【京都散策】 天皇と京都 御所と洛中を辿る1

放送大学試験で京都。何度も京都見物はしているが、定期観光バスは主なコースは有名な名所なので、これまで利用しなかった。大学を過ごした京都に20年以上経て半年に一度は訪れる機会を与えてくれているのは放送大学である。
今回冬の旅として特別参観できるので初めて定期観光バスを利用してみた。やはり年なのか個人で市バスを利用して歩き回るよりも合理的だ。なので泊まることにした。この時期の京都は年間で空いているシーズン。前日にホテルと観光コースを予約した。前から駅に近いリーガロイヤルや新都ホテルに泊まってみたかったが、素泊まりには高嶺の花。ネットで調べてみると前日なのに税込6300円だと!他と大きく変わらないので予約。


放送大学京都キャンパス図書室のNHKライブラリー

放送大学京都キャンパス図書室のNHKライブラリー
試験の前に時間あるので京都キャンパスの図書館へ行ったら、忌々しいNHKのシルクロードなどのビデオが並んでいた。メモする変わりにデジカメという便利なツールがあるのでおとなしくデジカメで2回撮影しただけであるのに、係員のひとに出ていけといわれ連れ出された。ストロボが光ったためなのだろうか、ご覧のようにストロボ撮影はしていないです、念のため。撮影の時カウンターにはいなかったが、デジカメごときのシャッターの音が迷惑をかけたとは思えないが突然静止されたのだ。思わぬ事態になった。
2時間以上JR車中でビールやお酒を飲んでいたため、その対応につい腹が立ち暴言を吐いてしまった。一学生であるのに出ていけとはなんなのか!そしたら携帯やその他ツールを持ち込み禁止と書いたのか、原口総務大臣に言うからあんたの名前を教えろと言ってもらった。もちろん民主党の馬鹿に言うつもりはないが、なんで私がデジカメで2枚撮っただけで連れ出さなければならなかったのだろうか。確かに誤解を招いたのかも知れないが大声で怒鳴ったのは軽率だったしその人に反省している。そのことで他の学生に迷惑をかけたと言われたのでは反省しているし、あまりにも相手が世間知らずの放送大学なので軽率だった。
(でも放送大学って5年も在籍しているとその内容からして高いし、無駄な資料送付や職員が多く改良の余地が大いにあると日頃から思っているから、その思いから反動が起きたのかも知れない)
金があって暇で放送大学に入学したのではないからだ。こいつらに腹が立つ。
しかし、いづれにしても、大声で口論したのは他の方々に迷惑をかけたので謝らなければ人間として最低だと思うので機会を見て職員の方に謝罪しよう。でないと世間音痴な放送大学職員及び大学職員よりも社会人である私個人が低俗に思われる。(^_-)


リーガロイヤルホテル京都

今年で40周年。フロントで今なら最上階のエグゼブティブツインがあと3000円でお泊まりになれますが・・・と誘われ、老舗だけにシングルでも広いのに、申し込んでしまった。多分最初で最後だからまあいいかと。


室内は改装されているので綺麗。通常ならシングルでも15750円はするので最上階エグゼクティブツイン35,805円が9450円なら納得(^_-)。


さすがにサービスは高給料金。トップオブキョウトは若い時は縁がなかった。夕食ディナー

【翌日】

京都定期刊行 特別参観「御所と洛中」コース
昼食付き 8500円
東寺
国宝 五重塔 初層内部
京都御所
大徳寺 本坊
〃    大仙院
御寺 泉湧寺(Sennyu-ji) 御座所・霊明殿
前々日、宿泊を決めてネットで予約。
当日なんと大型観光バスに私を含め3名参加。完全に貸切状態で贅沢というか気の毒な事この上ない。
ガイドさん曰く、年間で1月2月の冬の京都は観光客が少ない期間だそうで、1名でも運行します。
御所で他のコースの2名の方と後のコースが同じなので合流し5名となった。

■真言宗総本山 東寺(教王護国寺)

国宝 五重塔

東寺は2回目だが、前回は五重塔など伽藍内部には入らなかった。五重塔初層内部が特別参観できるこのコースを選ぶ。
弘法大師空海が講堂の次ぎに建立した。日本唯一の高さを誇ることでも落雷に遭いやすかったことも考えられ、創建以来、落雷等で4度の焼失に遭っていますが、現在の5代目の塔は1644(寛永21)年、徳川家光によって再建されたもので総高55m。現存する木造建築物で日本の古塔中最高の高さの塔。京都の新幹線とともに必ず映る風景だ。
パンフや東寺HP(http://www.toji.or.jp/gojunotou.shtml)によれば、心柱は三本に分かれて接合されている。また各層ごとに軸部・組み物・軒を組み上げ、最上階までくり返す積み上げ構造になっていて、木材同士も切り組や単純な釘打ち程度で、柔構造になっており、地震で倒壊したという記録はない。地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動するため、倒れようとする力よりも元に戻ろうとする復元力の方が大きいので地震に強いと考えられている。どう見ても偶然に考えられたものではないからすごい技術力だ。
塔自体は木材であり乾燥で収縮するが、独立した心柱は収縮しないので、そのためズレが生じ、そのズレを直すために元禄五(1692)年、一尺五寸(約50cm)ほど心柱を切り下げたため、心柱の彩色が少しずれていることが分かった。


初層内部

撮影禁止なのでここまで。

弘法大師が唐より持ち帰った仏舎利が治められている。
内部を貫いている心柱は、大日如来に見立てて、金剛界四仏と八大菩薩が安置されている。壁には真言八祖像が描かれ、現在は剥落しているが、当時は極彩色の文様がさぞかしこの世のものとは思えない豪華絢爛さを誇っただろう。

