中嶋神社は豊岡市三宅に鎮座する。豊岡市三宅は、古くは出石郡安美郷で、屯倉が置かれたことに由来する。
宿南保先生「但馬史研究」第31号 平成20年3月 の考察を抜粋してみた。
天日槍命(あめのひぼこのみこと)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国から「非時(ときじく)の香の木の実」(橘)を持ち返ったと記される田道間守命(たじまもりのみこと)を主祭神とし、天湯河棚神(あめのゆがわたなのかみ)を配祀する。そこから菓子の神・菓祖として崇敬される。また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされる。
天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神である。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖である。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるという。
中嶋神社は、天日槍(日矛)を祀る但馬一宮・出石神社とともに立派な社で、この地が古くから屯倉(三宅)としてヤマト政権の直轄地にあることが重要であろう。また、但馬の出石・城崎(豊岡)・気多(日高町)には天日槍ゆかりの神社が多い。
現在の社殿は、応永年間の火災の後、正長元年(1428年)に再建されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されている。
国司文書 但馬故事記によれば、第33代推古天皇15年(607年)、田道間守の七世の子孫である三宅吉士*1が、祖神として田道間守(たじまもり)を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。
中島神社と田道間守(たじまもり)については別ページに詳しく触れているのでミヤケについてにしぼる。
拙者註
*1 『但馬故事記』文
人皇36代推古天皇15年秋10月、屯倉を出石郡に置き、米粟を蔵し、貧民救恤きゅうじゅつの用に供う。多遅麻毛理の七世孫・中島公その屯倉を司る。故に家を三宅と云い、氏と為せり。(「世継記」には10世)
34年秋10月、天下大いに餓ゆ、故に屯倉を開き、救恤す。
中島に三宅吉士の姓を賜う。中島公はその祖・多遅麻毛理命を屯倉丘に祀り、中島神社と云う。
(救恤 貧乏人・被災者などを救い、恵むこと。)
さて垂仁天皇は、実在する初代天皇とされる崇神天皇の第3皇子で、『記・紀』には崇神天皇と垂仁天皇の代に、他の天皇では記述がないのに、丹波(いまの丹後が中心)と但馬の記述が圧倒している。しかし、それらの事績は総じて起源譚の性格が強いと、その史実性を疑問視する説もある。
しかし、他には残された史料がないから、それに従い記述すると、崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。皇后は丹波からで最初の皇后は垂仁天皇5年に焼死したとされる狭穂姫命(彦坐王の女)で、口が利けなかった誉津別命をもうけている。そして全国で唯一のコウノトリにゆかりの久久比(クグヒ)神社が低い山の北の豊岡市三江にある。狭穂姫命の後の皇后には同じく丹波から日葉酢媛命(彦坐王の子・丹波道主王の女)、妃は丹波からは日葉酢媛の妹の渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)と3人が続きそのあと他にも3名あるが本題に関係ないのでここでは割愛する。
垂仁天皇は、『延喜式』諸陵寮に拠れば、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。
現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かっての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。
弥生時代中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。
集落南部で青銅器の製作。古墳時代前期に衰退している。遺跡中央部に前方後円墳が造られ、墓域となる。
ここでの本題は出石と大和に共通する三宅という地名である。奈良県三宅町と田原本町には天日槍と但馬に関わりのありそうな事跡が多いことである。
郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。
平成16年5月に『和田山町史』を執筆した筆者は、『川西町史』と『田原本町史』の古代編に惹かれていて、読みふけった。両町には、半島からの渡来人の足跡が色濃く残っていることを知った。その中には天日槍伝承をもつ氏族集団もいる。その後、同氏族に関して、
1,彼らの渡来は古墳時代のことであるのに、出石には日槍の伝承を持つ氏族の古墳と伝えられるもおのはない。ヤマトに存在するのだろうか。
