筑紫紀行 巻九より 5 城崎郡へ

豊岡までは川浅く水はやし。折々舟すわりて動かぬ事あれば。船頭川に立ち入て下へ豊岡。(納屋なや村より是まで一里半)京極甲斐守殿(一万石)の御城下なり。
川舟のみなとなり。出待ちという一箇所に橋あり。ここに茶屋多し。町は通筋二十丁余りもあり。海舟も北海より乗り入れる。出町まで来るも暫く泊まって宿、船宿数多く有りて、湯島へ川舟を出す。

これより陸地を行けば、浜辺または河岸と進みし行くは岩石の難路なるよし事はならば舟に乗りて行く。右の方に愛宕山。宮島村、野上のじょう村。石山などを追い続いてあり。この石山の川岸に臨む一箇所にめずらしき石あり(玄武洞のこと)。奇形の磨磐ひきうすの如く上下平にして周りは三角四角五角八角などありて、石工の切立きりだてし如く、色は青黒し。それを掘り取り跡は洞のごとくになりたるなり。戸島村、楽々浦、左の方には一日ひといち村、二見浦。上山村、日磯ひのそ村、来日くるい村、観音浦、今津村、この村の出口に茶屋あり。樓造ろうつくりの家ありて下には川に臨みてうけ造りすもの涼の床あり。舟中より見るにも、甚だ有り致なり。湯治人遊賞の所なりといえども、かくて二丁ばかりゆけば、城崎郡湯ノ島(豊岡よりここまで三里)

御公領ゆえ久美浜の御代官所に属せり。おいてここは一筋の町にて。町の中に細き溝川あり(大谿川)。上の町、中の町、下の町、合わせて人家二百五、六十軒。宿屋大小合わせて十軒あり。下の町井筒屋六郎兵衛を大家と聞きて尋ね入り、滞留の宿を定む。家の入口より奥まで、樓上ろうじょう樓下合わせてざしきの数三十に余り。さて一室に入り休み居うに。暑気なりして冷然しせり。土地北海に近く、その上山谷の間なればなり。

十一日巳の刻過ぎより曇天になりて、未の刻過ぎより雨ふりいでぬ。ここに諸国より湯治のために来たれる人多けなれど。辺国僻地なれば、遊覧のためにうこつけ来るはまれなり。実病の人のみ多いければ、自らしめようにして華々しき遊び業もあれば、有馬などには様の事なり。湯治人旅宿旅籠の商い一日ニもんめなり。朝と未の刻頃に茶漬けを出し、昼と夕方に本膳を出す。また、座敷を借用の事にて、食べ物を自調したるもあり。室代一泊三匁に候。米・味噌・薪その他の諸物みな宿に出入りする商人通いにて入るなり。また炊き出しと称するあり。それは米を自ら運んで宿に付して日に二回炊き出しする。さすれば宿より一汁一菜と合わせて出す。かくて一回の代金一匁五厘。座敷代に合わせて四文五厘なり。

温泉に浴する事。入り込み湯には湯銭なし。幕湯の商いは一回六文なり。一日に三度つく湯女ゆなに事をしめす。別に切幕というあり。一室限りに浴するなり。一日に二度なり。一回の商い金一歩なり。湯治人初めて宿に着く時、祝儀を贈る事定めなり。この度は主の妻に百匹贈る。下女四人、僕ニ人に百匹、湯女三人に六匁。湯支配菊屋元七に銀一両贈り奥へ。

温泉はすべて五ヶ所。一には新湯、下の町の入口にあり。清潔にして甚だ熱し。一の湯二の湯と二つに隔たりなれど同じ泉なり。効能は気血を運び、胎毒・瘡毒を追い出し、創傷(切傷)など一旦うみてのち癒やすなり。

二つには中の湯ありき。匂いあり。甚だぬるし。腫れ物・切傷の類い、癒やすこと早き。故に癒え湯という。されども毒気を追い込むゆえに程もなく再発するとぞ。

三つには常湯つねゆ。四つには御所湯。五つには曼陀羅湯。この三つ大形あり。湯に同じ。曼陀羅湯はここの温泉の始めなりといえども。ほかに殿の湯は平人が入る。非人湯は非人のみ浴なり。

この地の名物として売り物は、麦わら細工、柳行李、湯の花、海苔等なり。ここでも銀札通用す。十文より一歩まであり。銭は98文を以って一匁とす。
この地は北海(日本海)を隔てる事わずか一里なり。されど魚類多くして商いいとやすし。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張)  東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

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