身近にある神社。そのうち、延喜式神名帳に記されている古へから地域の朝廷が管理していた重要な神社を、「式内社」といいます。
ウィキペディアには、
延喜式神名帳とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧です。延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といわれます。
元々「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成していた官社の一覧表のことで、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列されており、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などについては記載がない。延喜式神名帳とは、延喜式がまとめられた当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座する神の数は3132座である。
式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる。式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社であるものも含む)。
神社に関する投稿は、「神社拾遺」ブログ
https://jinja.kojiyama.net/
に書いていますが、
神名帳は、単なる当時の神社総数目録を意味するのではなく、当時、律令制における一機関である神祇官(じんぎかん)が、神社を統括するようになり、彼らが、由緒正しき霊威ある神社を認定するとの趣向で編纂されたものとなります。そのため、ここに掲載されるということは、当時として、非常に格式が高い神社と認められたことになります(この制度を官社制度と言います)。
具体的には、この式内社は、大枠2種、官幣(かんぺい)社、国幣(くにべつ)社に分類され、更に、それぞれ大小に区分される計4種の神社に選別されます。
官幣社:朝廷管理(現在で言うところの中央政府管理)
=官幣大社:198社304座/官幣小社 :375社433座
国幣社:各国国司管理(現在で言うところの各都道府県庁管理)
=国幣大社:155社188座/国幣小社:2133社2207座
この場合の大小は、当時の社勢の違いによるものとされておりました。また、官幣社が、中央直轄系となるため、京都を中心とした畿内に集中し、国幣社は、逆に、全て畿外(地方)に指定されています。更には、これら式内社の中から、特にその霊験が著しく高いという意味を込めて、「名神」のタイトルを賜る神社もあり、その全てが大社であったことから、「名神大社」と呼ばれる神社もありました。
朝廷が管理する神社を官幣社(官社)、各国の国司が管理する神社を国幣社(国社)といい、今でいえば国立、県立の違いです。式内社はつまり当時は官社で国営神社であったことを意味します。
例えば、但馬一宮出石神社を例に上げるとややこしくなりますが、『延喜式神名帳』では「伊豆志坐神社八座」とあり、一社で8座祀られています。
座は神社の数ではなくご祭神の数です。御祭神は「出石八前大神、天日槍命」とありますが、1座ではなく8座とされています。天日槍命を加えると9座でないとおかしいと思いますが、これは天日槍命はすなわち八種神宝のことです。
社伝によると垂仁天皇の時、天日槍命が来朝し、当地を開拓したので、その徳を敬慕し、命が奉持していた八種の神宝を八前大神として祀った。八種神宝とは、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡であり、このことは既に『延喜式神名帳』にも八座の神として明記され、名神大社となっている。
名神大社、旧社格は国幣中社(現、別表神社)となっていました。
さて、かつての「延喜式神名帳」の旧国別でも、但馬国の式内社数の多さに驚きます。但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。
但馬国は大きな国でもないのに、大小合わせて131座というのは意味があるはずです。
例えば
大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲国:187座 大2 小185
近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118
近隣で比べると、
丹波国:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭国:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨国:50座 大7 小43
となっているので遙かに引き離していることがわかります。
それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。大和の朝廷・畿内から半島への日本海の玄関口として重要だった証です。
但馬國:131座 大18小113
但馬国には、官社131座で、その内訳は名神大18座、名神小113座という意味です。
朝來郡[アサコ]:9座大1小8
養父郡[ヤフ]:30座大3小27
出石郡[イツシ]:23座大9小14
氣多郡[ケタ]:21座大4小17
城崎郡[キノサキ]:21座大1小20
美含郡[ミクミ]:12座並小
二方郡[フタカタ]:5座並小
七美郡[シツミ]:10座並小
当方の住む氣多郡(気多)は、ほぼ旧日高町域(現在の豊岡市日高町)にあたります。但馬国府国分寺が置かれていたことから、神社でも式内社や大社が多いことは地元でもあまり関心がありませんが。但馬国式内社131座の2社が地元気多郡で最も身近にある高負神社、佐久神社、御井神社は再三訪れながら、正確に参拝しておらず、最後に残ってしまいました。因幡国50座はすでに制覇し、丹後國:65座 大7小58の半分、但馬国式内社もあと、雪や時間帯で訪れながらあきらめた旧出石郡内の比遅神社[ひじ]「多遲摩比泥神」兵庫県豊岡市但東町口藤と、須流神社[する]「伊弉諾尊、伊弉册尊」兵庫県豊岡市但東町赤花2社のみとなりました。