2,日槍伝承を持つ氏族がヤマトへ移住するに至った理由は何であっただろうか。その間に斡旋者が介在していたのだろうか。
上記の疑問がフツフツとわいてきて、その解明に取りかかりたいと思うようになった。この思いを導き出したのは『川西町史』に盛られた諸項である。(中略)
(大和の)主要古墳群は盆地の周辺部に集中的に分布している。ヤマト朝廷を構成した大和の古代氏族は早くにこの地を占拠して開拓し、やがてはヤマト国家の基を築く。そして巨大古墳群を築造する。
これに対し、地図の中央部、川西、三宅、田原本の三町が所在する中央部は古墳の分布がほとんどないところから、古墳の空白地帯といった感すらする。前時代までは低湿地であったため大規模な古墳を造る在地勢力の存在は考えにくいとみられていた。そこへいきなり「島の山古墳」「河合大塚山古墳」といった巨大古墳が出現しているものであるから、『川西町史』は驚きの口調をもって解説している。
「島の山古墳」は川西町の西方域に所在し、満々と水を貯えた周濠の中に大きな島が横たわっている状態にあるところから「島の山古墳」と呼ばれてきたのであった。東西から西北に延びる標高48mの微高地の北端に営まれていて、墳丘の全長190m、後円部の径98m、同高17.42mの前方後円墳である。築造時期は古墳時代前期末、年代でいうと四世紀末ごろに相当するという。200m近い規模をもつ規模で、(大和地方で)宮内庁の陵墓及び陵墓参考地や国の史跡にも指定されていないものは、この島の山古墳が唯一のものといわれており、逆にそのことからもこの古墳が大王もしくはそれに準ずる程度の人の古墳と推定されている。
しかし大王もしくはそれに準ずる程度の人びとの墳墓が集まっているとされる大和・河内の他の墳墓と大きく異なるところがある。それはかなり低地にあること、島の山古墳の一帯では同古墳につづく同規模のものが造営されていないこと、他の古墳では、その地域にすでに在地勢力が存在していたことを窺わせる小規模な古墳が存在するものであるが、またそれに続く大型古墳もなく、系譜的に断絶していることを表しているという。
では「島の山古墳」は、どのようなねらいをもってこの場所に築造したのだろうか。『川西町史』はそのことを詳しく論述している。
「島の山古墳」の被葬者像については、これまでに出されている見解の多くが、「倭のミヤケ」よの関係に言及しているところから、『川西町史』でも「倭のミヤケ」との関係に解析の重点が置かれている。
ミヤケとは、「ヤマト王権が多様な目的を果たすために地方官である国造(くにのみやつこ)等の領内に置いた政治的(軍事も含む)・経済的拠点である。ミヤケが設置された歴史的意義については、ヤマト王権が初めて地方に打ち込んだくさびであり、ここを拠点に国造・伴造(とものみやつこ)などの地方官制を運用し、王権が必要とする物資の調達・集積や、よう役労働・兵役への徴発を行ったとされる(熊谷公男『大王から天皇へ』講談社)」との定義と歴史的意義を紹介したうえ、ミヤケが設置された時期は、ヤマト王権が誕生した四世紀末から、ヤマト王権の機構が整う六世紀中ごろまでの間であると述べている。
つづいて、多くの場合、それぞれのミヤケで地域や管理形態の特徴から類型化されている前期・後期の二つのタイプを挙げたのち、倭のミヤケの性格・位置・範囲等を述べている。
四世紀末から六世紀までに設置されたミヤケで、特徴としては大王によって開発された直轄的性格をもつことから、開墾地系といわれ、その管理は現地の国造もしくは地方豪族に委ねられている形態である。
その特徴は、国造等の地方豪族がヤマト王権にいったん反抗し、その後制圧されるに及んで改めて恭順の意を表すために、それまで自分が支配していた領地の一部を献上し王権のものとする。このタイプのミヤケは貢進地系といわれ、その管理については王権から直接管理者が派遣されて行われることになり、このことが律令的地方支配
の前提をなしたとされる。
川西・三宅・田原本の三町域が関係するミヤケとしては、「倭(ヤマト)のミヤケ」が考えられている。このことについて『川西町史』は次のように述べている。
「仁徳天皇即位前記には、“倭の屯田”の来歴について知っている人物として、“倭の直(やまとのあたい)”とは倭国造のことであるから、この一族がミヤケの来歴について尋ねられるということは、倭国造一族が倭のミヤケの管理を担当していたためであろう。このことから“倭のミヤケ”は前期ミヤケの一つに位置づけられる。」
(中略)
糸井造(みやつこ)や三宅連(むらじ)の出自や役割については後に述べるが、天日槍の伝承をもつ集団の中から、抜きん出て名の現れているこの両名は、造・連といった姓(カバネ)から、伴造に補せられた可能性が考えられるところから、彼らがミヤケ古墳群のいずれかの古墳に葬られていることの確証が得られたなら、天日槍伝承をもつ氏族の古墳は出石地域には確認されていないけれども、大和盆地のミヤケ古墳群が彼らの葬地ということができることになる。
