テレサ・テンの思い出
産経新聞 2010/05/21 07:04
【外信コラム】台湾有情
「アジアの歌姫」と呼ばれたテレサ・テン(●麗君)さんが滞在先のタイで42歳で急死して15年が過ぎた。台湾では命日(5月8日)をはさみさまざまな追悼行事が行われた。台北県金宝山のお墓にはこのところ毎月約6千人の中国人観光客が訪れ、高雄市が4月末に開設した記念文物館は連日700~800人の参観者を集めるなど、テレサ人気は衰えを知らない。
テレサさんは1953年、台湾・雲林県に生まれた。60年代後半に台湾で歌手デビュー、香港、東南アジア、日本、中国で絶大な人気を集めたことは繰り返すまでもないだろう。
「テレサは完璧(かんぺき)な歌唱力とつややかで透明感のある声の持ち主だった。歌の中身を深く理解し、情感を込めて心で歌った。わずか3分の演歌をまるで私小説のように表現した。20世紀最後のスーパースターだった」
日本の歌謡界での“育ての親”とも言うべき舟木稔・トーラスレコード元社長は、台北市で開かれたフォーラムでこう熱弁をふるい、早すぎた死を惜しんだ。
中国が対外開放政策に転じた80年代初頭、「彼女の歌は政治や文化の垣根を越えて私たちの心をとらえた。単なる歌手ではなく文化の伝承者だった」。中国から参加した于丹・北京師範大学教授の“熱さ”も負けず劣らずだった。
当時のぎすぎすした北京で3年半暮らした筆者も、彼女の歌声にどれだけ癒(い)やされたことか。それだけに2人の熱弁に感無量だった。(山本勲)
●=登におおざと
テレサテンはいつ聴いてもやっぱりいい。
ちょうど20代後半から30才前半だった自分のやんちゃだった時代に重ね合わせて。香港、台湾、上海に行ったのもその時代に重なる。
それは多くの同世代の共通の思い出ではないだろうか。だからこそ、いつまでも国境を越えて慕われ続けているのだ。歌には過去・現在すべてを越えて心をつなげる力がある。彼女は外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語に堪能で、山東語、マレー語、フランス語などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。日本人以上に日本人の良き心を歌い、親善大使のように国同士の架け橋となって果たした役割は偉大な功績であろう。
アップされたTeng295 さんに敬意を表します。
[NHK]歌伝説 「テレサ・テンの世界」 Part1 Teng295さん
「時の流れに身をまかせ」NHK紅白歌合戦 1991
「愛人」NHK紅白歌合戦 1985
テレサテンのデビュー曲「涙の太陽」(Crying In A Storm)は、1965年4月20日に発売されたエミー・ジャクソンのデビュー曲である。彼女の代表曲となり、青山ミチ、安西マリア等多くの歌手にカバーされた。
エミーは当時横浜のアメリカンスクールに在学し、ラジオ関東の番組をアシスタントを行う傍ら、湯川れい子に見出され、日本コロムビアの「CBS」レーベルから歌手デビューした。
台湾で絶大な歌唱力の天才少女テレサ・テン。アジアが生んだ歌姫は、アジアのスーパースターとして活躍していく。
[NHK]歌伝説 「テレサ・テンの世界」 Part 2 Teng295さん
演歌に中国人の感性を取り入れて、演歌路線に切り替えて発売した2作目「空港」は大ヒットとなる。
「雪化粧」「ふるさとはどこですか」
香港で活躍し人気を博していた20才のテレサを、音楽プロデューサー舟木稔は、アメリカに次いで音楽産業のさかんだった日本でぜひとも成功させたいと説得。当時日本では台湾の欧陽菲菲(テレサより4才上・1971年9月に『雨の御堂筋』で日本デビュー。)、香港のアグネスチャン(テレサより2才下・1972年11月25日にワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より「ひなげしの花」で日本デビュー。)が活躍していた。1973年にアイドル歌謡曲路線の『今夜かしら明日かしら』でデビューしたが、売れ行きが思わしくなかった。
[NHK]歌伝説 「テレサ・テンの世界」 Part 3 Teng295さん
テレサは日本のヒット曲を中国語でカバーし、それは中国、香港、台湾などに日本の歌謡曲を紹介する役割を果たすことになる。
[NHK]歌伝説 「テレサ・テンの世界」 Part 4 Teng295さん
