市場の地名

「市場」について考察

ここで、別に東構区の西にある久斗区の小字名、「市場」に触れておきたい。気多郡の中心部を東西につなぐ西の下街道をはさんで宵田城の北構と南構が構築され、その街道上に市場があった。

既出の宿南保氏『但馬の中世』の「市場村と諸街道」に、『兵庫県小字名集』但馬編にある中世に成立した但馬の市場のなかで、豊岡市日高町の市場は、道場、久斗の2カ所が記されている。南北朝期の山城跡で、垣屋氏の居城楽々前(ささのくま)城が遺存している道場の小字に市場があった。室町後期、垣屋氏は明徳の乱以後、垣屋隆国の孫三人に別れ、楽々前城、宵田城、轟城を受け持った。山名家の筆頭家老の座につき、久斗の字市場は、祢布との境の村の入口部で、「構」の要害に接する位置である。おそらく南北朝から室町期に宵田城築城により、道場から久斗へ移ったのだろう。

以下、『但馬の中世』p251 宿南保氏

室町期に創築ともられる山城のところでも、城主居館地に接して市場字名地が残っている例のあることはわかっているのであるが、だいたいのところは、小字名として残っている市場のところは、南北朝期に始まった市場の地とみてよいのではなかろうか。

集落名となっている市場は室町期成立

これに対し室町期になると、一集落名全体が市場となったことを表す集落名が現れてくる。一日市とか出合市場(いずれも豊岡市)などである。それは市場維持の要因が、地方権力の保護よりは、農民流通の便利な場所に重点が移ったことによると考えられる。したがって、その出現地は地域の中心地で、自然発生的な姿である。同時に、南北朝期の市場のなかには廃れるものも現れてくるはず。

宵田城址は正しくは岩中地番であり、現在、岩中区が城山公園の管理をされている。円山川沿いの旧国道312号線が宵田区で、なぜ岩中なのに宵田城なのかと思う。垣屋氏の殿屋敷(居館)が宵田にあったのだろう。山名氏の趨勢が衰えて但馬守護代の筆頭となった垣屋氏は、木崎城(豊岡城)代となり、屋敷を置いたことから豊岡市の豊岡城東に宵田町という地名や出石町にも宵田町が残っている。垣屋氏は宵田殿と呼ばれていたと考えられる。

集落名としては但馬では旧朝来郡伊由市場、加都市場、糸井市場、旧養父郡の養父市場、大屋市場、旧出石郡の出合市場、久畑市場、城崎郡の九日市、一日市、穴見市場、美含郡の市場(現豊岡市竹野町森本・坊岡、七日市、一日市(現美方郡香美町)、旧美方郡の菟束市場(現香美町村岡区福岡)、二日市(新温泉町、旧浜坂町)


兵庫県豊岡市日高町府中新

 


兵庫県豊岡市日高町府市場

(上)豊岡市日高町府中新・(下)府市場

気多郡には府市場が今でも残っているが、これはもっと古く、国府があったことによるとみられている。しかし、太田文には国府(こふの・こうの)市場・手辺とされるところで、府中とも称されていた。府市場となったのはまだ新しい。

気多郡道場・久斗の市場

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください