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自民党の再評価(3)

 伊吹文明議長代理は「今の民主党政権が社会主義、国家社会主義的政党というのであれば党名を変える必要はないが、旧ソ連が崩壊し、多くの国が自由主義、市場経済を共通の社会を動かすイズムとして受け止めている。自由と民主のもとに保守かリベラルかという新しい旗を立てなければ差別化はできない」というが、自民党内にもすでに真正保守と呼ばれる層はほんの一握りといわれ、では大部分はリベラル(中道右派)かといえばそうでもない。リベラルとされる数も少数なのだ。しかし、そうしたイデオロギーが政権与党という大きな目的のために幅広く存在してきた自民党を、国民には分かりにくく党内にブレを生んできたのである。したがって、団体組織に関わらない一般個人の保守支持者までが離れていった。自民党にも民主党にもそれぞれに求めるイデオロギーとはいったい何を意味しているのかが理解しにくいのである。
 そこで、ヨーロッパの政治的イデオロギーがどういう経過をたどってきたかをざっくりと考えてみたい。

『ヨーロッパ政治史』平島健司・飯田芳弘
政治運動としての「自由主義」
 19世紀前半のヨーロッパ各国では、国ごとに多様な社会的構成を有しながらもブルジョワとよばれる経済的自律(財産)と専門的能力(教養)を有する多様な職業集団(手工業者・商人・自由業者・企業家・金融業者・官吏・知識人・職員など)をその主要な母体とし、可能な限り革命を避けつつ斬新的な改革によって政治体制の民主化をはかろうとする政治勢力が形成された。最も成功したイギリスの事例をはじめとして、19世紀半ば以降には多くの国で、直接的であれ間接的であれ政権に多大な影響を与えるまでになった、「自由主義」と呼ばれる政治潮流・政治運動にほかならない。
 自由主義の中核的な理念は、個人の自己決定の自由を守ることである。自由主義の理念は、平等な法的権利を認められ、個人の自由の確保が至上的な価値として守られるような社会を作り出すことであり、少なくとも19世紀半ばまでの自由主義は、フランス革命から継承した「市民社会」をその理想として追求したのである。
 自由主義者が「市民社会」の実現というその政治的目標を、具体的にそのような政治制度をしたのかは国ごとに多様性を示し、さらに自由主義者は状況に応じて柔軟な対応をみせた。国家の政治制度では、絶対主義体制の否定という点では一致していたものの、立憲君主制により強い共感を寄せていた。議会によって権力を統制された君主の存在は、社会的秩序の安定のために望まれる存在であったのである。
 また、君主とその政府に対して、議会がその権限を強化し、さらには執行権力を掌握すること(議会内閣制化)は自由主義者のほぼ全てが目指した目標であったことは間違いない。ただ、冗句王が妥協を擁すると判断されれば部分的な成果をもって体制への対決的姿勢を休止し、部分的成果を積み重ねることを通じて議会の強化をはかろうとすることも少なくなかった。
 「市民社会」の原理による政治社会の構成を目指した自由主義者は、その社会経済秩序に関しては、身分制や特権の否定という点を除いて、各国に共通の具体的な像を目標として持っていたわけではない。基本的には「市民社会」における平等な「市民」の理念に背くほどの大きな財産上の格差のない「中間層社会」こそが、自由主義者の理想とした社会経済的な秩序であったということができよう。農業中心の社会か、すでに工業化が進んだ社会かなど、決して自由主義は、工業の発展と工業を中心とする資本主義社会が発展することを目指すものではなかったのである。
 さらに、自由主義者が理想とした「中間層社会」は、特権を否定し身分制社会に対するものではあれ、必ずしも市場における自由な競争や自由貿易のような経済的自由主義が貫徹された社会を追究されたわけでもなかった。
自由主義の後退
 19世紀の国家は、1880年代前後の保護主義への転換や社会政策の開始によって介入主義的性格を帯びるようになり、その機能と性質を変化さえ始めた。カルテルなどを通じた市場の寡占化の動きが進み、労働界・農業界・経済界では巨大な圧力団体の形成が開始され、国家との間にさまざまな組織的連携関係が構築され始めた。そらは個人の自由を守る自由主義の理念に対する重大な挑戦となった。