1984年、作詞家荒木とよひさ、作曲家三木たかしとの「つぐない」は、3分の歌の世界にストーリーを持たせた。
「つぐない」「愛人」(1985年2月21日 日本有線大賞大賞)がそれぞれ150万枚となり、見事カムバックを果たしたテレサテンは不動の地位を築くこととなる。、『時の流れに身をまかせ』が200万枚を売る大ヒットとなる(1986年2月21日 全日本有線大賞大賞 第28回日本レコード大賞金賞 )。「別れの予感」は全日本有線大賞大賞。
[NHK]歌伝説 「テレサ・テンの世界」Part 5 Teng295さん
1980年代後半「別れの予感」「恋人たちの神話」
1984年から1986年にかけ、日本有線大賞及び全日本有線放送大賞の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞した。1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。
自らを渡り鳥のようだと語るテレサは、両親の祖国中国に近い香港に居を構え、活動の中心を置くようになった。
加山雄三ショーの番組用に書き上げた曲「WE ARE THE STAR」テレサテン作詞、加山雄三作曲
[NHK]歌伝説 「テレサ・テンの世界」 Part 7 Teng295さん
1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動を殆ど休止するようになった。1990年以降はパリに居住。中華人民共和国の北京における天安門事件に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。
「ジェルソミーナの歩いた道」「愛人」NHKコンサート(1985)
「悲しみと踊らせて」1991
[NHK]歌伝説 「テレサ・テンの世界」 Part 8 Teng295さん
「あなたと共に生きていく」1993
90年代初めテレサはパリで暮らしていた。
久しぶりに来日したテレサテン。日本での最後のステージとなったのは1994年11月に放送された「歌謡チャリティコンサート」(仙台市にて公開録画)で歌った「夜来香(イエライシェン)」は1944年(中華民國33年)に李香蘭(山口淑子)の歌唱により上海の百代唱片公司から発売された中国の歌謡曲。全中国にヒットした。
国情とは合わず廃れてしまったものの、何十年もの長い時間を経て、夜来香(イェライシャン)の甘い香りに寄せた情緒纏綿としたこの歌は、鄧麗君(テレサ・テン)の歌声で復活した。「何日君再来」等と共に、中国(中華人民共和国)政府により、聴くことも歌うことも禁止されてしまった時代もあったが、現在は中国大陸でも解禁され、今や全世界の中国人に好んで歌われるチャイナ・メロディーの代表曲となっている。
1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。1990年から同棲関係にあった14歳年下のフランス人、ステファン・ピュエールが最期を看取った。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。墓所は台北市の北東に位置する台北県金山郷の金宝山にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる2005年5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず防腐加工などを施され土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石、蒋経国、テレサ・テンの三人だけである。
42才の突然の死によって日本での最後の曲として用意されていた新曲「泣かないで」は、テレサが亡くなった翌年に新人歌手が歌い追悼にした。のち、「忘れないで – time to say good-bye -」として、七回忌に当たる2001年にアグネス・チャンと北原ミレイによって同時にレコーディングされ、追悼の意が表された。
[NHK]歌伝説 「テレサ・テンの世界」 Part 9 Teng295さん
「つぐない」「時の流れに身をまかせ」
代表曲
[編集]日本で発表した主な楽曲
今夜かしら明日かしら(1974年3月1日)
空港(1974年7月1日 第16回日本レコード大賞新人賞)
