小沢氏はいったい何を考えているのか分かりづらい。
なぜ民主党内で小沢氏抜きでは選挙に勝てないほど信頼されているのだろうか。
たしかに民主党内で、小沢氏ほど自民党時代に幹事長を経験し、長い政治経験と資金力を持つ実力者はいない。
鳩山首相を影で操っていると誰の目にも移る。
衆議院選で民主党が大勝した。まず、大勝の原因は民主党鳩山代表への人気や小沢氏が田中角栄仕込の「どぶ板選挙」を候補者に徹底させたこともあるかも知れないが、それよりも自民党への風当たりの強さによる「政権交代」の反動があまりにも大きかったことが主たる勝因ではなかったかと誰もが思っている。
たしかに、民主党が大勝した勝因は、選挙のやり方に強い小沢氏の経験なくしては選挙に戦えなかっただろう。また、昨年国債増額を推されるために公約だったガソリン暫定税率廃止を、小沢氏の継続の要望によりすぐに撤回したことでも、その豪腕とさえいわれる行動は、小鳩政権といわれるほど小沢氏独裁政権という悪いイメージを持たせてしまった。
小沢幹事長は作戦を自ら考えているのかである。
民主党は自民党の慣習をうち破るべく誕生したはずだが、動かしている手法は、つまり、困った時は小沢氏が過去の自民党時代の師匠であった田中角栄氏や金丸信氏のやり方をそのまま実践しているふしがある。とくにドンといわれた金丸氏に着目してみると、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から、
第1は、金丸は自民党と社会党を解体・再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想と訪朝
小沢氏は自由党が民主党への合流による二大政党化と訪中
1984年、中曽根総理は金丸を幹事長に指名した。翌1985年、田中派内に勉強会「創政会」を結成する。1987年7月、「創政会」は「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下の総理就任後は経世会会長に就任した。
1992年1月、宮澤政権誕生の功績で自由民主党副総裁に就任し、宮澤政権の支柱となった。
また、竹下派七奉行の中でも特に小沢一郎に目をかけ、1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は派内のベテラン議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。
第1次海部俊樹内閣で小沢幹事長は、苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利したなどの実績から「剛腕」と称された。
長く国会対策委員長をつとめて日本社会党議員と交流し、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。1980年代末から、自民党と社会党を解体・再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱くようになった。特に「足して二で割る。」という絶妙の妥協案は金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった。
1990年、日本社会党のつてを頼り田辺誠らと訪朝団を編成。団長として朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問する。小沢氏も参加。(金丸訪朝団)
第2は、歴史をよく理解していないことが露呈
民主党の小沢一郎幹事長が10日午前、13日までの中国、韓国訪問に出発した。胡主席と会談 「私は人民軍野戦司令官」と発言した。どういう意味かはわからないが、自らを国家主席であるとでも言いたいのであろうか。共産主義国家と民主主義国家が同じではないことは誰でも分かることなのに、事実上民主党連立政権は、中国共産党体制そっくりで、鳩山内閣よりも党の小沢幹事長の方が力を持っている。バラバラの民主党をまとめるには中国共産党を参考にしているとの本音ではないか。
2009年12月12日、韓国ソウル国民大学校講演で、
「(日本の韓国植民地支配に触れ)日本国民として謝罪しなければならない歴史的事実だ」
「日本民族は大陸の騎馬民族の末裔であり、天皇家は韓国王朝の流れを汲む」(1948年に東京大学の江上波夫が提唱した説だがまったく否定されている。韓国自体が騎馬民族ではない)
「天皇陛下も ‘桓武天皇の生母は百済の王女だった’ と認めている」(天皇は’かつて桓武天皇の生母は百済とゆかりがある’ と発言はされているが王女などとは発言されていない。桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世)など、「前後の事情はともかく著名な江上先生がそのようにおっしゃるほどだが、さらに強く話してしまえば私は日本で帰れないかも知れないので、ここではこの程度でしておきます。とにかく歴史的事実でないだろうか考えています。」と述べている。歴史認識がかつての誤った一歴史家の歴史解釈からそのまま止まっているのである。
第3は、憲法をよく理解していないことが露呈
政府は、中国の習近平国家副主席が14日来日し、15日に天皇陛下と会見すると発表した。小沢氏は14日の記者会見で「天皇陛下の政治利用」にあたると懸念を表明した羽毛田信吾宮内庁長官を「内閣の一部局の一役人が、内閣の方針にどうだこうだと言うなら、辞表を提出した後に言うべきだ」と述べ、辞任を要求した。
