宮崎正弘氏のコラム
http://miyazaki.xii.jp/column/index.html
書評その27
忘れられていた精神史、哲学のレベルが高い『国体の本義』の再発見
これほどの思想のバックボーンに日本は裏打ちされていた
で、佐藤優著 『日本国家の神髄』(産経新聞社)を取り上げ、
『正論』に連載されていたものをまとめたのが本書である。
最初、手にしたときに佐藤優氏と『国体の本義』とはイメージ的に結びつかなかった。氏は確か同志社大学でキリスト教神学を学ばれた筈なのに?
戦後GHQによって「禁書となった『国体の本義』を読み解く」と副題がついているように、昭和十二年の『国体の本義』を現代の国際情勢と、いまの日本人が分かる日本語に置き換えて解説したものである。それも佐藤氏独特の視点から。
こういう企画がなぜ生まれたのか、非常に興味がある。
政治家にも官僚にも教師にも本来の使命感が失われて、国家の行く末なんぞどうでも良いと考える時代的雰囲気となった原因が『国体観』の喪失にあるからとする筆者は、『国体』とは国民体育大会ではなく、国家の根本原理であるとし、改憲論議も、愛国心も、国体論が基本になければ机上の空論であると断言される。連載中に読んでいなかったので、新鮮な驚きがあった。
多くの日本人は、それでも初歩的な疑念を国家に抱いてきたのではないだろうか。
君が代はなせ歌われないか。なぜ学校の卒業式で我が師の恩を感謝する「仰げば尊し」が歌われないのか? いやなぜ学校にいつも国旗が掲揚されていないのか?
北朝鮮の拉致問題になぜ日本は軍隊を派遣して奪回しなかったか。生麦事件でイギリスは薩摩に軍艦を派遣した。それが外交である。
北の核武装をアメリカ頼みにするのは言語道断、竹島は軍事力で解決させるか、すくなくともその姿勢を恒にしめすのが外交。フォークランドをアルゼンチンが奪ったとき、イギリスは海軍を数千キロ彼方に送り込み、戦争をやって取り返した。それが外交である。
こうした常識を戦後日本人が失った理由は、国体の本義を理解しないからである。
だから改憲改憲を口で言っても、いざ改正案となると奇妙奇天烈なものが出てきて首を傾げざるを得なくなる。
評者(宮崎)もかねてより読売新聞などが発表した『改憲論』に疑念を持っていた。いや、ああした小手先の改憲は、むしろやらない方がいい。自民党の改憲論も、基底にあるべき民族の精神がない、技術論である。国体が明徴にならないのであれば、改憲なんぞしない方が良いとかねてから考えていたが、佐藤氏もどうやら同じ考え。というより小生よりはるかに過激にそうなのである。
本書でも次の指摘が佐藤優氏によってなされている。
「(自民の)憲法改正が途中で頓挫してしまったのも、国体論を詰めずに法技術的に憲法を改正しようとしたからだ」。
佐藤氏がほかのメディアに連載している北畠親房の『神皇正統記』を読み解く、とか、或いは毎年吉野で行っている連続講話合宿など、佐藤氏が打ち込んでいる作業の根幹が、その思想の淵源の一つが、この『国体の本義』への現代的解説だったことにようやく合点がいったのは全部を読み終えてから。
古事記、日本書紀の現代語訳や解説書は、いまでは山のようにある。しかし神皇正統記のただしい読み方も国体の本義をこう読むといったたぐいの本はなかった。最近、徳富蘇峰が再評価され、大川周明、内田良平が評価されはじめ、すると次はおそらく北一輝だろうという予測さえある。
『国体の本義』はこういう。
「ややもすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなしえなかった結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或いはその延長としての思想である。これらの思想の根底をなす世界観人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に置いて個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等を主張すると共に、他面において国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重する」