東寺講堂
講堂 修正会 1月28日は講堂修正会という行事が行われていた。偶然に行事が観られたのでラッキーだ。

■京都御所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大政奉還
大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件である。

幕末の政局が動揺し桜田門外の変以来、幕府の権威が低下すると、幕府および雄藩は朝廷と結んで権威を回復しようという公武合体路線をとるが、かえって尊王攘夷派に利用され、将軍徳川家茂が上洛を余儀なくされるなど、幕府が本来朝廷の下位にあることが目に見えるようになっていく。松平春嶽に請われて越前藩の改革を行った横井小楠や、大久保一翁・勝海舟ら開明的な幕臣やなどの先駆者が、早くから政権を朝廷に返上して、政体を変革する大政奉還論は提唱されていたが、現実的な政策となることはないまま、政局は流動。

長州征討の失敗とそのさなかの家茂の病死により、幕府の権威はさらに低下し、新たな将軍に就任した徳川慶喜は幕権強化に邁進することになる。一方、独自の考えで幕府改革を行おうとしていた 薩摩藩の島津久光らは参預会議などで慶喜と衝突し、また切り札と考えた四侯会議でも慶喜の巧みな主導で無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、長州藩と結んだ薩長同盟をもとに武力倒幕運動を推し進めていく。

このような状況の中、土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬(かつて勝海舟から教えを受けた)から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部に大政奉還論の採用を主張。これに薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通も同意し、6月22日薩土盟約を締結した。これは慶喜に大政奉還を迫り、もし拒否された場合には武力による圧迫で政変を起こすというものであった。後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、武力の発動を拒否する山内容堂(前土佐藩主)の反対にあい、頓挫。薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日には薩土盟約は解消。結局土佐藩は単独で10月3日に大政奉還の建白書を山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。

これを受け、10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。10月14日(11月9日)に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれを受け入れるつもりはなかったが、慶喜の意を受けた薩摩藩城代家老の小松清廉、土佐の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定。天皇から慶喜への大政奉還勅許の沙汰書が授けられたことで、大政奉還が成立する。

折しも、倒幕派公家の岩倉具視らの画策によって討幕の密勅が下されようとしていたときであった。慶喜は先手を打って大政を奉還することで、討幕の名分を失わせた。慶喜は10月24日に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出る。当時の朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えてのことである。上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになる。

このような朝廷の下では、大政奉還後の新政権も徳川慶喜が主導するものになることが当然予想された。薩長や岩倉らが実権を掌握するためには、武力蜂起により親徳川派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して天皇親政の新体制を樹立し、慶喜には辞官・納地(旧幕府領の返上)を求めて新政権の中心となることを阻止することが必要となり、王政復古へ向かっていくことになった。

他方では、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らに大政奉還が薩・土両藩の画策により行われたものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。

王政復古の大号令

上記のような閉塞状況を打破するため、大久保利通や岩倉具視は秘かにクーデター計画を練る。12月8日夕方から深更にかけて行われた朝議で、毛利敬親(長州藩主)・広封(同世子)の官位復活と入京許可、三条実美ら八月十八日の政変で追放された5人の公卿の赦免、および岩倉具視ら謹慎中の公卿の処分解除が決定された。翌9日未明、公卿たちが退廷した後、待機していた薩摩藩・芸州藩・尾張藩など5藩の軍が御所9門を固め、摂政二条斉敬をはじめ要人の御所への立ち入りを禁止した後、明治天皇臨御の下、御所内学問所において王政復古の大号令が発せられた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、摂政・関白・将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を置くなどの方針が発表された。これにより、二条摂政や中川宮朝彦親王ら親幕府的な公卿は発言権を失うことになった。
この大号令を受けて、さっそく新設の三職を小御所へ召集し、同日18時頃から小御所会議が開かれた。
ちょっと長くなったが、前置きはこのくらいにして、

  
諸太夫の間

正式な用向きで参内した時の控えの建物。最も格式の高い「公卿の間」、諸侯・所司代の控えの「殿上人の間」、それ以外の者の控えの「諸太夫の間」の三室からなっている。宮内庁の案内された方に西郷隆盛はどこに座っておられたのですかと聞いたら「分かりません」といわれ、他の同乗者のおばさん(といっても大差ない年齢の仲良しになった佐賀の人)に笑われた。


御所参観

京都御苑は2度目だが御所は初めて。これも事前に宮内庁に申し込みが必要なので定期観光コースならでは。
右が建礼門。左(北)が紫宸殿の承明門


承明門と紫宸殿


紫宸殿

即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿。大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われた。中央には天皇の御座「高御倉」その東に皇后の御座「御帳台」が置かれている。大正天皇の即位礼に際し、古制に従って造られたものであり、今上天皇の即位礼には、東京の皇居に搬送し宮殿で使用された。階段脇には東に左近の桜、西に右近の橘があり、前面には白砂の南庭が広がり、感動する。ひな人形の原型だ!


小御所

御池庭に面して入母屋檜皮吹き。元服などの儀式に用いられ、天皇が将軍や諸侯と対面される場所ともされた。「王政復古の大号令」が発せられた後の「小御所会議」は慶応3年12月9日の夜、ここで行われた。昭和29年に焼失、昭和33年に復元された。
小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都の小御所で行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)からなる最初の会議である。すでに大政奉還していた徳川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、倒幕派の計画に沿った決議となったため、王政復古の大号令と合わせて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体[1]路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。
  
回遊式庭園で天皇のお写真にも欅橋がよく利用される。 建礼門

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