韓国に主観的歴史観、世論も変化 日韓歴史研究
産経IZA 2010/03/23 21:42「日韓での歴史共同研究には無理がある。韓国の歴史学者は『正しい歴史』という主観的な歴史観を持ち、自分たちにとって『正しくない歴史』はみな歪曲(わいきょく)されたものだと主張するからだ」。
23日発表された日韓歴史共同研究委員会の研究成果について、韓国史を専門とする日本の歴史学者はこう解説した。研究は、韓国にとり歴史共同研究が「日本側に歪曲された歴史」を「韓国にとって正しい歴史」に変えようとする作業であることを日本側に強く印象付ける結果となった。
韓国側は最終報告書発表を当初、今年2月中に設定することに固執した。これにも、ある意図が見え隠れしていた。今年が日韓併合100年という節目の年であり、独立運動の記念日(3月1日)までに発表し、世論の関心が向くことを狙ったとみられている。
日韓歴史共同研究委員会(第2期)が発足した2007年当時、韓国は左派の盧武鉉政権で「歴史の清算」に熱心だった。盧政権は、韓国の「正しい歴史」を日本側との研究に反映させ日本の教科書を修正することを目指していた。選ばれた韓国側委員はおのずと対日強硬派や左派学者となった。
一方で、韓国では2008年に李明博政権へ保革逆転。李政権の対日姿勢は未来志向で支持率が高く、世論の風向きは変わりつつあるという状況の変化も起きていた。現在、韓国では教科書問題に対する関心も以前ほど高くない。
李明博大統領は今月、独立運動の記念日の演説で「為政者たちのせいで亡国の悲運を迎えた」と、植民地時代について自国の側にも責任があったことを認め、「過去にとらわれず、人類共栄の新たな未来を開拓していかなければならない」と訴えた。
第2期委員会の趙●(=王へんに光)委員長は23日の記者会見で、「歴史の対話の必要性に韓国と日本の研究者たちがみな共感した」と評価したものの、近現代史については「争点として取り上げるには限界があったし、難しさもあった」と述べ、複雑な環境下で、日韓が歴史の共通認識に至らなかったことを認めた。(ソウル 水沼啓子)
□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2010年3月24日 NO.533号)
☆☆甦れ美しい日本☆☆◎奥山 篤信 偽善者の群れ 歴史共同研究の茶番 北岡伸一と鳥海靖の差
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小泉首相の金大中への提案で行なわれた日韓歴史共同研究報告書が発表された。
自国の歴史は自国が書けばよいのであって、他国の合意して書くべき性格のものではなく、こんな提案をした日本政府の馬鹿さ加減はあいた口も塞がらないのが本質である。安倍首相が提案した日中歴史共同研究の完全敗北はまさに、安倍が御用学者・日和見主義・自虐史観主義の北岡伸一なる男を座長に選んだ瞬間に予測できたが、結果も無残と言うか、日本を永久にジェノサイドの加害者として北岡は認知してしまい、あとは犠牲者の数だけの問題としてしまった。まさに中国側が歓喜したのは言うまでもない。この北岡の罪状は日本歴史史上最大の歴史捏造罪悪人として呪わねばならない。事実に反する南京大虐殺の冤罪を認めてしまったのだから、これは救いがたい犯罪行為である。学者としての真実を検証する努力も行なわず、相手の言うままに認めたのだから、こんな学者は学者としての資格はないわけであり、北岡は即刻東大教授を解任されて然るべきである。
それに比べて日韓歴史共同研究に於ける鳥海靖東大名誉教授は良くやったと評価できる。
新聞報道によると~「近現代」など3分科会に加え、歴史教科書に取り組むため新たに設けた「教科書小グループ」でも従軍慰安婦問題の記述などで歴史認識の溝が浮き彫りになった。委員間には「国益に有害」との意見もあり、今後も政府レベルによる共同研究を継続できるか不透明だ。~
日中の北岡と異なり鳥海は相当頑張った。特に日韓併合についての国際条約として世界に認められた行為について、日本側は堂々と主張している。韓国側は強圧により締結されたもので無効だと主張しているが、当時国際的にもこの条約は認められたであり、韓国の主張は荒唐無稽そのものである。現在の物差しで過去を断罪するなと言いたい。勿論不満もある。あの売国村山談話を駆け込み寺のように、あの保守を自認する安倍ですら認めたから、学者達を非難するのも気の毒だが、日本側は下記のごとく主張している点である。こういう逃げ腰の反論は頂けない。
