【韓国朝鮮の歴史と社会】(29) 韓国の現代社会と人間関係

[catlist id=8] 1960年代以降、韓国社会は急激な社会変化を経験してきました。都市への人口集中と農村の過疎化、それによる血縁関係の結束の弱体化がある一方で、国民文化として伝統の強調もおこなわれています。

家族関係の変化

伝統的に理想とされてきたのは、三世代同居の家族形態でした。しかし1960年代からの産業化と都市化の進展はアパートでの核家族の居住を一般化させました。地方の小さな町にもアパートが建ち、近隣の村の若い夫婦たちが居住しています。1980年代までは都市に出た人でも祭祀(チェサ)などの際には故郷に帰るのが一般的であり、都市に暮らす人と農村に暮らす人との間の交流がみられ、常に関係が確認されました。

しかし最近では、祭祀の場に参加する人々は減少しており、門中などの親族の結束も弱体化してきています。しかし人間関係自体が希薄化しているかというとそうは言い切れないのです。かえって携帯電話をはじめとする通信機器の発達は、人間関係の維持にも大きな役割を果たしており、世界中のどこにいても身近にいることを確認できます。

核家族化は、家族の人数の減少ももたらしています。1995年には家族の人数は3.3人にまで減少しています。この背景には女性の社会進出があります。また近年では離婚率が高くなっており、さまざまな問題が引き起こされています。

家族観のゆらぎ

韓国では、男性の側により重心をおく構造に変わりはないようにみえました。しかし女性側から要求として出されていた「戸主制」廃止論が力を持つようになってきており、変化がみられます。

「戸主制」は日本の植民地期に日本の家をモデルとして制度化されたもので、数度の改編を経ながら存続してきています。「戸主制」では戸主の地位の景勝が男系優位であること、家族の範囲を戸主の戸籍の範囲内としていること、子供の姓は父親の姓であることなどの特徴がみられます。離婚の急増で問題となっているのは子供は実父の姓を受け継ぎ、犠牲を名乗ることができないため、さまざまな不利益をこうむる点です。子供に実父以外の姓を名乗らせようとする運動は父系主義を真っ向から対立するものです。

「戸主制」廃止については、保守勢力からの反発は強いですが、若い世代を中心に楊ミンする雰囲気があり、近い将来改編される可能性が高いです。廃止されると、朝鮮王朝以来続いてきた父系主義が否定されることになります。その結果多くの問題が引き起こされるのか、逆に社会が変化したために制度が変えられただけのことで大きな問題とならないかは興味深いところです。

ナショナリズムと移民

2002年、日本と韓国とで共催されたサッカーのワールドカップ大会は、韓国チームの活躍もあり韓国では街中に応援の人々があふれました。そこでは「大韓民国(テハーン・ミングック)」が合唱され、熱烈な応援とナショナリズムが世界の人々の関心をよびました。韓国はナショナリズムがよく表明される社会でもあります。また近年の若い世代の反米感情の高まりのなかでは、北朝鮮と一体化した民族というナショナリズムもみられ、2001年末の大統領選挙では、北朝鮮との宥和政策をかかげた盧武鉉(ノ・ムヒョン)を大統領としました。

一方でその同じ世代が国を離れて移民を希望したり、また実際に移民していったりしています。理由は子供の教育問題のためで、韓国内の苛烈な受験競争を避けての移民です。韓国では移民は特別珍しいことではありません。父系血縁意識が強かったので、どこにいても自分自身のアイデンティティは変わらないと思われてきました。しかし、社会の変化とともに薄らぎつつある父系血縁意識は、韓国人のアイデンティティをどう変えていくのか注目されます。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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【韓国朝鮮の歴史と社会】(28) 韓国の社会関係

[catlist id=8] 伝統的な社会関係

日本人にもっとも近しい国はどこかといえば、地理的にも同じ島国という国民性からも台湾(中華民国)です。

そしてもっとも歴史・文化・交流・言葉が近いのは韓国です。韓国にはこれまで2度行ったことがあります。韓国も台湾もそうですが、世界中でもっとも日本人と近い隣人であることが体験できます。