そして佐藤氏は繰り返す。
「西欧文明、西欧思想を否定し、排斥しているのではない。(『国体の本義』は)西欧思想の分析的、知的遺産を日本に土着化させようとしているのだ。その土着化によって日本の国体を強化することを意図しているのだ」と。
意味不明な「プロジェクトJAPAN」
NHKの「プロジェクトJAPAN」は、NHKが2009年(平成21年)度から3年間の中期経営計画において取り組む大型プロジェクトである。
2009年(平成21年)の日本は横浜港開港から150年、2010年は朝鮮併合から100年、日本が連合国に敗れ第二次世界大戦が終わった終戦から65年、2011年は太平洋戦争開始から70年、サンフランシスコ講和条約締結から60年が経つ節目の年にそれぞれあたる。
そこでNHKは日本の歴史を変えたこれら一連の出来事を振り返り、今後の日本のあり方を考えようとテレビジョン放送が完全にデジタル化される2011年度までの3か年中期計画期間中における大型プロジェクトとしてこの企画を立ち上げた。
『NHKスペシャル』 『スペシャルドラマ・坂の上の雲』 『ETV特集』 『戦争証言プロジェクト]』などの番組や各種イベントを展開する。
『NHKスペシャル』 は「JAPANデビュー」、ETV特集は教育テレビで「日本は世界でどう生きるのか」「日本と朝鮮半島2千年」」などを放送中である。
NHKの「プロジェクトJAPAN」に少なからず歴史に興味のある多くの視聴者が違和感・腹立たしさを憶えるのは、そのシリーズの系統の分かりづらさもさることながら、つまり芯となる、「日本の歴史を変えたこれら一連の出来事を振り返り、今後の日本のあり方を考えよう」とする大型プロジェクトでありながら、そこには客観的な事実と異なる離れた狭い視点であり、しかも日本国以外の嫌日的視点を意識しすぎて、朝鮮、中国に傾いた被害者的歴史感に基づく日本批判ともとれる、日本人として観ていて後味の悪さを与えるのだ。何も国粋主義で美化する必要はないが、歴史は客観的事実の検証でありそこに一方的な対日感情はいらない。放送の中立公正とは客観的評価だ。2600年という歴史と伝統のある日本の一部分をつまみ、一方的なややもすると正しい事実とは評価されない記録のみで粗雑な解釈は、シリーズ自体の目的が今後の日本のあり方をどうしようとしたいのかが伝わらないのだ。
それは同時にNHKの歩んだ歴史でもある。その日本の公共放送という媒体として、戦後GHQによって「禁書となった『国体の本義』を読み解く」ことを顧みずして、今後の日本のあり方を問い直すことはできないのではないか。その絶好の機会だということではないか。佐藤氏の言うとおり、国家の行く末なんぞどうでも良いと考える時代的雰囲気となった原因が『国体観』の喪失にあるからではないかと気づくのである。
NHKや朝日新聞などが抽象的で伝わらない本質は、戦後生まれが日本の政治を担うようになって、本来の使命感が失われて国家の行く末なんぞどうでも良いと考える時代的雰囲気となった原因が『国体観』の喪失にあるからとするならば、自らが日本のメディアとして戦後60年経っても、敗戦の瞬間に固執し、いまだ脱皮しようとしないからだ。その思想の淵源の一つが、この『国体の本義』、国家の行く末を現代的解説へ踏み出そうとしないことにある。
日本人は戦い終わったら、勝者も敗者も水に流すという美学を持つ国民性だ。終わったことをいつまでも論(あげつら)い非難する人間は女々しいとして嫌うのだ。いつまでも他国のせいにし続けなければ持たない国の自主性や文化を守ろうとしない中・韓の思想とは根本的に異なる不易流行の前向きな国民性である。政治家にも官僚にも教師にもメディアにも、前に進もうとするのを後ろから足を引っ張るのではなく、リードすることこそがその使命ではないだろうか。
日本国は日本人は温故知新な民族だ
松尾芭蕉が提唱した不易流行なのだ。「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神。「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するもの。相反するようにみえる流行と不易も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとする考え。