~日本側は韓国の教科書で平和主義を掲げる日本の憲法9条について記述がないことを取り上げ、「戦後の日本を理解するには、絶対に必要な要素だ」と主張。日韓間の過去の歴史に関する天皇陛下の「お言葉」や、1995年の村山首相談話についても記述がないとし、「明確に記述することが重要だ」と指摘した。~
ともあれ鳥海は日本政府の戦後の自虐史観の流れのなかで良く抵抗したと評価する。繰り返すがあの腰抜け北岡と比べ雲泥の差がある。古き良き東大の伝統的学者を彷彿させた鳥海である。
いずれにせよこのような茶番の歴史共同研究ほど偽善と欺瞞に満ちたものはない!国益に反するので直ちに解散すべきである。
(映画評論家)「台湾は日本の生命線!」 永山英樹(台湾研究フォーラム)
■鳩山首相は韓国スターと参政権を語ったか
在日韓国人社会で低下する求心力を回復するため、外国人地方参政権の獲得運動を強化しているともされる在日本大韓民国民団。日本に「相互主義」を押し付けるため、先ずは本国に要求して、在韓外国人への選挙権の付与を一度だけ「試行」する法律を制定させたのだから、大変な勢いだ。
日本生まれ(大阪在日二世)の李明博大統領は在日韓国人への選挙権付与は必要ないとの考え。同じように理性ある在日も多いとされるが、そうした常識的考えなど、一顧だにしていない。二月二十五日には日本人女性にもそこそこ人気の韓国人男優、李瑞鎮(イ・ソジン)さんを民団広報大使に起用した。日本人の民団への警戒心を解くためのソフトパワー行使の策略と見られている。
鳩山由紀夫首相の夫人も大ファンの一人だ。三月十七日には李瑞鎮さんを首相公邸に招き、夕食をご馳走した。その際鳩山首相はこの広報大使に、参政権付与に関するいかなる約束をしたのだろうか。
実は李瑞鎮さんは広報大使の就任前から夫妻と交友関係にあるらしい。民団による起用とそれとは、はたして無関係か。
■民団は「内なる外圧」を演じている
たとえば、
―――日本人はよく、第1の開国=明治維新、第2の開国=敗戦後の復興の、その決定的要因はともに外圧によるものであり、自らの未来ビジョンとして積極的に打ち出したものではないと言う。―――そして、こうした歴史的経緯を踏まえながら、日本自らが積極的に国際的な共生時代と向かい合い、内なる国際化を進めようとの「第3の開国」論をオピニオン・リーダーらが唱え始めてからも、相当な期間が経過してしまった。
これらはご都合主義の主張といえよう。民団は自ら「内なる外圧」となって、「第3の開国」なるものを求めているのではないのか。
■見習うべき在日台湾人の懸命な努力
こんなことも書いている。
―――これまでの第3の開国論は主として、外国人を活用する立場のみから論じられ、外国人の自尊心は顧みられていない。民族意識を煽って砂の如き国民をまとめるべく、日本を「敵国」に設定して「活用」し、日本人の「自尊心」を傷つけてきた本国政府こそを非難するべきだろう。
―――地方選挙権を求める永住外国人を、日本の内なる国際化を進めるカウンターパートと見る視点が欠落している。「カウンターパート」と見られたければ、本国と自分自身らを先ず糾した方がいい。
在日台湾人の多くは日本の社会、国民の文化、価値観、感情を尊重することに懸命な努力を払い、日本人との信頼関係を築いてきた。在日韓国人にもそうした努力を行う余地がまだ残されているのではないか。
■韓国人らしい歪んだ日本人観
―――永住外国人地方選挙権をめぐって、「朝鮮人は出ていけ!」と連呼し、付与推進議員に恫喝を加えるウヨクを煽り、永住外国人が日本の安保を阻害する存在であるかのように決めつける付与反対論者も同類である。
竹島、対馬、歴史観等の問題で本国の政府、国民を批判しない限り、在日韓国人は「安保を阻害する存在」と見られる。これも仕方のないことだ。
―――日本人を自分たちの価値観に基づく《日本人》として固めるために外国人をスケープゴートにし、永住外国人をますます周辺に追いやろうとする言動を攘夷と言わずして何と言うべきか。
これなどは「韓国人を自分たちの価値観に基づく《韓国人》として固めるために日本人をスケープゴートにし」てきた韓国人らしい、歪みきった日本人観だ。江戸時代を見ても戦時中を見ても明らかなように、日本人は外国が及ぼす国家への脅威に危機感から平和ボケから目覚め、それで初めて攘夷思想を激発させてきた。穏やかに社会秩序を守る在日外国人に対してなら、無闇に攻撃などしない。