 政治勢力として自由主義を支えた社会的基盤をゆるがすような政治社会の変容は、各国における選挙権の拡大という制度上の民主化が進展し、さらに社会の様々な領域における組織化が進み、組織を通じた政治活動が活発化したのである。その典型例が、運動を組織化して党派として議会に進出した政治的カトリシズム(カトリック勢力)と社会主義の台頭であった。
 このような政治的カトリシズムと社会主義勢力の議会進出によって、ヨーロッパ各国の議会には、保守勢力と自由主義の対抗というそれまでの基本的な党派対立に加えて、階級対立と宗派対立という二つの社会的亀裂が反映されるようになった。両者の自由主義に対する矛先は、19世紀に自由主義の進めた改革そのものに向けられたのである。そのため両者の対立は、イデオロギー的性格を持つようにもなった。こうして、ヨーロッパ各国の政党システムは、政党対立の構造を複雑化させ、非妥協的な対立の性格をも深め始めたのである。
社会主義政党の選挙への参加
 19世紀に大陸ヨーロッパに波及した工業化の進展、とくにその後半に工業の比重が重工業部門に移行すると、各国には大量の労働者が生まれ、労働者層は現場における労働条件の改善を求めて経営者側と対峙し交渉するために労働組合を組織していった。しかし、投資などの生産物や利潤の配分のあり方などに対して、労働組合が影響力を行使することには限界があった。民主化によって与えられた影響力行使の機械を活用するためには、議会政治における組織的な参加が必要であった。
 20世紀の初頭に各地でゼネストが失敗し、労働組合に対する抑圧的処置がとられたことが、社会主義政党の選挙への関与を本格化させる重要な契機となった。労働はの利益を増進させるためには、議会において改革的立法を成立させることが重要であるという認識が強まったのである。資本主義経済の発展とともに労働者層は拡大するから、普通選挙に基づく選挙戦はいずれ社会主義政党に多数派を与えるだろうとの期待のもとに、社会主義を目指したのである。これこそ、社会主義内における社会民主主義勢力の主張に他ならなかった。
 19世紀末から20世紀初頭に普通選挙制度が導入された国々では、社会主義政党は急速なテンポで勢力を伸長させていった。しかし、立とうとの激しい競争を経験するに及んで、労働者層が社会の多数派を占めることは難しく、権力獲得のためには労働者層以外への支持の拡大や他政党との連携が必要であるとの主張も現れ始めていた。ほぼ同時期にカトリック政党においても同様であり、二つの党派勢力は、その組織的基盤の限界を早くも認識し始めていたのである。
 革命か改革か、すなわち、革命による社会主義の実現を求める勢力と社会民主主義勢力との対立は、ロシア革命を契機として社会主義政党が分裂したことによって党内問題としては解消されたが、労働者の階級政党としての性格を維持すべきか否かというこの問題は、分裂後の社会民主党内に持ち越され、その最終的解決は、カトリック政党の党の性格をめぐる論議の決着と同様に、第二次大戦後を待たなければならなかった。

 以上長くなったが、ここまでがざっくりとヨーロッパにおける自由主義・社会主義・社会民主主義の定義である。つまり自由民主主義とは、何かである。

 『政治学入門』(阿部斎・久保文明・山岡龍一)によれば、イデオロギーは、政治的用法としては、人々の思考や信念を統合し、政治的な動員を可能にするtろいうことで、例えば政党が党員や一般大衆を動員し、何らかの政治的目標に資するようにしたい場合、政党は暗黙のうちに共有された信念を利用するだけでなく、公然と何らかの政治的理念を掲げて、その理念によって人々を統合しようとするかも知れない。こうした用法は、宗教を初めとする人々統合してきたさまざまな伝統的な価値が近代社会においては崩壊しており、そのような状況では人々を統合する信念を人為的に作り出さなければならない、という時代意識と結びついている。この場合の「統合」は、単に黄道に規則性を与えるだけでなく、認識に統一性を与えることも意味する。つまり、イデオロギーは人々にこの世界に関する特定の見方を提供することで、人々をある一定の方向へ行動するように促すものとされている。この用法に基づけば、現代政治は競合するイデオロギー間での闘争という性格をおびてくることとなり、いかにして効果的なイデオロギーを生み出すか、つまり、効果的な象徴を発見し、その効果的な表象装置と方法を作り上げるかが、政治的に重要なことになる。
 フランス革命の思想は、しばしば「自由」「平等」「友愛(博愛)」の観念によって表される。自由主義は前者の二つに、社会主義は後者二つに重点をおいているといえよう。だが、近代の政治的イデオロギーとしての社会主義の特徴は、第一にその自由主義批判に求められる。実際、社会主義が自由主義に取って代わるのが歴史の進歩なのだと考えた人々は少なくなかった。もっともこれは、社会主義こそが自由主義を完成するものだという解釈である。