しかし、唯一異なるのは、過去に二国間で争いがおきましたが、日本列島は第二次世界大戦で米国に占領されたことがありますが、幸いにも言葉や習慣自体を奪われることはありませんでした。したがって、一度も他国から植民地化されたことがないのですが、朝鮮半島は何度も同じ民族同士や他国から侵略を受けてきた歴史だということです。

韓国社会は儒教によって高度に秩序化された社会であり、父系血縁関係を基盤とした家族・親族関係が形成されている点では日本と大きく異なります。これは中華の伝統を受容し、それをもとに朝鮮の社会関係を組み直した結果でもあります。このような伝統的な家族・親族関係は、現在では社会の変化とともに大きく変わってきています。

父系血縁関係

韓国では朝鮮王朝時代に国教とされた儒教(朱子学)によって、父・子関係を基本とする父系血縁関係が社会に浸透していきました。およそ17世紀後半から18世紀にかけて定着したといわれています。

韓国人にとってもっとも基本的なアイデンティティは父系血縁です。そしてその関係は生涯変わることはありません。父系の血を継承したことによって、自分自身の所属が明らかとなります。女性にとっても生涯この父系血縁関係は変わることはありません。

家族

韓国では家族というときに「チップ」という言葉を良く使います。日本語の「家・いえ」という言葉によく似ていて、家族とともに家屋の意味でも使われます。このチップは日常生活の基本単位であり、伝統的には長男夫婦が老後の親を扶養します。三世代同居の姿が理想型とされてきました。ただしチップはより範囲が広く、次三男以下が独立した後やその子孫たちも、同じ血を持つ者として考えられ、同じチップのメンバーとなります。とくに農村部では、近くに住むことが多く、日常的に緊密な繋がりをもっており、また相互に助け合う関係でもあります。日本では家族であっても遠くに離れてしまうと心情的に距離感をもつことが少なくありませんが、韓国では日常的関係がさほど緊密でなくとも、常に関心をもっていて心情的には近いのです。血縁関係を軽視することは、倫理に反するとみなされて批判されることになります。

父親と子どもの関係が基本とされるため、とくに父と息子の関係は厳格で形式的なものとなります。とくに儒教に忠実であろうとする人々の間ではそうです。一方、逆に母親と子供の関係は打ち解けた親しみのあるものです。また祖父母との関係は、子供にとっては何でも許される関係となります。

また四代前までの祖先を祀る忌祭祀(キジェサ)を祀る子孫たち、つまり高祖父を共通の祖先とする八親等の関係をチップの内側という意味でチバンといい、このチバンが親族のなかでも近い関係です。

親族

父系血縁の原理はチバンのように親子兄弟関係をこえて拡大して考えられます。親族組織を門中(ムンジュン)といいます。門中は、ある祖先からの系譜が明確な人々によって構成され、元来はある特定の地域に集中して居住することが多く、村全体が同じ門中というような村落も存在しました。門中は祖先祭祀のために組織化されたので、そのための土地や財産を所有することも多い。門中はその系譜関係を明らかにするためのものとして族譜(チョッポ)を編纂します。

親族

族譜は父系の系譜関係を明示するものとして存在するので、父系の血の概念が浸透し、それにともなって親族組織がつくられるようになってから一般化しました。王朝時代には族譜を編纂し所有することがステータスの証しでもありました。族譜の記述形式は定まっていて、最初に一族の歴史が語られ、始祖からの系譜を親子関係を上下に、兄弟関係を横に並べて記載されます。個人についての記載内容も現在ではほぼ一定で、名、生年月日、官職や事跡、配偶者の父親の姓名と本貫、本人と配偶者の没年月日、墓の位置などです。

