大東亜会議とアジア諸国 学校で教えてくれなかった近現代史(46)

アジアに広がる独立への希望

日本の初戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育てました。東南アジアにおける日本軍の破竹の勢いの進撃も、現地の人々の協力が合ってこそ可能でした。もともと親日家だったタイに加えてシンガポールなどで日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士の中からインド国民軍が結成され、日本軍と協力してインドに向けて進撃しました。インドネシアやビルマでも、日本軍の指導で軍隊がつくられました。

大東亜会議

日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め、合わせてその結果を示すため、1843(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開催しました。
会議では、連合国の大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言が発せられ、各国の自主独立、相互の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたいあげました。この会議以降、日本は、「欧米勢力を排除したアジア人による大東亜共栄圏の建設」を、戦争の表向きの目的として強調するようになりました。
この会議の出席者のうち、中国は重慶の蒋介石国民党政府に対抗してつくられた南京政府。また43年、日本はビルマ、フィリピンを独立させ、チャンドラ・ボースの自由インド仮政府を承認させました。

アジア諸国と日本

この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えました。占領した東南アジアの各地では軍政をしきました。現地の独立運動の指導者たちは、欧米諸国からの独立を達成するため、日本の軍政に協力しました。

しかし、日本の占領地域では、日本語教育や神社参拝を強いた(最近では自由だったという研究がある)ことに対する反発もありました。連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動もおこり、日本軍はこれにきびしく対処し、一般市民もふくめ多数の犠牲者が出ました。また、戦争末期になり、戦局が不利になると食料が欠乏したり、現地のひち人が苛酷な労働に従事させられる場合もしばしば起きました。

日本の南方進出は、「アジアの開放」という名目をかかげながらも、自国のための資源の確保を目的としたものでしたが、日本が敗戦で撤退したあと、これらの植民地は、ほぼ十数年の間に次々と自力で独立国となりました。日本軍の将兵の中には、敗戦のあと現地に残り、これら植民地の独立勢力に加わった者もありました。

「日本軍は、長いあいだ、アジア各国も植民地として支配してきた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えた。『自分たちの祖国を自分たちの国にしよう』という心を目覚めさせてくれたのだ」--マレーシアの独立運動家ノンチックの著書より

日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々

数百年にわたってオランダの植民地とされてきたインドネシアには、昔から一つの伝説が語り継がれていました。ジャワ島にあった小さな王国がオランダによって滅ぼされるとき、王様が次のように予言しました。「今に北方から黄色い巨人が現れて、圧制者を追放し、トウモロコシの実がなるころには立ち去る。そうしてわれわれは開放される」。

似ろ戦争のとき、ロシアのバルチック艦隊がマラッカ海峡を埋め尽くして進んでいくのを見たとき、インドネシア人は、「北方から来る黄色い巨人とは、日本人のことに違いない」と信じるようになり、密かに日本の南進を待ちこがれていました。

1942年、日本軍がインドネシアに進駐すると、人々は道ばたに集まり、歓呼の声を上げて迎えました。実際、日本は、3年半の占領期間に、オランダ統治時代では考えられないPETAと称する軍事組織の訓練、中等学校の設立、共通語の設定、集団検診、現地青年を集めた技術者養成所など、のちの独立の基礎となる多くの改革を行いました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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