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政治と非政治のあいだ

これまで自民党の再評価を考えてみました。そして、さらなる政治を考えて、『政治学入門』の「政治と非政治のあいだ」を引用してみます。

政治と非政治のあいだ

しかし、この二つは同一ではありません。民主主義は「統治者と被治者の同一性」という原理を含んでおり、自由主義は、「公と私の分離」という原理を含んでいます。自由民主主義という政治は、この容易には両立しがたい葛藤を抱え込んでいます。この葛藤は、政府をはじめとする公的領域を、すべての私人が選んだ代表者によって制御するという方法で対処されてきました。そしてこの代議政治の諸問題を解決するために、さまざまな方法が試されてきたのです。

つまり、公と私の区別という、自由主義的な政治観の再検討です。これは言い換えるなら「政治的なもの」と「非政治的なもの」の区別を再考することです。この問題こそ、現代の政治のあり方を考える際にしばしば提起される重要なテーマだといえます。

我々は、「政治的なもの」に関する再検討の必要性を確認したいと思います。

我々が政治に無関心である一つの問題点としては、戦後の日本の政党がわかりにくいことです。もともと民主主義の理念による自由党と民主党が合併し自由民主党(以下自民党)が発足しました。政治学の定義では上記のように民主主義と自由主義とは同一ではありませんが、かといって旧社会党を中心に発足した民主党や自由党が合併して今の民主党という政党も自民党に対して違いがわかりにくいものです。また政教分離に反するような政党が与党に参加していることこそ問題であるといえます。しかし、日本以外でも宗教思想と政治が全く関連がないことはないのですが、そうした個人個人の意志ではなく組織的な選挙は危険であります。政治に関心を持とうとしても、とくに国会は国民生活から乖離した議論を繰り返してあまりにも膨大な国家予算と公的な時間を浪費している以外の何物でもありません。

前出のシャットシュナイダーは、1942年にその著書『政党政治論』の中で、「近代民主政治は、政党競争の副産物なのである」と述べています。すなわち今日民主政治は国民自らが選挙において指導者也代表者なりを選べることを最大の特徴とするようになったが、そのような選挙の存在が政党を発展させたというよりは、政党の選挙を通じての権力獲得のための努力が、政党よりも古い歴史を持っている選挙に大きな意味を与えていたというのです。

公私の区別に依存する政治は、しばしば現実に存在する対立や抗争を適切な仕方で公的領域に吸い上げず、非政治的な問題として私的領域に封じ込めてしまう危険性があるといわれます。圧力団体や政党、マスコミ等を通じて、議会のような公的空間において論争化されるものだけが「政治的なもの」なのではありません。こうした政治の制度や慣行が無視し隠蔽する問題のなかに、我々が公的に対処するものが潜んでいるのかも知れないのです。公と私の区別は、固定的な基準として考えるべきではない。むしろ、その区別をすることの「政治」に配慮すべきであり、いかなる「政治」を求めているかが問われています。

自由に国境も存在せず環日本海を交易していた古代のアジア。今と比べて文明の進化といったものの以前に、古代の人々がはるかにグローバルな視野を持っていたのではないかと想像すると、この21世紀において「ナショナリズム」と「グローバリゼーション」の対峙は、一種の進歩、チャンスとすると、あまりにも議会や行政の仕組みが波についていけず、時間や財源の浪費以外の何物でもないことにわれわれは癖壁としています。
現在を特に、市民にとって必要なのは、政治に関する想像力、つまり「いまある政治のあり方」以外の「政治」を構想する力である。それは自分たちの生活世界を足掛かりとして、より善い、少なくともよりましな社会をつくろうと、努力することではないでしょうか。

公・私の政治

自由主義政治観の主要素として、公と私の区別、私的領有の優先という考え方である。これは国家権力をはじめとする公的権力を制御し、私的自由を護る思想だと考えられる。こうした区別があればこそ、資本主義的な経済活動が可能になり、近代的な生活の豊かさが可能になったといえよう。しかしこの公と私の二つの領域は、実際の複雑な生活のあり方に無理矢理人工的な区別を押しつけた結果であると考えられる。
例えば、私的な領域で人々が信じている道徳、つまり生き方の指針は、例えば国家が定める法律と関係ないのであろうか。自由主義的な解答は、法律のような規範は、まず政治的に決定され、その枠組みのなかで、各人が好きなように生きればよい、というものである。しばしばそうした公的な枠組みは道理にかなったものであるとされる。

しかし、人間の生がもつ固有の伝統を重んじる、古典的な保守主義の立場からみると、こうした考え方は、過度に合理主義的な社会論に映る。人間社会は、理性的な計画によって作られてはいない。種々の偶然の積み重なりからなる慣習が、時を経て政党制を獲得すると、そのなかで住む人々にとってそれが優れた制度となる。

近年先進諸国において、保守主義思想に顕著な変化がみられる。保守主義は、政府による合理的な計画が、社会のあり方に過剰に介入する政策に反対してきたが、この見解が経済的な自由至上主義(リバタリニズム)と結びつき、小さな政府の擁護(民営化政策)を奉じるようになった。その一方でこうした保守主義は、伝統的な価値や共同体の価値の重視、そして外交・軍事政策上は強い(大きな)政府を目指す。これは、経済の領域において公的補助を縮小しつつ、さまざまな領域、とりわけ国民生活の私的領域において、国家の管理と監視を強化する傾向と理解することができよう。