現代の韓国でも族譜はステータスと大きく関連していて、族譜を出版する出版社や族譜を集めた図書館などが存在します(日本では考えられない個人情報漏洩だが…)。族譜は一世代(約三十年)ごとに改訂されるのが通常で、死者や新しい成員の情報が付け加えられます。また過去にさかのぼって見直しが行われます。

最近では刊行される族譜に女性の名前が記載されることが多くなり、また漢字を読めない人々が増えてきたためハングルでの表示もなされています。また多くの門中で族譜がインターネットを通じて公開されていることも、伝統と新技術の結合として特徴的なものでしょう(出版同様、日本では考えられない個人情報漏洩だが…)。

姓氏

韓国には姓が270あまりしかありません(ちなみに日本は姓は正式には氏ともいい、名字・苗字ともいう。十数万もの種類の名字がある)。またその内の少数の姓に集中しています。金・李・朴が三大姓といわれ、この三つの姓で全人口の45%を占めます。しかしながら金姓の人々は同じ一族かというとそうではありません。姓に本貫という地名をプラスすることによって区別をします。金姓では本貫の数は300近くあります。本貫は始祖とよばれる祖先と関連する地名である場合が多い(金海金氏・慶州金氏など)です。また始祖は必ずしも実在の人物とは限らず、神話的な存在である場合もあります。このように本貫と姓を同じくする人々を、同姓同本といいます。同姓同本の人々は明確な系譜関係で結ばれているわけではないし、共同で何かをやることは少ないです。

しかし、この同姓同本が明確な区分として使われるのが婚姻の場合です。同姓同本の間での婚姻は、つい最近まで、ある少数の例外は除いて、「同姓不婚」の原則に該当するため法的に禁止されてきました。そのため多くの問題が発生することとなりました。

それは、同姓同本である男女による事実上の婚姻生活です。法的には認められない婚姻のため、生まれてくる子供は法的に男性の子供とは認められず、私生児とならざるを得ませんでした。厳格な父系血縁の社会で父親の存在がないことは多くの不利益を子供にもたらすことになります。そのため例外的に婚姻を認める期間が設けられたことがありましたが、現在では同姓同本の婚姻を禁じた民法の条文は効力停止となっており、同姓同本の婚姻は自由となっています。

民族

朝鮮半島は半島というコンパクトな地域に、王朝交代の少ない比較的に安定した社会を長年にわたって維持してきたため、社会や文化の均質性が高いのが特徴です。もちろん地域差や階層の差による違いがないではありませんが、今日では比較的に小さいものです。そのため民族意識がつくられやすく、近代になると外部からの圧力もあり、自分たちを同じ血をもつ民族としてみなすことがおこなわれました。この民族の血の概念は架空のものでありますが、対外的にも、また自らのアイデンティティを確認するときにも重要な働きをしています。

北朝鮮との関係においても、金泳三大統領以降の政権では、同じ民族としての面を強調し、和解の雰囲気をつくり出してきているようです。このように、同じ血をもつ民族という概念は、政治的なものでもあります。

両班意識

父系血縁観念が広く行き渡り、親族意識を組み直していったのには、朝鮮王朝の支配層であった士大夫(したいふ)層の役割が大きかったのです。士大夫層のことを士族といいます。士族は科挙に合格し官職に就いた人物を指し、一般的に文官と武官を総称して両班(ヤンバン)と称されたのですが、時代をへるにしたがって両班の適応範囲は広がっていきました。その際に必要とされた両班らしさのなかには、儒学の素養や儒教的規範の実践のほか、父系血縁意識による祖先祭祀、族譜の所有、親族意識などがありました。両班の生活様式を実践することによって、自らのステータスを上昇させようという人々が存在し、それがまた父系意識の浸透にも影響したと考えられます。そして現在では、韓国人の多くが自分たちは両班の子孫であると認識しています。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(27) 新世紀の朝鮮半島

