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NHKの眠りを覚ます中国 たったJAPANシリーズで夜も眠れず


1/4【討論!】「伏魔殿NHKを暴く!」Part4[桜H22/5/8] SakuraSoTV


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4/4【討論!】「伏魔殿NHKを暴く!」Part4[桜H22/5/8] SakuraSoTV

パネリスト:
大谷英彦(「NHKを正す会」代表 /マスコミ・インサイト社代表 / 元NHK政治部記者)
杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)
立花孝志(元NHK職員・内部告発者)
田中秀雄(日本近現代史研究家)
富岡幸一郎(文芸評論家・関東学院大学教授)
永山英樹(台湾研究フォーラム会長・日本李登輝友の会理事 放送法改正推進本部長)
柚原正敬(日本李登輝友の会 常務理事・事務局長 /台湾研究フォーラム顧問)
司会:水島総

◆みんなで選ぶNHK会長

下記の「NHK110番」に推薦メールを送ってください。
nhk110@hotmail.co.jp
1.推薦する会長候補者の氏名
2.推薦する理由(簡単で結構です)
3.ご氏名(本名でなくともハンドルネームでも可)
4.メールアドレス
5.年齢
6.ご氏名またはハンドルネームを掲載してもよろしい方は、別途お書きください。
3・4・5については公表をしません。

◆みんなで選ぶNHK会長のサイト
http://nhk-tadasukai.iza.ne.jp/blog/e…

◆チャンネル桜公式HP
http://www.ch-sakura.jp/

史料をさぐる時間が面倒くさいので、『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用する。

日本では、250年余り続いた江戸の太平の世の中では、外国のどこかへ行って物を取ってこよう、外国のどこかが日本に来て何かを持って行ってしまうかもしれない、という発想・実感はなかった。ところが大航海時代以降世界に進出、支配領域を拡大した欧州、続く帝国主義の波に乗った米国によるアフリカ・アジア進出・侵略・植民地化は、東アジア各国にとっても脅威となった。アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが黒船で来航した時には「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が読まれた。

幕末と現在の違いは何か、それは今の日本人(といっても政治家とメディアと戦後教育の洗礼を受けた左翼思想)がいかに愚かなのかの違いではないか。それは歴史を知らない、いや学んでいないからだ。

日本は戦後最大のピンチにたたされている。幕末の欧米列強の黒船による接近と、今起きているアメリカの衰退と軍事大国となった中国の接近に対する危機意識に対する平和ボケした違いは大きい。

幕末、幕府を初め、長州、薩摩など諸藩は日本のあちらこちらに出没するロシアやアメリカ、フランス、イギリスの黒船に危機感を高めた。幕府は各藩に命じて沿岸部に台場(砲台)を造らせ警備に当たらせた。

しかし、巨大な黒船には小さな飛距離の大砲では為す術もなく、震えおののいていた。

攘夷論(夷人(外国人)をしりぞける)

帝国主義の発想を持つ欧米のアジアへの接近(侵略・進出・植民地化)により、それまでの江戸の天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を維持したいという発想として盛り上がった。

吉田松陰

吉田松陰はアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。象山からは「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林(小林虎三郎)のみである」と、二人の名前に共通していた「トラ」を引用し「象門の二虎」と褒められている。

嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。同郷の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。

安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、野山獄に送られた。

やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし井伊直弼の命令により「死罪」となってしまい、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30。生涯独身であった。

一君万民論

「天下は一人の天下」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。なお、「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。

飛耳長目

塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負う所が大きい。

草莽崛起

「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指す。“在野の人よ、立ち上がれ”の意。

安政の大獄で収監される直前(安政8年(1859年)4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

対外思想

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は独立した国家であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張した。松下村塾出身者の多くが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本の対外政策に大きな影響を与えることとなった。

勝海舟と長崎海軍伝習所

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運を掴むことができた。
その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。このときの伝習生には矢田堀景蔵、永持亨次郎らがいる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。

渡米

万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節を米国へ派遣する。この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らが選ばれ、米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米した。このとき、護衛と言う名目で咸臨丸もアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった。咸臨丸では軍艦奉行・木村摂津守が最上位であり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。

咸臨丸には米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長のジョン・ブルック大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。
福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。

帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港であるので神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている。

坂本龍馬をはじめ、感受性の鋭い脱藩した地方の草莽の志士たちは、幕府方の勝海舟の世界観によって、日本は海軍を起こし国防に当たるべきと知る。

坂本龍馬と神戸海軍操練所

海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認もした。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助、新宮馬之助、望月亀弥太、近藤長次郎、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が人斬り以蔵の異名を持つ土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での警護役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。

幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。同年4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。

幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春獄から千両を借入れした。 5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。

龍馬が神戸海軍操練所成立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。

6月29日付の手紙では攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢(下関戦争)について強い危機感を抱き「姦吏を打ち殺して、日本を今一度洗濯いたし申し候」[53]と後世殊に有名になった言葉を述べている。
「開国」と「攘夷」という相反する対外思想が「討幕」という一つの行動目的へと収斂される可能性を生んだ。土佐藩の坂本龍馬らの斡旋・仲介・手助けもあって、幕末日本の薩摩と長州の二大地方勢力は討幕へと向かっていくことになる。

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