だからそれに続く以下の主張、つまりこの記事が一番言いたい部分だが、これもやはり聞くに値しない。
―――これは必ず、過激分子が桜田門外で井伊直弼を襲撃したように、日本社会への刃となり、第3の開国を遅らせて日本の未来を危うくする。
■運動停止で「敵」でない証を
日本人は永住外国人にさまざまな特権を与えても、「ますます周辺に追いやろう」などとはしていないはず。選挙権付与の反対派ですら、「選挙権が欲しければ国籍の取得を」などと親切に勧めているわけだが、それでも「攘夷」だと日本人を非難するなら、その前に自分たちが、在日韓国人は日本に仇なす「夷」などではないと、身を以って示すべきだろう。
そしてその証の第一歩となるのが、外国人地方参政権の要求運動の取り下げだ。まず日本の憲法が参政権付与を禁じている以上、それを重んじるべきである。
そしてさらにはこの日本社会を、すでに数では在日韓国人を上回っている在日中国人の影響力から守るためにも、外国人参政権に反対しなければならない。■中国の前での日韓連帯が共生の道
中国側は国威発揚のため、長野の聖火リレー現場と同様、ソウルでの現場でも大量の中国人を動員したが、あの光景を想起するべきだ。
中国人の暴力行為は長野よりもソウルで熾烈だったが、あれはもしかしたら日本人以上に、韓国人を見くびっていると言うことではないのか。中国人が韓国人の中国に対する抜き難い事大主義を知らないはずがない。
明治時代の日本人が脅威としたのは清国やロシアだけではなかった。そうした大国に擦り寄る韓国人の事大主義もまた然りだった。
こうした経験から、中国の脅威が今後ますます増大化するなか、一つの懸念が日本人の間で抱かれることだろう。
それは「韓国や在日韓国人は、またも中国に同調し、呼応し、寝返って、日本を裏切るのではないか」と言うものである。
民団をはじめ在日韓国人は、日本人と連携して中国の動きを警戒するべきだ。「韓国人はあくまでも日本人とともに東アジアの平和を守る」との意志を示し、日本人の不安を解消し、信頼を抱かせてはじめて、真の日韓「共生」の道が開かれるのではないか。
半島南部からの渡来人も、日本列島に渡来してきた秦・漢人も、ルーツは同じ中国東北部~江南人の稲作民が住み着いた倭人
(拙者)
以上、鳩山夫妻は、まったく国の総理大臣とファーストレディとしての立場が欠けている。自分の趣味と公私混同してもらっては困るのだ。鳩山由紀夫という男、東大工学部で工学博士というから頭はいいのだろうが、根本の国益を守るべき日本国の首相の立場や歴史認識が全くわかっていない自己中の平和ボケ夫婦だと段々はっきりしてきた。小沢、輿石、千葉景子、福島みずほなどもしかりだ。本当に日本の歴史を勉強していないで、いまの空気で考えている。
弥生時代に日本列島にやってきたのは中国の秦・漢人が戦乱から逃れて遼東半島などから船出して、朝鮮半島づたいに半島南部に住み着き、同様に済州島(チェジュ)及び対馬、壱岐、島嶼部、九州北部に住み着いた“倭人”なのだ。倭人とは魏からみて東国の蛮族という蔑んだ意味。半島南部の辰韓(伽耶)・弁韓(のちの新羅)は西部の馬韓(のちの百済)が東部へ移住せよとして与えた土地で、漢人が住み着き稲作や鉄の資源が豊かで鉄器や稲作を伝えたのは半島も日本も、ほぼ同時期と思われる。
そのころ半島にも日本にもまだ国は成立していないから人びとはボーダーレスで、当時魏志倭人伝にある倭人と呼ばれていた人びとは、国境などなかったころの東シナ海一帯の広域文化圏に住む人びとのことであると思われている。国家が成立後に半島から渡来してきた人びともいただろうが弥生時代を含めていずれも少数であり、縄文人も段階的に集団で居住し村をつくり土偶まど神祇をおこなっていた形跡がみられるが、縄文人がそうして渡来してきた人びとと融合しながら弥生人となって、各地に水田の土地をめぐり小国(クニ)が成立していったのが倭国の小国の成立である。半島南部や済州島(チェジュ)及び対馬、壱岐、島嶼部、九州北部は同じ倭人のエリアで土器も共通しているものが見られる。
最近の進んだDNA研究によれば、朝鮮半島のそのころの人骨のDNAと弥生人の人骨のDNAは類似したものがいまだ見つかっていない。同様に日本のジャポニカ米とはDNAが異なる。半島南部以外の朝鮮族が住む朝鮮半島中部以北及び中国東北部(満州)では水稲作が行われていた形成期はないし、現在でも水田には不適な土地である。DNAで弥生人と中国山東半島の人骨とよく似ていることが分かっている。いわゆる半島北部の朝鮮族ではない。