[catlist id=8] 2000年に入ると朝鮮半島の事態は一変しました。6月、金大中大統領が平壌を訪問し、北朝鮮の金正日委員長と初の南北首脳会談を実現させました。両首脳は、統一問題の自主的な解決、南北双方の連合、連邦制案の共通性の確認、離散家族訪問団の交換、経済協力や社会・文化などでの協力交流、合意事項実施のための早期の当局間の対話開始、の五項目からなる南北共同宣言に署名しました。宣言には金正日委員長のソウル訪問も明記されました。宣言の内容は、1972年の七・四南北共同声明以来の路線を踏襲するものでしたが、両首脳が直接会談したことは、南北和解の雰囲気を一挙に高めました。とくに、金正日委員長の姿と肉声が世界にテレビで生中継されたことは、北朝鮮のイメージを好転させ、その外交戦略を助けることとなりました。
以後も8月と11月の二回にわたる南北離散家族の相互訪問。9月シドニー・オリンピック開会式における南北の合同入場行進など、和解の動きは続きました。そして、12月には、長年の民主化への尽力に加えて、朝鮮半島の緊張緩和を進めた実績が評価され、金大中大統領にノーベル平和賞が授与されました。2002年6月には、日・韓共同開催のワールドカップ・サッカー大会が実現し、日韓関係の進展がみられました。また、同年12月の第十六代大統領選挙では、与党候補の盧 武鉉(ノ・ムヒョン)が当選しました。03年2月に発足した盧 武鉉政権は、基本的に前政権の政策を継承しながらも、社会の広範囲にわたり民主化の促進につとめました。しかし、金大中系列の議員との対立が深まって与党は分裂し、03年11月、盧 武鉉系列の議員によって、新与党である開かれたウリ党が結成されました。
北朝鮮は、2000年1月、イタリアと国交を樹立したのをはじめ、EU各国やカナダなどと相ついで修交するなど、積極的な外交を進めました。10月、趙明録国防委員会第一副委員長が訪米してクリントン大統領と会談したのに対して、同月オルブライト国務長官が訪朝して金正日委員長と会談するなど、米朝関係は急激な進展を見せました。しかし、01年1月、共和党のブッシュ政権が発足すると、米国は北朝鮮をイラン、イラクと並ぶ「悪の枢軸」であると非難し、関係は悪化しました。これに対して、北朝鮮は米国に現体制の存続を保証する不可侵条約の締結を求める一方で、反米姿勢を強めて核開発の再開を発表する瀬戸際政策を展開しました。
02年9月、日本の小泉純一郎首相が訪朝して、金正日委員長と初の首脳会談をおこない、日朝平壌宣言を発表しました。宣言は、日朝の国交正常化を再開する、北朝鮮のミサイル発射実験の凍結期間を延長する、賠償に変わる経済協力をおこなう、ことなどを謳い、従来の日朝関係を一変させるものでした。しかし、このとき北朝鮮が1970年代に日本人を拉致した事実を公式に認定し謝罪し、五人の拉致被害者が日本に帰国しました。しかし、このことは日本で反北朝鮮の世論を強める結果となりました。これに対して北朝鮮も態度を硬化させ、関係は冷却化の様相をみせました。また、同月北朝鮮は外国資本の誘致をねらい、新義州に香港をモデルとした特別行政区を設置するとの発表をおこないましたが、構想は頓挫しました。
さらに、02年10月、北朝鮮が米国に対して核兵器開発計画があることを認めると、これに反発する米国は、枠組み合意が無効になったとの認識にもとづき、KEDOの事業に対する見直しを表明しました。03年11月、KEDOは事業の中断を発表し、軽水炉の提供は事実上棚上げとなりました。また、8月、北朝鮮の核開発問題をめぐり、南北朝鮮、中国、日本、ロシア、米国が参加した六者協議が北京で開催されましたが、問題解決には至りませんでした。このように国の内外で社会的・経済的困難が続くなか、北朝鮮からの脱出住民は急増し、中国に潜伏する者だけでも数万人におよぶと推測されました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(26) 南北の対話と緊張