「国事行為」と論じていた点について、「憲法で規定している国事行為にはそのものはありません」と述べて撤回した。そのうえで小沢氏は「憲法との理念と考え方は、天皇陛下の行動は内閣の助言と承認によって、行われなければならない」と述べ、外交要人とのご会見も、内閣の助言と承認に沿って行われるべきとの考えを示した。
しかし、実は外国賓客との会見は国事行為ではなく、もっと天皇の意思を反映した「公的行為」に分類される。「公的行為」には小沢氏がいう「内閣の助言と承認」は必要としない。
第4は、策士策にはまる。自ら関与した「政治資金規正法」が自分の首を絞める。金丸は金塊、小沢は不動産
1992年8月、朝日新聞の報道により東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚。同年8月27日に自由民主党本部で緊急記者会見を行い、副総裁職の辞任を表明し、事態の収拾を図った。しかしこの記者会見は宮澤喜一政権に大きな衝撃を与えることになった。
9月28日 政治資金規正法で略式起訴。
東京地方検察庁特別捜査部は金丸に事情聴取のための出頭を求めたが、金丸はこの要請に応じずに政治資金規正法違反を認める上申書を提出するにとどまった。結局、東京地検は金丸に事情聴取せずに1992年9月に同法違反で略式起訴し、金丸は東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。
金丸逮捕もなく事情聴取すらしないというこの決着に、地検は国民から凄まじい批判を受け、検察庁の看板にペンキがかけられた。当時、札幌高等検察庁検事長だった佐藤道夫が『朝日新聞』に検察の対応を批判する読者投稿をし、異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。刑罰の軽さに批判が大きかったものの前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。こうした世論の反発が強さから金丸は10月に衆議院議員を辞職。竹下派会長も辞任することとなる。
1993年3月6日 脱税容疑で逮捕。
一方、東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、日本債券信用銀行(日債銀。現あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が申告されていないという事実を突き止めた(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”のコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)。1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。
逮捕後の自民党の会報などによると、党員の中では、金丸の蓄財動機は来たるべき新党結成の資金であるという概ねの共通了解が出来ていた。少なくとも、小沢一郎及び党大会などでは、金丸の行動が個人の私欲ではない事は共通の認識であった。
第5に、政界のドン 田中氏、金丸氏は人望が厚かったが、小沢氏は信頼できる側近がいない
金丸氏は、中曽根康弘が自民党総裁になるまでは日本一の中曽根嫌いを自認し、田中が中曽根を総裁に擁立するつもりであることを知ると、「おんぼろ神輿」とまで批判していた金丸だったが、中曽根内閣では自民党総務会長―幹事長―副総理と重用された。
小沢氏は、「担ぐ神輿は軽くてパーなのが一番だ。」(但し、これは実際には側近平野貞夫の発言「担ぐ神輿は軽いほうがいい」を誇張して小沢の発言として伝えられたもの)
歳川隆雄氏はさらに
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/222?page=2
のなかで、
■信頼できる側近がいない
それにしても、である。小沢氏は孤独な闘いを強いられている。相談しない、説明しない、説得しない小沢氏ではあるが、信を置く側近がいない。政治師匠である田中角栄元首相には、「金庫番」佐藤昭子がいた。角栄の愛人であり、政治的同志でもあった佐藤は力もあった。また田中には、早坂茂三もいた。早坂はマスコミ対策だけでなく、財官界のネットワーク確立、そして何よりも情報収集に長けていた。
小沢氏には、「佐藤昭子」も「早坂茂三」もいない。敢えて側近といえば、小沢周辺で「知恵袋」として知られる平野貞夫元参院議員ぐらいである。
いずれにしても、小沢氏は孤立無援の闘いを余儀なくされているのは事実である。
金丸氏逮捕の際、小沢一郎及び党大会などでは、金丸の行動が個人の私欲ではない事は共通の認識であった
。かつて政党解散時に独り占めしていた多額の政党助成金の使途不明疑惑、金塊を政治家で唯一不動産投資に替えたのか。
第6は、訪米 金丸氏は大統領会談の翌年に逮捕 小沢氏は自らの花道を探しているのか
歳川隆雄氏は小沢一郎が「オバマとの会談に固執する理由「師匠」金丸信は大統領会談の翌年に逮捕」
2010年02月13日(土)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/222?page=2
のなかで、
嫌疑不十分で不起訴処分となった小沢一郎民主党幹事長は、2010年2月8日の定例会見で5月訪米の意向を明らかにした。