その後、古墳時代後期から飛鳥時代に祖先もルーツは同じ秦、漢人であって、朝鮮半島南部から渡来した秦(はた)氏、東漢氏(やまとのあやうじ)は、秦はハタ=機織りと同じ、太秦、幡多、秦野などの地名、漢はアヤ=綾織り、綾部市、韓はカラ=唐と同じ中国・加羅(伽耶)のこと、丹後与謝野町加悦、豊岡市加陽などの地名。つまり漢人が住み着いたから加羅(伽耶)と書くが読みは同じである。朝鮮半島、日本列島に文字(漢字)、水田稲作、鉄器、織物、木造建築、米による酒つくりなどを伝えた。しかし半島から伝来したというのは朝鮮半島からみた考えで、今日の国家像からみる固定観念であり、単なる通過点に過ぎないのだ。半島から伝来したというより文化が通過した時間差はあるがルーツは同じである。
戦前・戦中に同じ日本国籍であった朝鮮半島。日本に渡って働きに来ていた人びとは当時日本国籍であって、したがって人びとも時代は違えどルーツは中国から渡ってきた弥生人と同じ稲作と鉄器、航海術に長けた民族であろうと思っている。もっといえばすべて人類はアフリカがルーツである。李明博大統領は鳩山なんかと比べ物にならない素晴らしい政治家です
1941年、慶尚北道浦項出身の李忠雨(イ・チュンウ、
を父親、蔡太元(チェ・テウォン)を母親とし、七人兄弟の第五子として大阪府中河内郡加美村(現:大阪市平野区加美南3丁目)島田牧場の社宅に生まれる。父親は、1929年から現在の京阪牛乳(株)の前身であった島田牧場で酪農関係の労働に従事し家族を養っていたが、一家は終戦直後の1945年10月に密航船に乗って[2]、父親の故郷である浦項へ引き揚げた。その当時、高等学校への入学は限られた少数の特権であった。彼のような大家族の場合、一般的に長男が家族の希望のような存在であった。この場合、下の兄弟たちは、兄や姉の教育費を賄うために自分の進学を諦めるのが普通で彼も高等学校への進学を諦め、兄の教育費を稼ぐために母親の食品売りを手伝うつもりであった。しかし、中学校の教師が母親を説得し定時制の同志(ドンジ)商業高等学校に進学することになった。高校で彼は奨学金の給付を受けながら昼間は仕事、夜は勉学に励んだ。
高校卒業後、ソウルの梨泰院に家族全員で移った。そこで李は「金がなくて中退したとしても、高卒よりは大学中退のほうがましだ」として、大学受験を決意、清渓川の古本屋で参考書を買い受験勉強を始めた。市場で家業を手伝いながら、夜は当時学生の間で流行した眠気覚まし(アンナポン)を呑んで勉強した結果、高麗大学校商学部経営学科に合格。肉体労働をして学費を貯め、1961年に進学した。大学在学中に兵役を務めたが、気管支拡張症により除隊となった。
1963年に高麗大学校商学部学生会長になった翌年、同大学校総学生会長代行となる。その当時学生による民主化運動はピークに達し、日韓会談に対する抗議活動も非常に活発であった。彼は1964年6月、約1万2千人が参加した朴正煕政権下、日韓基本条約締結に向けての日韓会談反対闘争を主導、第6次日韓会談を中止させる(6・3事態)。これにより国家内乱扇動の容疑で逮捕され、最高裁で懲役3年・執行猶予5年(西大門刑務所に3ヶ月服役)の判決を受けた。このような経緯で彼は「民主化の一世代」とも言われるようになった。
ビジネス経歴
1965年に大学を卒業した後は、学生運動の経歴が祟って就職難に陥る。社員が数十人という零細企業だった現代建設の面接まで辿り着いたが、そこでも経歴に難色を示されると、朴大統領に手紙を送るなど紆余曲折を経て、なんとか入社を勝ち取った。赴任先のタイで強盗から金庫を命がけで守ったことで鄭周永に気に入られ、彼の薫陶の下、ビジネス界で辣腕を奮っていく。
1965年、現代建設はタイのパタニ・ナラティワート (Pattani-Narathiwat) 高速道路の契約を受注した。520万ドル規模のこのプロジェクトは韓国初の海外建設事業である。李は新入社員であったにも関わらず、プロジェクトチームの一員としてタイに派遣された。同プロジェクト1968年3月に成功裏に完了し、李は帰国してソウルの現代建設重機事業所に配属される。現代建設におけるパタニ・ナラティワート高速道路の成功的完成は、韓国の建設産業がベトナムや中東のような新しい海外市場の開拓の効果を促進させるようになる。