そして上述の佐藤氏のことばを繰り返したい。
「西欧文明、西欧思想を否定し、排斥しているのではない。(『国体の本義』は)西欧思想の分析的、知的遺産を日本に土着化させようとしているのだ。その土着化によって日本の国体を強化することを意図しているのだ」と。
NHKスペシャルや討論番組の最後に私はつっこむのが日課になった。
「これからの日本はどこに進んでいくのでしょうか。」
(国の心配の前におまえがな。)
反面教師。人の振り見てわが振り直せ。テレビ画面の前に鏡を置いてそのままMCを跳ね返してやりたくなる。
来年は「龍馬伝」だね。
「天地人」でのテーマは「愛」だった。しかし、兼次が兜に掲げた愛は、上杉の旗印である武神「毘沙門天」の毘と同様に愛宕神社の一文字の愛であり、愛宕神社は火伏せ(防火)の神だけではく武神であり、武神である「愛染明王」または「愛宕権現」を表したものとの理解が大勢である。人を愛する愛はキリスト教の愛であり、キリスト教を禁止されていた当時、もちろん信者ではない直江兼次が用いた愛はキリスト教の愛ではない。どっかの軟弱な友愛でもないのでドラマの迫力がおかしくなるのだ。NHKもドラマの最後で兼次ゆかりの愛宕神社を紹介し同様の説もあると説明していた。説があるのではなく愛とするNHKの方が劣勢である。
しかも、NHKラジオ放送発祥の地は愛宕山(東京都港区愛宕)。その愛宕神社は江戸時代に全国各藩に作られた愛宕神社の本社だろう。全国の愛宕山にも中継局が多い。兼次ゆかりの武神の山だ。愛をLOVEとするとはバチが当たるぞ!無礼だろう。ドラマは歴史に忠実でなければならないとは限らないがテーマ自体がウソでゆがんでいたら白けてしまう。歴女や時代SFマンガなど強いサムライが人気があるのにその波に合わないミスリードだった。時代は強いリーダーの男子を求めているのに。
歴史ドラマは事実を曲げてまで面白けりゃいいってもんじゃない。大河ドラマでいい加減が当たり前のようになれば、韓国の大河ドラマのチャングムの誓いなどNHKを真似た大河ドラマでありながら、わずかな記述以外は100%想像でストーリーを創作したものになってしまう。日本は韓国のようにことさら創作しなくても歴史人物には事欠かない。勝てば英雄で負ければ悪人とする一方的な時代劇である必要もない。明智光秀側から見れば織田信長の非道に立ち向かったとする研究もあるし、関ヶ原で西軍小早川秀秋が本当はなぜ東軍の徳川方についたかは評価が分かれる。しかし、大きく主人公の歴史的事実を曲げては意味がおかしくなる。それはSFの世界で大河ではない。朝日新聞が従軍慰安婦や強制連行を捏造し韓国がそれをネタにして複雑化した過ちを犯すようなことをメディアとしてしてはならない最低限の責任がある。
しかし、龍馬はファンが多くてくわしい人間が多い。直江兼次ならごまかせてもウソや捏造は最もやりにくいぞ。どうせやるなら「JIN-仁」のようにSFにすれば広げられるが。JINは最近のドラマでは珍しく良くできていて「じん」と感動したが、天地人は同じ「じん」でも45分もいらない天と地ほどじんが差がある退屈な展開だった。キャストがよいからもったようなものだ。脚本が篤姫にしろ女性作家のLOVE志向では大河ではないだろう。月9に任せておけばいい。
2010年、政治、官僚、教師にメディア、すべてが国家の行く末なんぞどうでも良いと考える不易な不良債権は役割を終えて、そろそろまともな国に向かおうではないか。
龍馬なら「日本を今一度洗濯いたし申し候。藩だ幕府だなんて言っている場合ではないぞな!この国は一つじゃ、ニッポンじゃきい!NHKよ朝日よ、おまんら小さいぜよ!」と笑っているだろう。自分がプロデューサーだったら、ストーリーに長州藩を朝日新聞、薩摩藩をNHKに替えて、NHK得意の強引な設定に捏造してやりたい。薩長同盟にはしない。欧米列強や中共のやり方で、新天地を略取するには自ら手を汚さずにインデアン同士にライフルを与えて部族間で戦わすことが自滅の早道なのだ。そのあと新しいメディアを建てるのが一番賢い。
なんてね(^^)。
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