小沢氏は2月4日、来日中のカート・キャンベル米国務次官補(東アジア太平洋担当)と国会内で会談した際にゴールデンウィーク期間中の訪米を要請されたとして、この日の会見で改めて、米側からの正式要請であり、行くからにはオバマ大統領との会談を設営して欲しいと申し入れていることを明らかにした。
55年体制下の自民党政権を含め、これまで、米国大統領がわが国の政権党幹事長と会談した例はない。
唯一の例外はパパ・ブッシュ政権下の92年6月、金丸信自民党副総裁(当時)が訪米、ブッシュ大統領と会談したケースである。
面会後、ホワイトハウスを退出した金丸氏は「やっと米国もオレを認めてくれた」と落涙したという有名なエピソードがある。つけくわえるならば、その金丸氏は翌年に東京地検特捜部に逮捕され、失脚した。
小沢幹事長は、そうした米国のプロトコールも熟知しているはずだ。たとえ鳩山由紀夫政権の最大実力者であっても小沢・オバマ会談実現がそう簡単ではないことは、当然、理解している。ではなぜ、この時期に敢えて米大統領との会談に意欲を見せたのか。
元旦には166人の国会議員と主要マスコミ幹部を東京・世田谷の自宅での新年会に招待した。政治力を誇示する小沢流パフォーマンスである。検察との全面対決がヒートアップしていた年末から年初にかけ、「数は力なり」と存在感を見せ付ける意図があったのだろう。
そしてその延長線上に、この訪米案があるのだ。今回の狙いは何なのか。誰を牽制しようというのか。引き続き、東京国税局の協力を得て小沢氏の所得税法違反(脱税)容疑を潜行捜査しているとされる東京地検特捜部を視野に入れてのことなのか。
それとも、鳩山政権発足後2回目の官邸訪問となった8日の鳩山首相との会談で表ざたになっていない何かがあるのか。「予算国会」会期中の現在、来る7月の参院選に向けての秘策でもあるのだろうか。
金丸氏は、1960年の日米安保条約改定に関する一連の騒動の際、金丸氏は混乱する国会の中、清瀬一郎衆議院議長(当時)を担いで、議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げる。なお、この際、撮影された写真が、米国のライフ誌に掲載され、後の米国との交渉の際、役に立ったと、金丸は後に自伝で記している。2010年は安保改定。タイミングが一致。イメージアップを図る意図があるのではないか。
(いま小沢氏はこの段階ではないか)
小沢氏訪米は5月のゴールデンウイークだ。鳩山首相は普天間移転を5月までに自ら決断すると述べている。
JBpressは武村正義元蔵相に単独インタビューを行い、小沢一郎民主党幹事長や鳩山由紀夫首相をめぐる「政治とカネ」の問題などについて聞いた。過去には力を合わせて細川政権を樹立した小沢氏に対し、武村氏は「きっぱり辞めた方がいい」と述べ、政界引退を「勧告」した。小沢氏が居座り続ければ、民主党内の「反小沢」議員の反乱を招き、党が分裂すると警告も発している。
自民党を飛び出し、新党さきがけを結成したかつての「盟友」である鳩山首相についても「言葉で巧みに切り抜けようとしている」と批判。米軍普天間飛行場の移設問題が期限の2010年5月までに決着しなければ、首相の進退問題は避けられないとの見解を示した。
(中略)
2009年8月の総選挙の直後、民主党の中枢の人間、今ではある大臣と話をした。「総選挙を小沢抜きで戦っていたら、どういう結果になっていたか」と尋ねた。「抜き」というのは、小沢さんが幹事長ばかりか、国会議員も辞めていたと仮定したらという意味でね。
その人は「もっと勝った」と答えた。党やマスコミは「小沢さんのお陰で勝ったんだ」と言うが、実際には自民党が転んだだけ。個々の選挙戦術や候補者の決定には小沢さんが関与したから、彼がいなければ候補者は20~30人ぐらい差し替えられていたかもしれない。せいぜいその程度であり、小沢さんの手練手管で圧勝を収めたわけではない。
(中略)
なぜ20億円ものカネが小沢さんの周りを取り囲んでいるのか。なぜ土地を何カ所も持っているのか。なぜ4億円ものカネが金庫から出たり入ったりしたのか・・・。刑事事件以前の関わりに対する疑念に全く答えていない。
(これまで政界では)「進退」の「退」、先ず辞めるという決断があり、それで全てが許されたのかもしれない。逆に残る以上は、国民が納得するまで説明しないといけない。国民の間で疑念だらけなのに辞めないという小沢さんの選択は、この時代には全然合っていない。
(幹事長だけでなく国会議員も)きっぱり辞めた方がいいと思う。「辞めると、検察がまた手を出してくる」と思っているのだろうか。(2010年2月9日取材、前田せいめい撮影)
小沢氏は、皮肉にも自ら大幅な改正に関与した「政治資金規正法」で秘書の問題で逃げようとしている。彼の歩んできた道のりは田中、金丸のモノマネばかりで、自らの政治信念がないことがかつての同士が誰も離れていくのだ。盟友であった羽田、藤井、渡部氏までがすでに離れてしまった。「裸の王様」に、「王様の耳はロバの耳」と枝野、仙谷など反小沢が説明責任を述べているが、独裁者は狂い始めるともろく、いつか身内から引きずり降ろされる。
武村正義元蔵相はまた、
総理大臣が裸になって国民にお願いしなくてはならない。しかし、今みたいに「消費税は4年間上げません」とか、カネもないのに「あれもします、これもします」というパフォーマンス政治を続けていたら、国民は信用しない。真っ正直に財政や国の行方を語れる宰相が現れてほしい。
鳩山首相には裸の王様ではなく、心を裸にしてほしいものだ。
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