 その思想的核心にあるのが、人間は本質的に社会的存在だという考えである。これは自由主義の核心である「個人主義」(とくに所有の問題)と対比するとより明確になる。たとえば、ある人が財を獲得するとき、その人自身の労働だけでなく、その労働を可能にしているさまざまな社会環境が考慮されるべきだとされる。人は種として相互依存的、協同的にしか生存できないのだから、人の身体でさえその人が占有しているとはいえない。ある個人がもつ身体的・精神的能力は、一見その人の所有物であるかのように見えるが、実は社会的な財でもあり、その開発と使用には、社会も責任を持つものだとされる。かくして人間はそれぞれが孤立したバラバラの個人ではなく、互いを支え合い援助し合う協同的存在であり、その本性の発現と完成は友愛と連帯によって促進される、と主張される。
 こうした思想そのものはフランス革命以前から存在した。たとえばプラトンであり、キリスト教をはじめとするさまざまな宗教にも、私を廃した共同体生活をするという教義が含まれていた。議会制民主主義の枠内での社会の改良を目指す社会民主主義は、いまだにヨーロッパ各国でさまざまな社会政策の基盤となっている。
現代のイデオロギー
 近代先進国の政治は、民主主義と自由主義の思想に基づいています。この両者を組み合わせたものは、しばしば「公共的な政治文化」として、現代制度の行為と制度に意味を与え、正当化し、批判を加える際の基準となっています。こうした状況が「イデオロギーの終焉」や「歴史の終わり」という標語で描かれることがあります。つまり、政治的価値や理念に関する究極的な選択はすでに終わっているというのです。こうした態度がまた一つのイデオロギーとして、人々の批判的な思考を阻害するものだということが、しばしば指摘されてきました。
 マルクス主義を中核とした社会主義が、自由主義に対抗できる政治イデオロギーとなった理由に、ロシア革命がある。そしてマルクス主義はレーニンによって革命理論や国家理論等において、より実践的なイデオロギーになっていった。しかし、社会主義体制が実現したのが、ロシアをはじめ、東欧諸国、中国、北朝鮮等といった、資本主義の遅れた国々であったことは、様々な問題を生むことになった。社会主義は自由主義よりも優れた産業社会を構築するはずであったので、そのためにこうした国々では強力な政府による社会の管理・統制が必要だとされた。その結果、一党独裁制や計画経済といった強力な国家指導がなされ、それは最悪の場合スターリンの恐怖政治を生み出した。
 国家主義や指令経済、そして暴力革命や一党独裁制といったものが、社会主義からの必然的な帰結なのか、それとも歴史的に被った連鎖なのか、まだ社会主義の可能性が完全に消費しつくしたと判断することはできないと思える。政治イデオロギーとして残った中国は、共産主義に市場原理を導入する市場共産主義をおこなっている。議会制民主主義の枠内で社会の改良を目指す社会民主主義は、いまだヨーロッパ各国でさまざまな社会政策の基盤となっている。少なくとも社会批判の道具として、社会主義の伝統は継続しており、その政治的イデオロギーとしての可能性も消え去ってはいない。
保守主義
  社会主義と自由主義が啓蒙主義の後継者だとすれば、保守主義はその批判者だといえる。あえていえば、社会主義に対してその社会工学的な合理主義に、自由主義に対してその抽象的な個人主義に、保守主義はとくにその批判の目を向けているといえよう。歴史的に言えば、旧体制の破壊がフランス革命の精神であったが、その急進主義と対決するところに、保守主義の精神が表されていた。このように保守主義の敵を明白にするのは容易だが、保守主義に積極的定義を与えることは難しい。
 未知なるものや変化への不信と、慣れ親しんだものへの愛着よいう、「保守すること」の気質は、人間精神に広くみつけることができる。「保守する」という態度を教義の中心にもつイデオロギーの内容はさまざまであるが、だが歴史上保守主義が支持してきた教義には、ある程度の連続性がある。その中核として、人間の完成可能性に対する不信、および合理的計画に対する懐疑という考えが挙げられよう。しかしイデオロギーとしての保守主義がそのアイデンティティを決定的なかたちで形成したのは、フランス革命とそれに続く恐怖政治に対する批判によってであった。
