たじまる 古墳-8

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古代国家の成立

概 要

6世紀前期に、近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)が現れヤマト王統を統一しました。男大迹(オホド)王の治世には北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携してヤマト王権との軍事衝突を起こした(磐井の乱)がすぐに鎮圧された。しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への進出活動が急速に衰えることとなりました。またオホド王の登場以降、東北から南九州に及ぶ地域の統合が急速に進み、政治的な統一がなされたとする見解があります。

1.古代国家の成立

雄略天皇が死んで以来、継体の即位を経てもなお、列島全体は動揺していましたが、その動揺は六世紀後半に、蘇我氏の勢力を背景にした欽明の即位によって、ひとまず収束しました。欽明大王と蘇我稲目の下に結集したヤマト王権の支配者層は、国内における対朝鮮関係の破綻という「非常時」のなかで結集し、新たな段階の権力集中を行います。

2.大漢国

継体天皇の時代は、北陸王権とヤマト王権が融合した時代であると捉えることができます。『梁書』東夷伝には北陸王権の領域を示す大漢国のことが記されています。

その頃、山陰地方は「文身国」により統治され、南部の山陽地方は「吉備国」により統治されていました。文身国の中心王都は出雲です。その出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に「大漢国」の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。ツヌガアラシトを祀る北陸一の気比神宮のある敦賀は、律令制では越前国ですが、他の越前地域と交通遮断されていること、江戸時代に若狭藩(小浜藩)領であったことから福井県内の地域区分で言う嶺南と一致する。敦賀以北の越前よりも風俗が若狭あるいは近江に近いことが理由とされています。

大漢国の国域は但馬・丹後地方から越後地方にかけての日本海沿岸の大国でした。この頃、丹後地方はヤマト王権の勢力下にありました。継体天皇の出自を辿ると垂仁天皇や応神天皇に至るとされています。これはヤマト王権が近隣の王権と婚姻関係を結んだ結果でもあります。

3.古代日本史上最大の謎 継体天皇

継体天皇は、オホド王と呼ばれていますが、別名として『古事記』に袁本杼命(おおどのみこと)、『日本書紀』に男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)と記しています。継体天皇は、古代日本史上最大の謎といってもいいくらいで、なぜ応神天皇の五世の孫という、皇族としてはぎりぎりの人物が即位できたのかということです。都から遠い北陸の地方貴族です。それに継体の方から望んで王位に就いたわけではないのです。ヤマト側が、ぜひにと頭を下げたのです。ただし、『日本書紀』の言い分は、先帝武烈天皇に子がなかったため、やむを得ない処置だったとしています。

誉田天皇(ほむだのすめらみこと・応神天皇)の五世の孫で、彦主人王の子で、彦主人王が近江国高島郡三尾(滋賀県安曇川町)の振媛の美貌の噂を聞きつけ、使いを遣わし、越前国三国の坂中居に迎え入れて妃にしました。そして継体が生まれましたが、父はすぐになくなってしまいます。振媛は嘆き悲しみ、「こうして故郷から遠く離れて暮らしている。どうして父母に孝養を尽くすことができようか。高向(福井県丸岡町)に帰り、この子をお育てしようと思う」

天皇はこうして高向の地ですくすくと育ち、成人しました。人をこよなく愛し、賢者を敬い、寛容な心を持っていたといいます。
なぜ、継体天皇が大和に連れて行かれることになったのか。『日本書紀』は説明が続きます。

継体五十七歳、もうすでに初老といっていい。平均寿命が今よりも短かったであろうこの時代ならば、もはや正真正銘の老人といってもいいくらいではないでしょうか。この時、ヤマトでは武烈天皇が崩御されていました。武烈には子どもがなかったから、武烈の王統は絶たれてしまったのです。

「継体王をおいて他には、相応しい方はいらっしゃらないでしょう」と同意しました。そこで、正式な使いを三国に差し向けてみました。すると継体は胡床にどかりと座り、陪審を侍らせ、その落ち着いた様は、まるですでに「帝」の様であったといいます。
遣わされた使者は、その様子にいよいよかしこまり、心から忠誠を誓いたいと願いました。しかし、継体は疑いの念を抱き、なかなか首を縦に振りませんでした。

河内馬飼首荒籠(馬の飼育に従事していた一族)が密かに継体に使者を出し、ヤマト朝廷の申し出が本気であることを伝えました。こうして、使者が現れて三夜にして、ようやく継体は腰を上げたのでした。
継体という意味ですが、もちろん後世になって付けられた名前です。