[catlist id=8] 中ソ対立と北朝鮮

建国以来、中国、ソ連と密接な関係を維持してきた北朝鮮にとって、中ソ対立は対応が困難な試練でした。反米闘争の堅持をかかげる北朝鮮は、1960年代前半、ソ連を批判して中国を支持しましたが、文化大革命の開始とともに中国との対立が深まり、ソ連との関係が改善されました。1970年、中国との関係も正常化されましたが、一連の事態は、北朝鮮に自主路線貫徹の必要性を痛感させました。
1961年に策定された人民経済発展七カ年計画は、翌年「人民の武装化、国土の要塞化、軍人の幹部化、軍備の現代化」からなる四大軍事路線の採択にともない、国防支出を増大させて、民生関連予算を削減する変更を強いられました。軍事費の突出により経済建設は困難を極め、計画は三年間延長して70年に達成されました。さらに、イデオロギー面でも自立化路線が追求され、1967年5月、解放前祖国光復会の活動を国内で支えた甲山派も粛清されて、「革命の首領」金日成が唱える「主体(チュチュ)思想」[*1]に全国民が従うことを求める「唯一思想体系」が確立されました。

[*1]…主体思想とは、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、防衛における自衛」を趣旨とし、自力更生を重視してマルクス主義を朝鮮に適用した思想。

南北の対話と緊張

中ソ対立や米中接近など国際情勢の変化を機に、軍事費の増大がそれぞれの財政を圧迫していた南北の政権は、対話路線に転換しました。極秘の折衝の末、1972年7月、「自主・平和・民族的大同団結」という祖国統一の三大原則をかかげる共同声明(七・四南北共同声明)が発表されました。これは、互いに存在を否定してきた南北の政権が、相手を一つの政権として認めたことを意味し、将来の統一に向けて、今後の対話と交流の拡大を期待する内外の民衆の熱狂的な支持を獲得しました。

南北の強権体制

韓国では、朴正煕(パク・チョンヒ)の長期政権に対する不満も高まり、1971年4月、第七代大統領選挙で野党候補の金大中が善戦しました。政府への支持拡大をねらった南北共同声明でしたが、依然として民間レベルでの南北交流を禁圧する反共体制を維持しようとする政府に対する世論の批判を招きました。支配の安定確保をもとめる朴正煕政権は、1972年10月、非常戒厳令を布告し、12月、大統領の権限を極限まで強化した「維新憲法」を公布して(第四共和国)、個人独裁体制を確立しました。また、1970年11月、青年工員全泰壱が劣悪な労働条件に抗議して焼身自殺した事件を機に高揚した労働者、農民の運動や野党や学生の反政府運動は、大統領緊急処置の発令により徹底的に弾圧されました。1973年8月、金大中がKCIA(中央情報部)の要員によって宿泊中の東京のホテルから拉致され、1974年4月、200余人が反国家団体結成の嫌疑で逮捕される(民生学連事件)など、政治的弾圧事件が続発しました。しかし、市民や学生の独裁批判は止まず、政治家の尹潽善前大統領や金大中、キリスト教会などが1976年3月、朴正煕大統領緊急措置撤廃・朴正熙政権退陣を呼びかけ、民主救国宣言を発表しました。
経済的には、1972年、重化学工業化をめざす第三次五カ年計画が開始されました。日本の技術援助を得た浦項総合製鉄所が完成し、現代(ヒュンデ)、三星(サムソン)などの財閥が輸出を推進して、「漢江の奇跡」とろばれう経済成長を実現しました。他方、解体しつつある農村の再統合をはかり、農民の所得増大と大衆動員をめざすセマウル(新しい村)運動が展開されましたが、離農は阻止できませんでした。1979年夏、第二次石油危機による不況下で労働争議が頻発しましたが、政府は弾圧方針を変えませんでした。争議は大統領退陣要求運動へと発展しました。釜山や馬山で市民と警察の衝突が続くなか、1979年10月、朴正熙が側近の中央情報部長に射殺され、個人独裁体制は崩壊しました。
北朝鮮では、1972年12月、新憲法が制定されました。金日成が新設の国家主席に就任し、党と国家と軍の権力を掌握しました。その理論的基盤は主体思想でしたが、前とは異なり、マルク主義の唯物論を超越した人間の意識の能動性が強調されました。1973年2月、思想革命、技術革命、文化革命をめざす三大革命小組運動が開始され、それとともに金日成の長男 金正日が台頭しました。個人崇拝の徹底につれ、後継者の資格を血統に求める主張が力を得たのです。以後、金正日の資質を賞揚し、社会主義国家における権力世襲を正当化する事業が推進され、1980年10月、朝鮮労働党第四回大会は、金正日が金日成の後継者であることを正式に内外に発表しました。
経済的には、1971年から重工業の発展に重点をおいた六カ年計画が開始され、重労働と軽労働、農業労働と工業労働など各部門間の労働格差解消と、女性の家事労働からの解放を唱える「三大技術革命」が提示されました。しかし、軍事費の圧迫により経済成長は鈍化し、西側から借款の導入がはかられましたが、第一次石油危機を機に対外債務返済の不履行が深刻化しました。