ミヤケの開発に当たって、ヤマト王権は意図的にそこに渡来人の集団を設置していたことが隋所に見られる。渡来人は大陸や朝鮮半島からそれまでにない技量や知識などを携えて来ているので、その新しい技量を生かした生産活動の拠点をミヤケ周辺に構えさせて、ヤマト政権はその勢力を利用して組織や経済基盤を強固なものとする狙いがあったと考えられる。川西町域およびその周辺には渡来人に関係する神社や土木工事などの史跡がかなり濃密に分布しており、それらをつぶさに考察してみると、ミヤケの歴史的役割や意義、この地域の特色が浮かび上がってくるように思うので、改めて取り上げることにしよう。
さらに『川西町史』から引用させていただこう。
渡来人は朝鮮半島の情勢変化に伴い、ある程度まとまった集団を形成して来航する場合が多いと見て、その集中渡来の時期として、『川西町史』は次の三つピークを挙げている。
第一波は四世紀末から五世紀初めに、高句麗が「広開土王」の名をもつ好太王に率いられて南方に領土を拡大したことにより、主に朝鮮半島南部の人びとが五世紀前半にかけて渡来したもので、『日本書紀』では応神天皇のころにそれに関する記事が見られる。その時渡来したとされる人びとには、後に有力な豪族となる東(倭)漢(やまとのあや)氏の祖・阿知使(あちのおみ)主や西文(かわちふみ)氏の祖・王仁(ワニ)、秦氏の祖・弓月(ゆづき)君がいる。この時伝えられたとされるものや渡来談話を見ると、本来この時代にはないものがあるので、次に紹介する第二波の渡来に関係した氏族が、自分たちの始原を古いものであると示すために作った説話がかなり混じっている可能性がある。しかし第二波の渡来人を「今来(いまき・新しくやって来たの意)の漢人」と呼び、東漢氏や西文氏、秦氏が支配下においていることから、やはり五世紀後半以前に日本列島に渡来し、ヤマト王権のもとに組織されていたグループがあったものとされている。その人たちの出身地は、東漢氏や西文氏の場合は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)(『日本書紀』では任那)、秦氏は新羅と考えられている。
渡来の第二波は、五世紀後期に高句麗が百済の漢城(現ソウル)とう都を陥落させたことにより圧迫を受けた多くの人びとの渡来が顕著な時期で、『記・紀』にいう雄略天皇の治世に当たる。この時期の渡来人は須恵器や鞍(くら)といった生活や武具関係の工業技術を持った人びとが多く、ヤマト王権は東漢氏や西文氏等の渡来氏族の支配下に置き、部民制をとり陶部(すえつくりべ)や鞍作部(くらつくりべ)という職業部を組織し、労働と製品を確保する体制をとった。
渡来の最後の波は、七世紀中ごろになり、唐が勢力を拡大し、それと組んだ新羅が強大化することで、高句麗・百済が相次いで滅亡し、白村江(はくすきえ)の戦いで敗れ、王族も含む各種の階層の人びとがわが国に政治亡命してきた時期である。
渡来人が太子道沿いの地域に設置され、その技術を活用して開発や生産が行われたことを示す列証を『川西町史』が挙げている。
田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏んいつながる(『田原本町史』)。
また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。『日本書紀』応神天皇七年九月の条に、「高麗人・任那人・新羅人、並びに来朝り。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて、池を名づけて韓人池(からひといけ)と号ふ」とある。
川西町域にも渡来人の活動を推定させる史跡が二つある。糸井神社と比売久波(ひめくわ)神社である。現在は結崎市場垣内の寺川の右岸に鎮座する。『奈良県史』は、「古来、当社の祭神や創祀について諸説があって判然としない面もある」としている。糸井神社の社務所が出している「由来について」には、「ご祭神については豊鋤入姫命、また一説には綾羽呉羽の機織りの神とも伝えている」と微妙な表現をしている。豊鋤入姫命とは、崇神天皇の時代にそれまで宮殿に祀られていた天照大神を、倭の笠縫邑に移して祀らせた祭にその祭祀を託されたとされる姫命である。
出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造
新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。
三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。
豊岡市三宅は、旧名穴見村で、土師口という字がついたバス停があり、天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。
また同じ更杵村(寺内)には、佐伎都比古阿流知命神社という式内社がある。この神社は、中世には山王権現を祭神とし、山王社と呼ばれていたが、主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。いずれにしろ、延喜当時の祭神は、佐伎都比古命と阿流知命の二柱だったのだろう。
