【新説丹後史】 神殿と神政王権の出現

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲

※中島の原文は「神聖王権」だが、拙者は太古の政治は神を崇めるマツリゴトから発生し政治の中心を占めていたことから、関裕二氏が使用している「神政王権」に統一する。

邪馬台国が九州説と大和説が二分している。拙者はひとまずそのテーマには距離を置いている。というのも邪馬台国が天皇を大王とするヤマト王権に移行した可能性は低いと思っている。(私は無関係だと思うので、九州だろうが大和だろうが、九州北部、出雲、吉備、ヤマト、丹後、北陸、尾張などが乱立していたころの西日本の一神政王権であるなら、そんなにその後の日本にとっては大した関心事ではない)

逆に近年めざましい発掘調査による事実を集めることで、弥生時代から古墳時代までの列島の様子をさぐることが、むしろ邪馬台国の所在地をしぼることができるのではないだろうか。最初から九州だ、大和だという視点では列島全体が見えなくなりそうだから。

ということで、中島一憲氏は、兵庫県出身、元豊中市役所勤務、退職後歴史研究に専念されているプロアマ歴史家だそうだから、専門分野に囚われないユニークな面白い視点があります。

神殿と神政王権の出現

九州北部で青銅器の交易権をめぐる争いが始まっていたころ、近畿地方にいち早く強大な神聖王権が出現している。

大阪平野西部、東六甲山系から大阪湾に注ぐ武庫川に近い兵庫県尼崎市武庫庄遺跡で、弥生中期前半の大規模高床建物群が見つかったのである。考古学上ではこれまで知名度が低かった地域であるが、肥沃な沖積平野を後背地として、大阪湾から瀬戸内ルートを通じて海洋交易で栄えた港市国家の存在を予想させる絶好の立地条件を備えていることをまず指摘しなければならない。

朝鮮半島や大陸との距離を別とすれば、近畿地方は気候が温暖で広大な平野部や盆地に恵まれ、大阪湾や琵琶湖、淀川といった水運にも至便であり、文化の発展にとってことさら九州に引けをとるという条件にはない。むしろ瀬戸内に強大な対抗勢力が出現しない限り、近畿は後背地のお陰で九州地方より、いっそう豊かな土地柄であった。

この建物は間口は8.6mもあり、奥行きは調査区の外に広がっているためわからないが、柱穴は東側で三本、西側で五本が柱間2.4mの等間隔で整列しており、中に直径50cm、長さ50cm~1mのヒノキの柱根が残っていた。柱の太さは弥生中期後半の池上曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市)の神殿のもの(70cm)より細いが、吉野ヶ里遺跡の弥生後期の高床建物に匹敵し、間口は池上曽根遺跡の7mを大きく上回っているので、弥生時代最大級の高床式建築があるとされた。

さらにこの建物の8mほど外側を、五本の柱が見つかった西側の奥行きに平行して長さ35m、幅30cm、深さ15cmで一直線に延びる溝状遺構が見つかったが、これも建物を取り囲む板塀の跡と考えられた。

この建物の周囲には別の小規模な掘立柱建物三棟と円形竪穴住居跡があり、この遺跡を中心とする一帯が武庫川流域の地域国家の王都であった可能性が想定されたのである。

近畿地方ではこれより先に、池上曽根遺跡で1995年に発掘された大型高床式掘立建物が、正面を南に向けて東西方向に等間隔の柱で整然と建てられた長方形の建物で、両端に棟持柱をもつ神明造りの神殿であることがわかり、これも当初は紀元後50年代とされていたが、年輪年代測定の結果、実年代はそれより百年古い紀元前50年代であることが判明した。

北西九州の戦略的地位

九州地方ではまだ紀元前二世紀代の大型掘立柱建物は出土していない。しかしこの地方ではこの時代、甕棺葬がさかんに行われ、青銅器を大量に副葬するという習慣があったため、それによってこの地方のこの時代の政治的・文化的状況を推定することができる。

古代の日本列島における金属器の製造と使用の実態を追いかけてみると、いくつかの興味ある事柄が浮かび上がってくる。

まず第一に、縄文後期までは金属器は東北地方の港市国家が大陸から直接に移入していたらしいが、縄文晩期から弥生時代にかけては九州地方の港市国家が輸入の元締めとなったらしいことである。このことはこの頃から大陸交易の拠点として九州地方、とくに玄界灘から博多湾沿岸部にかけての戦略的地位が列島以外とともに重要視されるようになったことを意味しているのではないか。

