正論 産経新聞 都留文科大学新保教授が面白い。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/273478/
夏目漱石が『三四郎』(明治41年)の中で、「凡(すべ)ての物が破壊されつつある様に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える。大変な動き方である」、森鴎外も『普請中』(明治43年)の中で 「日本はまだそんなに進んでゐないからなあ。日本はまだ普請中だ」と書いている。
森鴎外も漱石のこの100年前に書かれた二つの文章は、日本の近代文明の根本的欠陥を指摘しているのである。
内村鑑三は、大正13年の日記に、宗教、政治、外交、教育、実業とかの種々の問題も、詮ずる所、今日の日本人全体に永遠性が欠乏していることが問題なのだと書いている。
「河野談話」や「村山談話」といったものも、内容が問題なのはいうまでもないが、そもそも「談話」という「当用」のものにすぎない。現行憲法という「当用憲法」が、日本人の精神を呪縛(じゅばく)しているように、「談話」ごときものが「公式見解」のようなものになってしまうという日本の悲喜劇は、根本的には日本が明治以来今日に至るまでいつも「普請中」にあることに原因がある。特に戦後は、その傾向がひどく、日本という国自体が、「当用」国家になりつつあるような気がする。
政治家は、国家百年の計を考えなければならない、とよくいわれるが、この100年を本当に考えるためには、その背景に永遠性が必要なのである。
そうでなければ、この100年とは1年が100回重なったものにすぎず、1年が「暫定」であると同じく、100年の計も所詮(しょせん)、「暫定」なものになってしまう。
今度の総選挙で、自民党、民主党、いずれが政権を担当することになるとしても、世論調査などという瞬間のものにふりまわされず、日本の長い歴史と日本人の精神の永遠性に基づいた国家造りにとり組まなくてはならない。
今日の日本に生存している人間だけの人気とりに終始し、現在の価値観から過去の真実を歪(ゆが)め、歴史と将来の観点を忘れるならば、そのような国家と国民は、永遠性からの厳しい鉄槌(てっつい)をいずれ受けることになるであろう。
昨夜の報道ステーションで、水産業について特集で報じていました。アジアで水道事業においてフランス、イギリスが水道トータルシステムとして独占しているという事実を伝えていた。日本はTORAY、旭化成など濾過技術など先端技術は世界トップ水準に立つものの、そうしたトータルな水道システムを売りにする企業が少ないいう事実はその現れだろう。
年度末になれば、こないだ掘っていた下水道工事が終わったかと思うと、またガス工事で掘り起こしているというようななんとも奇妙で無駄な実態がくりかえされるのが日本。
日本列島は、海という自然の国境にぽっかり浮かんだ侵略されない楽園のような国にあるせいか、 どんどん吸収しては使い易いように改善する能力は世界でも稀な民族性を備えている。着物、建築、仏像、和紙、すべてを受け入れる八百万の神道、仏教さえ神の現れた姿にたとえてしまうのだ。
「暫定」的なもの、当面の課題には取り組むが日本人全体に永遠性が欠乏しているのは今に始まったことではなさそうである。
東西冷戦終結により、戦後の右翼左翼というイデオロギーというものの政党の違いは、完全に存在意義が失せてしまった。暫定的な憲法を守るための政党なんてそれ自体が意味のない暫定的な概念そのものなのだ。
百年に一度の危機は、暫定的な政策は必要だが、自民党HPにあるようにあくまでも解決するものではない。永遠性、百年の計をたてることである。それはシンプルなことなのである。
世論調査で無党派が圧倒的に多いのはどの政党にも期待していない国民の意思を表しているのだ。
新保教授のことばを繰り返しますが、
今度の総選挙で、自民党、民主党、いずれが政権を担当することになるとしても、世論調査などという瞬間のものにふりまわされず、
日本の長い歴史と日本人の精神の永遠性に基づいた国家造りにとり組まなくてはならないのである。
世界的に政党のイデオロギーは意味を失いつつある。未来を変えようとしている身近なところから政治を実行している個人を選ぼう。そこに20世紀に終止符をうち、世界に誇れる21世紀の日本に向かえるのでなないでしょうか。危機感を抱く下級武士たちが奮起したように、日本を洗濯できるのは既成概念に呪縛された職業的政治家や官僚たちの内側ではないことは明治維新が証明しているようだ。