『古事記』には、「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚した」としている。であるから、佐伎都比古命は天日槍で阿流知命は阿加流比売神(アカルヒメ)だと思う。
この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』の著者の桜井勉である。「日槍の子孫、糸井姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」としている。実のところ、よく分からないというのが本音といってよかろう。
ただし、日槍伝承をもつ集団の子孫が大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者達がヤマトに糸井神社を建立、但馬に残った者達が寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。豊岡の三宅に落ち着いた者達についても同様の経過があったとみれば、豊岡市の人たちは納得が得られよう。(中略)
更杵村大兵主神社は中世にはほとんど廃絶に近い状態となっていたのだろう。このため明治期の式内社指定からははずれ、隣の林垣区の十六柱神社が式内社に指定医されている。いまでは寺内区の七、八戸が氏子となって更杵神社と称する小社を建立し、寺内区内に祀っている。
以上のように、更杵村という小さな村の村域とその隣接地に三社もの式内社が存在していたというのは、更杵村が古代にはきわめて重要な役割を果たしていたことを物語る証であろうか。円山川を隔てた対岸に但馬最大で近畿地方でも5本の指に入る規模の前方後円墳である池田古墳が存在している。但馬の首長が埋葬されたのではないかといわれているが、そのお膝元ともいっていい場所に更杵村は存在する。この地理的条件が、更杵村に多くの式内社を存在させる理由になったと考える。
この場合、畿内中枢部から派遣されてきたヤマト王権の首長が、天日槍伝承集団の分派をヤマトへ移住させる仲介役を果たしたとの仮説を立ててアプローチしてみてはどうだろう。
中島神社が鎮座する豊岡市三宅はかつては出石郡神美村ですぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市市場)がある。奥野にはもう一つの大生部兵主神社があり、一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの穴見郷戸主大生部兵主神社と有庫神社を祀るようになったようだ。
どちらも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。
また、出石郡但東町薬王寺にも大生部兵主神社があり奥野とともに論社であるとしている。出石町鍛冶屋には伊福部神社、気多郡伊福(いふ・現豊岡市日高町鶴岡)という鍛冶に関わる神社・地名が残り、入佐山古墳の石棺からは被葬者とともに納められたであろう砂鉄が見つかっていて、鉄に関わる渡来系の由来が残るのである。
天日槍伝承をもつ集団のヤマト移住先は大和盆地の中央部、川西町など三町域のあたりだろうということは前に述べた。ヤマト王権の支配という面から見たこの辺りの政治・経済的な立地条件について『川西町史』は、次のように述べている。「この地が五世紀のヤマト王権の直接的な支配が及ぶ最先端部にあたり、それまでほとんど手つかずのまま残されている広大な平地であったため、灌漑・水利の面等で新しい技術やそれを身につけた人たちを投入すれば、未開の低湿地は肥沃な耕地に生まれ変わり、王権にとって重要な経済的拠点になる、ということである」。
天日槍の伝承をもつ集団はこの地に打ってつけの人たちであったことが理解できよう。この地に投入された人を語る一つになるか知れないのが、大和盆地に散在する国名集落である。三宅町には上但馬・但馬といった地名が現存する。同町には他の国名集落として石見・三河が存在する。
(中略)
以上のような展開は、五世紀初頭のころを意識して想定を試みた。以上のような空想的経過が、もし部分的にも認められるところがあったなら、天日槍の(円山川開削という架空の)開発伝承は、但馬では神話という架空に近い単なる物語であるけれども、大和盆地においては彼らの活動が実施に移された史実であったということができよう。
実はこの投稿を見たのが昨日であった。しかし、それまで勝手に素人で数年間進めてきた但馬史というほどのものではないが、歴史探索は遠からず近いものであったと思う。田原本町に但馬や石見・三河などという国名地名があることは少年時代から地図好きだったので不思議に思って知っていた。
おそらく『記・紀』編集当時、このようなヤマトに根付いた地方集団の伝承を多く取り入れたのではないかと考えれば、神功皇后や崇神・垂仁天皇などの時代の主たる節目に当たり、丹波(但馬・丹後を含む)が頻繁に登場することがむしろ納得がいくのである。
(一部補正しています)
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