 自らのイデオロギーを批判的な反省の下におくためにも、伝統的にそして現代においても民主主義から自由主義が起こり、それに対抗して社会主義や社会と経済に関する科学的説明を与えるマルクス主義が生まれ、また、それらの啓蒙主義の批判者として保守主義の精神が生まれました。したがって、保守主義の敵を明白にするのは容易ですが、保守主義に定義を与えることは難しい。未知なるものや変化への不信と、慣れ親しんだものへの愛着という、「保守すること」の気質は、人間精神に広く見つけることができる。マンハイムは「伝統主義」と呼んでいた。伝統主義は保守主義の構成要素だといえるが、それだけでは不十分である。たとえばソ連崩壊後のロシアにおいて共産主義政策を支持するものは「保守派」と呼べるが、歴史的に反社会主義を唱えてきた「保守主義」の通常の意味と矛盾する。
 しかし、保守主義は必ずしもこうした反動と結びつくものではない。むしろ保守主義は、現状の肯定という一種の現実主義を発揮することで、時代との妥協を図り、実践的な教義として発展してきた。英国の政治家、エドマンド・バーグは、『フランス革命の省察』で、革命原理の暴力性に警告を発した。彼が嫌悪したのは社会を抽象的な個人の権利の保護手段とみる原子論的な人間観と、社会契約説的政治観であり、そのかわりに社会はさまざまな具体的な人間が織りなす有機体だと見なしていた。国家は論理的な共同体であり、イギリスではそれはキリスト教と結びついているとした。社会の変化は人間理性の計画によってもたらされるべきでなく、歴史上の試行錯誤を経た経験的思慮の宝庫である伝統を足がかりに、斬新的に進められるべきだとされた。彼は宗教を「偉大な偏見」として擁護したが、偏見や伝統というのは、社会的で歴史的な存在であるわれわれを、過去と未来に結びつける実践的な智慧の基礎なのだと彼は考えていた。バークはイギリス憲政を混合政体として理解し、統合の中心に代議制を据えたが、代議制を、それが民主的であるからではなく、優れた政治を可能にするが故に推奨していた。つまりそれは、富と賢慮を持ち、人民を、その利害を考慮しつつ指導する能力をもつ「自然的貴族」の政治だとされたのである。彼は世襲貴族階級からこのような人々が生まれやすいと考えたが、それは政治指導者の基盤として私有財産政(とくに土地所有)を擁護したからである。つまり財産は余暇を生み、余暇が優秀な人材の陶冶を可能にすると考えていた。
 こうしたバーク的保守主義は、民主化と産業化の進むなかで、さまざまな修正を被った。大衆民主主義の到来にも、大胆に適合していった。しかし、1980年代に保守主義は大きな変容を被った。レーガン・サッチャー政権の政策は、しばしば「ニュー・ライト」と呼ばれるが、リバタリアニズム(自由至上主義)と結びついた保守主義であった。福祉国家の計画経済は、国家財政を圧迫し、公正な市場活動を阻害する上に、国民を国家サービスの受動的な享受者とすることで、その精神に依存体質を植え付けてしまい、その結果国家が弱体化してしまったと主張された。国家が国民の奉仕者となることで、国家の自主性が低下した。したがって民営化、規制緩和、減税といった政策によって市場に活力を与え、国家の経済政策を金融政策に絞り、その一方で対外・軍事政策において強力な国家を固持すべきだという立場を、ニュー・ライトの保守主義はとっている。これは国内外の社会主義的イデオロギーへの敵対をかなり露骨に表したものであった。また、小さな安価な政府を唱えると同時に、軍事的に強力な国家を作るという矛盾、個人主義的な論理を加速させる市場原理を賞揚しながら、家族や共同体といった伝統的・集団的価値を推奨するという矛盾等が簡単に指摘できるであろう。そして、社会主義的なイデオロギーや体制の衰退は、対抗する敵によってアイデンティティを形成するニュー・ライトに存在意義の困難さをもたらした。少なくともニュー・ライトは最終形態ではないことは確かである。
現代のラディカリズム
 自由主義や社会主義は、国家のような巨大な政治共同体を統合するイデオロギーである。こうしたものはしばしば「全体イデオロギー」と呼ばれ、いわば体制を形成し維持する機能をもつとされる。これとは別に、体制を批判し、堀崩そうとする機能をもつイデオロギーがある。
 現代において支配的なイデオロギーに挑戦するラディカルなイデオロギーとして、フェミニズム、エコロジズム、原理主義、などが挙げられる。

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