韓国の軍事政権

朴正熙暗殺後、首相崔圭夏が後継大統領になりましたが、1979年12月、全斗煥が「粛軍クーデター」で実権を握りました。全斗煥は、翌年5月戒厳令を全国に拡大し、光州の民主化抗争を武力で弾圧して、第11代大統領に就任しました。1981年3月、新憲法下に第五共和国を出帆させた全斗煥政権は、日米の保守政権と連携を強め、日本から40億ドルの借款を獲得しました。また、強権でインフレを解消した後、1982年からの第五次五カ年計画では民間企業主導の開発戦略を採用しました。しかし、日本に対する累積債務は深刻であり、1982年7月、日本の歴史教科書の記述訂正を求める運動が高揚したように、政府の対日依存の姿勢は野党や学生などに非難されました。80年代後半にはウォン安、原油安、金利安の恩恵で輸出が増大し、1986年貿易収支がはじめて黒字となりました。しかし、権力との癒着を背景に不正蓄財事件が続発し、政府を批判して大統領直接選挙の実施を求める運動に多くの市民が参加しました。
1987年6月、全斗煥の後継者に推挙された盧泰愚(ノ・テウ)が、大統領直接選挙実施のための改憲、民主化、金大中赦免をかかげる特別宣言を発表しました。12月、盧泰愚が第十三代大統領に当選しました。盧泰愚政権は軍事色の払拭につとめ、1990年1月、少数与党という窮地を脱するため与野党を合同し、民主自由党を結党しました。他方、88年9月、ソウル・オリンピック開催を機に、東欧諸国など社会主義国と修交する「北方外交」の延長線上に北朝鮮との関係改善がはかられ、90年9月、第一回南北首相会談の開催をへて、91年9月、韓国の主導下に南北は国連に同時加盟しました。

