丘斜面にテラスを設ける二段築成で、円筒形の埴輪片が採取されていることから、テラスには円筒埴輪が据えられていたと推定されています。また、斜面には葺き石が施されていたことが伺えます。

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城ノ山古墳 (朝来市和田山町)


兵庫県朝来市和田山町東谷

4世紀末に築造された円墳で、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。長さ6.4mという長大な木棺を埋葬しており、人骨のほか、銅鏡6面、石製腕輪、玉類、鉄製品などが出土しています。城ノ山古墳の築造は、南但馬における王墓の成立として重視されています。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。

昭和46(1971)年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。和田山バイパスの池田古墳をまたぐためにつくられたアーチ橋に続く古墳を守るためにつくられた短いトンネルが古墳の下を通っています。

三角縁獣文帯三神三獣鏡は国の重要文化財は畿内の大和政権が配付したものといわれています。これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。  道の駅「但馬のまほろば」 古代あさご館/朝来市埋蔵文化財センターで出土した埋蔵品が展示されています。

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