1960年代のベトナム建設需要の停滞により現代建設は中東地域へ目を向けることになる。アラブ造船・修理所、バーレーンのディプロマットホテルや「20世紀の偉大な歴史」とも言われるサウジアラビアのジュベイル (Jubail) 工業港プロジェクトなど積極的に国際的なプロジェクトを手がけることになる。当時韓国の建設企業は100億ドル以上のプロジェクトを受注し、石油危機による国家的危機を克服することに大きく貢献した。李が入社した1965年には90人位しかいなかった現代建設の従業員は、彼が会長職を離れた27年後には16万人規模の大企業として成長した。
現代建設在職中である1970年に金潤玉と結婚して、1男3女をもうけている。
李は当時の韓国とソ連間の国交正常化過程においても一定の役割を果たした。さらに李はリー・クアンユー元シンガポール首相、カンボジアのフン・セン首相、マハティール・モハマド元マレーシア首相、江沢民元中国国家主席、ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領など、海外の指導者らと交流を行った。彼は27年間勤めた現代グループを離れた後、政界に進出することを決めた。サラリーマン神話
こうして29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長と出世街道を驀進し、現代建設を韓国のトップ企業に押し上げた経歴から、政界入り以前より既に経済人として伝説的な存在であり、「現代の韓国を創った50人」に選ばれるなど、韓国におけるサラリーマン神話の代表的人物とされている。
極貧から身を起こし、高校時代より5時間以上寝たことはなく、1日18時間働くと言われる猛烈人生は既に何度もドラマ化された他(「野望の歳月」(1990年、KBS)、「火の鳥」(2004年、MBC))、現代建設を退職し政界入りする際に出版した自叙伝『強者は迂回しない』(日本語訳は2008年10月に『李明博自伝』として新潮文庫より刊行)は95年の出版以来、韓国内で200版近く版を重ねるベストセラーとなっている。
政界入門とソウル市長時代
1992年現代建設を退社。第14代総選挙(民主自由党)で当選し、国会議員として政界入りした。選挙期間中、李は「ミハイル・ゴルバチョフという一人の人間がもたらした世界的な変革を見て、私も何かしなければと考えました」と言及している。続く第15代総選挙(新韓国党)にも出馬し、この時盧武鉉を破って当選している。しかし、彼の選挙参謀による不明朗な選挙資金の処理が明らかになり、選挙法の違反で700万ウォンの罰金が科される前の1998年に議員を辞職し、再び経済人としての活動に戻った。
李は2002年にソウル特別市市長に当選した。しかし、選挙活動を早期に開始したことで罰金を科される。ソウル市長在任中は、公共交通システムの再編、ソウルの森の造成といったインフラ整備を大々的に進めた。中でも特筆されるのが、ソウルの中心部を通り抜ける清渓高架道路を取り除くことで、市民の大切な憩いの場「清渓川」を復元したことである。彼の強力なプロジェクト推進によって、ソウルの中心部を流れる小川をみることができた。さらに、清渓川は市民の憩いの場だけではなく、生態系の宝庫となった。
大統領選挙
2007年5月10日、李は公式にハンナラ党 (Grand National Party) の大統領候補選の出馬を表明した。2007年末の韓国大統領選挙の前哨戦であるハンナラ党予備選挙(2007年8月20日)で、朴槿恵候補に勝利し、大統領選の党公認候補となった。李は予備選挙期間にソウル道谷洞の土地投機絡みで告訴される。
2007年8月、検察は中間発表で「我々は道谷洞土地について李の兄の主張を疑うが、土地の本当の所有者が誰であるかは確かめることができなかった」と述べた。2007年9月28日に検察当局は、道谷洞土地の借名保有の疑いについて「我々は土地の売却代金の追跡や通話内容の照会などすべての調査をして真相が究明された」と公式に事件を終結させた。2007年12月、大統領選挙の数日前に李は自分の資産全てを社会に寄付すると発表した。 李は大統領選挙を前にした各種世論調査でも人気は軒並み1、2位となり、その勢いをそのまま本番に持ち込み、同年12月19日施行の大統領選挙で与党系の大統合民主新党の鄭東泳を圧倒的大差で下して当選を果たした。在日韓国・朝鮮人出身としては初の大統領である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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