第二に、縄文晩期以降の金属器では吉武遺跡や今川遺跡の例のように鉄鏃、銅剣などを金属製武器を好んで移入していることである。

第三に、曲がり遺跡や斎藤山貝塚のように鉄斧という形状の鉄素材を移入していることである。このことは有明町の製鉄炉遺跡や今川遺跡のリサイクル技術、吉野ヶ里遺跡や鶏冠井遺跡の青銅器鋳型、扇谷遺跡の精錬製鉄技術などから考えて、すでに鍛造や鋳造の高度な金属製造・加工技術をもち、武器はもちろん農具や工具など生産用具としても祭祀具としても金属器を活用していたことを意味しないだろうか。

第四に、今川遺跡出土の銅製品については、その起源が遼寧地方に求められるとされていることである。

列島の弥生前期・中期前半といえばおよそ紀元前300~100年にかけてのことである。大陸では戦国時代(紀元前403~221年)の前半にかけての時代にあたる。とくに戦国時代後半の紀元前三世紀中ごろは「戦国の七雄」の一つに数えられた強国に「燕(エン)」があり、そのころの 国は今日の遼寧省地方を根拠地に、南は山東省から東は遼東半島にかけて勢力を築いていた。

そうすると今川遺跡の銅製品の出土は玄界灘沿岸部の港市国家と燕国との交渉を想定させないだろうか。いわゆる「魏志倭人伝」の冒頭には、かつて朝鮮半島におかれた魏の直轄領である帯方郡(郡治は現在のソウル付近とされる)から倭国へいたる行程が述べられている。半島南部の弁韓(狗耶韓国)から対馬、壱岐を経由して九州北西部に達するという航路の記録である。

三世紀当時の倭国から大陸への交易ルートは、この逆の行程をたどったと考えるのが自然だろう。

しかし、旧石器時代の1万3千年前、原倭人はすでに伊豆諸島の黒曜石を関東地方などに海上輸送している。
縄文早・前期(1万年~5千年前)の前倭人(原倭人に次いで古い祖先)は、島根県の隠岐諸島の黒曜石を、50km無寄港で山陰地方へ海上輸送している。
また、伊豆諸島南端の下田から伊豆七島南端の八丈島までは直線距離で190km離れており、御蔵島と八丈島の間には黒潮本流が時速7ノット(約13km)の急流となって流れているが、当時の前倭人はこの航路を乗りこなして交易している。

この「八丈島航路」の距離は、博多-釜山間とほぼ同じで、ともに島づたいながらも急流を横切るところは「対馬海峡ルート」に等しい。

そして縄文後期(4千年~3千年前)には福岡県宗像郡玄海町の土器と佐賀県伊万里市の腰岳産の黒曜石が「対馬海峡ルート」で、釜山市の外港がある影島に運ばれている。

倭人(現代日本人の大多数の祖先)は、このようにして前倭人の時代から航海技術を駆使して大陸文化と交流してきた。

その交易先は古くはロシア共和国の沿海州地方であったが、やがて古代の大陸文化が中国大陸の長江(揚子江)下流域の「江南地方」で栄えるようになる7千年前ころには、「対馬海峡ルート」の先に「江南航路」が開拓され、大陸の南方系文化が列島に移入されるようになる。

この「江南航路」による大陸交易は、縄文時代全期を通じておもに東北地方から日本海沿岸にかけての港市的な集落によって担われたことが、考古学的な遺跡や遺物から推定できる。

これらの港市的集落が交易を通じて富を集積する社会経済システムを発展させ、やがて縄文中期(5千年前)以降、いくつかの拠点集落を核として通商交易権を独占的に支配する港市国家が登場するようになるのだ。

ところで縄文後期(4千年前)になると、その港市国家は九州地方にも出現し始めたと考えられる。さきほどみたように、まず玄界灘に面した福岡県宗像郡玄海町の港市王が直接、釜山と交易している。

縄文晩期の2千5百年前には、同県糸島郡二丈町曲がり田遺跡で大陸製の「板状鉄斧」が出土しているが、二丈町は糸島半島の南の付け根、唐津湾に面した「伊都国」地域の海港で、「対馬海峡ルート」を制するに適した港市国家の候補地のひとつに考えられる。

列島最古の製鉄炉跡が見つかった長崎県有明町も、当時は島原半島の有明海に面する海港でこのルートとの連絡が容易である。

同時代のことであるので、二丈が「国際貿易港」で、有明町が「工業都市」といった関係にあったかもしれないが、それを証明する史料はない。

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