経済の公共性

このような新保守主義の流れは、部分的には経済の領域に関するそれと真逆の思想に対抗して生まれてきた。つまり社会主義への対抗である。社会主義の基本的な発想を、「人間は本質的に社会的な存在である」という言葉で規定できる。こうした思想に経済学的基礎を与えたのがマルクスである。自由主義的な見方では、政治が経済を規定しているようにみえる。だが、マルクスによれば、政治や文化といった社会の上部構造は、経済法則に支配される社会の「土台」、つまり物質の「生産力」と「生産諸関係」(社会的分業の諸形態)によって規定される。社会的不平等のような社会矛盾の解決は、政治の改革ではなく経済の改革によって可能になる。資本主義社会の経済・社会構造は、労働者階級を不可避的な仕方で非人間的な状況に追い込むと考えたマルクスは、かかる疎外状況からの解放を、共産主義革命を歴史の必然性だと主張した。こうしてマルクス主義は、労働者階級を主体とする社会の全体的な革命を提唱するイデオロギーとなった。

かかる課題をいかにして実現するかに関して、社会主義の歴史的実験は大きな失敗を経験した。つまり1980年代の終わりから始まった、東欧の社会主義国家やソ連といった社会主義体制の崩壊は、一党独裁や計画経済のような強力な国家指導の政策が、実際には機能しなかったことを表している。この点で、公と私の分離を唱える自由主義の政治に、一分の理があるように思える。だが、自由主義の政治が、社会的諸矛盾の解決という課題から目をそらすとするならば、経済的正義の実現という課題は、さらに深刻化することになるであろう。

新たな政治観を求めて

自由主義と近代的な民主主義に基づく政治は、大きくいって啓蒙主義思想をその背後にして成長してきた。つまり、人間の理性への信頼と、合理主義的な思想や制度の正当性に依拠してきたといえる。自由民主主義が賞揚する政治の要素として討議がある。さまざまな利害や立場の違いがあっても、合理的な手続きを経て話し合い(調停)すれば、道理にかなった方策に関するコンセンサス(合意)に結果として到達できるよいう希望こそ、自由民主主義の政治の中核にあるものだといえる。

しかし、現代の思想潮流において、以上のような啓蒙主義的想定に対する懐疑が強まっている。少なくとも、合理主義が提供するとされる解決に対して、その欺瞞性が指摘されることが多い。合理主義の特徴とされる普遍性や客観性という主張は、当座の権力関係の所産に過ぎない政治的なコンセンサスを、あたかも最終的な結論であるかのように表すことで、本当は解決していない種々の差異や対立を隠蔽しているかもしれない。実際、正義の名の下になされる政治・軍事的決着を、国内・国際政治のさまざまな場面でみるとき、そこに正義よりも特定の利益を、コンセンサスよりも権力を感じることが多いはずである。

もちろん啓蒙主義を総体として拒絶することを、簡単にできるわけではない。「昨日まで存続した制度は、おそらく明日において最善の制度である」、という保守主義の格言には、それなりの正当性がある。全体的な革命には「残虐さ」というコストが付きものであるが、既存の思想や制度を批判もなく正当化しない。自明性を疑うという精神は、実は啓蒙主義の精神であった。「政治的なもの」と「非政治的なもの」のあいだに我々が引いている境界線を、自明で普遍的なものだとせず、常に他の可能性を考えていくこと、そして必要であればその実践に挑戦していくことが、開明された政治的態度だといえるのであり、そうした態度もまた、啓蒙主義の遺産だといえる。

公/私の区別に依拠する政治は、しばしば現実に存在する対立や抗争を、適切な仕方で公的領域に吸い上げず、非政治的な問題として私的領域に封じ込めてしまう危険性がある。圧力団体や政党、マスコミ等を通じて、議会のような公的空間において論争化されるものだけが「政治的なもの」なのではない。こうした政治の制度や慣行が隠蔽する問題のなかに、我々が公的に対処すべきものが潜んでいるかもしれない。したがって、公/私の区別は、むしろ区別をすることの政治に我々は配慮すべきであり、この点にこそ、我々はいかなる政治を求めているかが問われる。

出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
放送大学准教授 山岡 龍一
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kojiyama

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  • 国民大行動 in 渋谷

    11月28日(土)、都内で外国人参政権に反対する2つの抗議デモが行われた。

  • 中身の変わらない政治がいつまでも、だらくさせたのは誰だ、その者たちがこの流れを運んだ・リトル香港にしようとしているのか小沢は沖縄問題をかざせに参院選を睨み勝利した時は国民の見方をするだろうか・テレビ報道もいい加減にしろ、何が囲碁だ、馬鹿やろうと言いたい、あの時ホリエモンにとられていればテレビでいい悪いははっきり言い詰めただろう。この先改革の改革がなければ困るのは国民の若者だぞ、果たして耐えられるだろうか、

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