雪化粧(1974年10月21日)
女の生きがい(1975年3月21日)
夜の乗客(1975年7月1日)
アカシアの夢(1975年10月21日)
夜のフェリーボート(1976年6月1日)
ふるさとはどこですか(1977年2月1日)
あなたと生きる(1977年8月21日)
東京夜景(1978年5月10日)
ジェルソミーナの歩いた道(1981年2月28日)
つぐない(1984年1月21日)
愛人(1985年2月21日 日本有線大賞大賞)
時の流れに身をまかせ(1986年2月21日 全日本有線大賞大賞 第28回日本レコード大賞金賞 )
スキャンダル(1986年11月21日)
別れの予感(1987年6月21日 全日本有線大賞大賞)
恋人たちの神話(1988年1月25日 東京音樂節)
香港~Hong Kong~(1989年3月8日)
悲しい自由(1989年7月26日)
涙の条件(1990年3月28日)
悲しみと踊らせて(1991年7月)
あなたと共に生きてゆく(1993年5月12日)
愛的陽差(1992年5月27日)
テレサ・テンと有線放送
テレサ・テンと有線放送は切っても切れない関係にある。1985年に大ヒットした『愛人』は、有線放送のリクエストチャートで14週連続1位を記録。また、全日本有線放送大賞では1984年の『つぐない』、1985年の『愛人』、1986年の『時の流れに身をまかせ』で3連覇を達成して、浜崎あゆみが2003年に4連覇を達成するまでは誰も破ることが出来なかった。また、日本有線大賞でもやはり1984年の『つぐない』、1985年の『愛人』、1986年の『時の流れに身をまかせ』で3連覇を達成しているが、東西有線大賞3年連続同時大賞・グランプリ達成という記録は2008年現在誰にも破られていない。
テレサ・テンと中華人民共和国
テレサ・テンの歌は、1974年頃から音楽テープによって、中国共産党の一党独裁国家で、表現の自由だけでなく、諸外国の音楽の流入も制限されていた中華人民共和国に入り始めた。
彼女が歌う「何日君再来」は、日中戦争中の抗日歌として知られ、1980年代初頭に中国大陸で爆発的にブームとなった。中華人民共和国と敵対関係にある台湾国民党政府は、中国大陸に隣接する金門島から彼女の歌声を大音量で大陸に向けて流したり、音楽テープを付けた風船を大陸に向けて飛ばしたりすることで、中華人民共和国における反日感情を反政府感情にシフトさせる宣伝の道具として彼女の歌を利用した。そのため中華人民共和国の当局は、彼女の歌を不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)と位置づけて音楽テープの販売・所持等を禁止する措置を取り、これは1983年末まで続けられた。中華人民共和国で彼女の歌が禁止されていた時期でも実際には海賊版の音楽テープなどがかなり流布しており、それらを通して彼女の歌声を聞いていた人も多かった。1987年に両政府の関係改善がおこなわれたことから、台湾の商品を大陸で販売できるようになったことから、オリジナルの音楽テープが入るようになった。
中華人民共和国での彼女の人気の高さを物語るエピソードとして、当時、中華人民共和国の国民の間で「昼は老鄧(鄧小平)のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」、「中華人民共和国は二人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」といったようなジョークが流行っていたことなどを挙げることができる。
1989年6月4日に発生した中国共産党政権による反政府活動弾圧・虐殺事件である天安門事件の際には、香港で行われた民主化デモ弾圧に対する抗議集会に参加、民衆の前で歌を披露し、自ら中華人民共和国の民主化実現を訴えた。中国共産党政府による一党独裁を否定したテレサは、イギリスから中華人民共和国に返還・譲渡されることが決まっていた香港を発ち、フランスのパリへ移住した。生前、彼女は中華人民共和国でのコンサートを熱望していたものの、天安門事件で中国共産党政府に失望し、実際にそれが実現することはなかった。
以上の行動から、テレサ・テンを「中国民国(台湾)の広告塔」ととらえる見方もあった。
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