「国体」とは、古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味しています。「神の御子孫たる皇孫が、天地が果てることの無きが如く、統べ治め給う。」という、わが国固有の御神勅に基づく国のあり方を中心的観念としています。明治になって制定された大日本帝国憲法は、主に伊藤博文が海外視察によって影響を受けたドイツ諸邦の憲法を参照して構成されたものです。「国制」即ち、国を治める形、国家意思決定過程の定めを意味する“http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.giferfassung”の語を、当初「国憲」と訳してたことからも明らかなように、自然国家としての連続性を意味する国体の表出が、不文成文の憲法であるという相関関係にあるそうです。
継体という言葉から、国の存亡の危機を遠い血筋から王位に就いたことで、国体を継いだ(救った)天皇という意味であるといえないでしょうか。

4.なぜ継体天皇が求められたのか

『日本書紀』に対し、『古事記』は、第二十四代仁賢天皇から三十三代推古天皇までは天皇の系譜を記しているだけなので、継体についても、「武烈天皇の崩御後、皇位を継承する者がいなかった。そこで品太天皇の五世の孫、近江国から上っていただき、手白髪命(たしらがのみこと・手白香皇女)を娶らせ、天下をお授け申し上げた」、といたって簡潔に記しています。

記紀の違いは、継体天皇の出身地の差にあります。『日本書紀』は北陸といい、『古事記』は、近江としています。大漢国は但馬から北陸、近江にかけての国だったので、北陸、近江が継体のテリトリーであったことは間違いないでしょう。水野祐氏は、「三王朝交替説」を唱えました。水野氏は、記紀の天皇が亡くなられた干支、諡号などにより、万世一系の天皇家というものは幻想に他ならないとし、大化改新以前に、少なくとも三つの王家が入れ替わっていると推理しました。しかもその王家それぞれに、血縁関係はなかったというのです。

その節を受けて、直木孝次郎氏は、三~四世紀、大和盆地にヤマト政権が樹立されたが、これは「王朝」や「朝廷」と呼ぶにふさわしいものではなく、これを「先応神朝」と名づけました。その後難波に応神天皇が都をつくった時点で、ようやく王朝が誕生した、とする考えです。
崇神天皇と垂仁天皇には「イリ」の名があります。景行天皇や仲哀天皇からつづく王の名には、「オオタラシ」のように「タラシ」の名が、さらに応神天皇からつづく王の名には、「ホムダワケ」のように、「ワケ」の名が付いています。

つまり、応神天皇は、「タラシ」の王家の次の「ワケ」の王家に他ならない、といいます。応神が新王朝の始祖にふさわしいのは、継体同様、誕生そのものに謎があり、仲哀天皇の子どもかどうか、あるいは神の子どもであるのか、判然としないことも理由の一つとなっています。これは、応神天皇の周囲に神秘的な話が隠されていることです。こうした神秘性、神話的な伝承を持つ人物こそ始祖王にふさわしい、とするのです。

応神の子の仁徳天皇は「聖天子」であったと記紀は伝えています。即位後「国見」をしてみると、家々から立ち上る煙が少ない様子を見て、国は貧しいのだと実感し、三年間課役を免除したといいます。この善政に感謝し、民衆が「聖帝」と称賛していたといいます。したがって、仁徳天皇も始祖王の資格があるとする直木氏は、応神と仁徳は、実際には同一人物なのではないかします。応神も仁徳も「名前を交換した」という記述が『日本書紀』にあって、それは親子ともども名を交換したということではなく、天皇家の系譜を長く見せかけるために、同一人物を二人に分けたために似たような話が続いたのだ、としています。

直木氏は、水野氏の指摘を継承し、『日本書紀』のいうヤマト朝廷の初代の天皇・神武の伝説は、継体天皇をモデルにして製作されたものと推理しました。

神武は地方(九州)出身であり、継体もまた同様であり、どちらも何度かの遷都を繰り返したのちにヤマトに入ることができましたし、双方とも、崩御ののち、後継者争いが勃発している、などの共通点が存在すると指摘したのです。さらに継体天皇は皇族ではなく、越前や近江周辺の地方豪族にほかならないとして、応神天皇五世の孫というのは「自称」にすぎなかったとします。そして武烈天皇崩御の後にヤマトの混乱につけ込み、河内・山城に進出し、在地勢力とつながり、また、大伴氏らと手を組み、結果、二十年近くにわたるヤマトの動乱期を統一し、新王朝を創始した英雄に他ならない、とするのです。

井上光貞氏も同じような考えで、『日本書紀』の記述のうち、信頼できる記事は五世紀の応神天皇以降のものとし、応神を新王朝の始祖と捉えたのです。応神天皇は『日本書紀』にあるような仲哀天皇と神功皇后の間の子などではなく、九州からヤマト入りし、ヤマトの前王朝に入り婿する形で新王朝を樹立したとすりのです。また、応神から継体に続く系譜が『日本書紀』のなかで欠如していることも、応神と継体の本当の間柄を暗示している、というのです。

-出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信

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