「われわれ式社会主義」

1980年代の北朝鮮では、革命第二世代の権力機構への進出が顕著となり、人民軍最高司令官、国防委員会委員長に就任して権力の継承を進める金正日に対する賛楊事業が展開されました。そして、東欧、ソ連の社会主義が崩壊するのに対して、「われわれ式(ウリシク)社会主義」をかかげて体制維持をはかりました。その理論的基盤は、国家における首領と党と大衆の一体性を唱える「社会的政治的生命体論」でした。
1992年4月、憲法が改定され、主体思想の脱マルクス主義化と国防重視の方針が明示されました。他方、経済建設は限界に達し、三年の調整期ののち、87年から第三次七カ年計画が開始されましたが、経済事情は好転しませんでした。また、ソ連の解体と中国の市場経済導入は、従来の「友好価格」での石油や食糧の輸入を途絶させ、状況を悪化させました。北朝鮮は合営法の制定や自由貿易地帯設置など、外国資本の誘致につとめましたが、在日朝鮮人企業家を除いて、進出は進みませんでした。韓国に対しては、ラングーン爆弾テロ事件(83年10月)や大韓航空機爆破事件(87年12月)など、諜略工作がおこなわれました。
1992年1月、国際原子力機関(IAEA)との核査察協定に調印しました。しかし翌年、査察を拒んで核不拡散条約(NPT)脱退を表明し、南北会談で戦争を示唆するなど情勢は緊迫しました。これに対して、米朝高官協議がはじまり、94年6月、南北首脳会談の開催が決定しました。7月、金日成が急死して会談は中止されましたが、10月、核兵器開発が可能な黒煙炉を軽水炉に替えることで米国と合意し、95年3月、日本、米国、韓国が朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立し、軽水炉の建設に着手しました。
また、北朝鮮は、1994年以降連続して自然災害に襲われ、食糧危機の陥りました。国連機関や各国政府、NGOが支援しましたが、危機は解消されませんでした。89年以来のマイナス成長に加え、1994年からは経済計画さえ立案できなくなりました。北朝鮮崩壊による極東情勢の激変を憂慮した周辺諸国は、斬新的な開放政策の導入による「軟着陸」をはかり、97年12月、南北朝鮮と米国、中国の四者会談を開始しました。
日本に対しては、90年9月国交交渉を開始し、97年11月、食糧支援と引き換えに北朝鮮帰還者の日本人配偶者の一時帰国が実現しました。しかし、98年8月、テポドン1号発射を契機に再び緊張が高まりました。韓国の文民政権に対しては、食糧支援を求めて和解の姿勢を示す一方で、96年9月の潜水艦侵入事件など、冒険主義的な工作も併用しました。加えて、韓国よりも米国との直接交渉を優先させる姿勢を示すなど、社会主義国家としての生き残りのために複雑な外交戦略を展開しました。

韓国の文民政権

1992年12月の大統領選挙では、地域感情をあらわにした選挙戦の末、与党候補の金泳三(キム・ヨンサム)が当選して文民政権が発足しました。前政権の閣僚や有力者を多数逮捕して、独自色を鮮明にしました。省庁統合を断行するなど改革の姿勢を示しましたが、他方で聖水大橋崩落などの事故や公務員の不正が続発し、急激な成長の陰で社会の矛盾が噴出しました。93年からの新経済五カ年計画は先進国入りをかかげましたが、96年10月、経済開発機構(OECD)への加盟が承認され、宿願が実現しました。
また、金泳三政権は、日本の首脳との会談を通じて植民地支配に対する謝罪発言を引き出し、韓国内でも解体に賛否が分かれていた日帝時代の象徴たる旧朝鮮総督府庁舎を解体しました。さらに、95年10月、秘密政治資金口座の発覚を機に盧泰愚を逮捕し、全斗煥とともに「粛軍クーデター」から光州民主化抗争までの事態に関する軍反乱と内乱の容疑で訴追するなど、「歴史の清算」を実践しました。ところが、97年夏、自動車、製鉄など基幹産業の不振から韓国経済は極度の不況に陥り、これが通貨危機に発展しました。年末には対外債務の不履行が危惧されたため、11月、政府は国際通貨基金(IMF)や日本、欧米に緊急支援を要請し、辛うじて経済の破綻を免れました。
97年12月、第十五代大統領選挙で野党候補の金大中が当選し、与野党間の政権交代が実現しました。金大中政権は、社会・制度の民主化の推進とともに、国際競争力確保のため大企業の構造改革に着手し、国家信用度を短期間に回復しましたが、大量の失業者の出現など犠牲も大きいものでした。対外的には、日本の大衆文化の受け入れなど、未来志向の日韓関係の樹立を進めました。北朝鮮に対しては、「太陽政策」とよばれる協調政策を採用し、北朝鮮領内の金剛山(クムガンンサン)への観光船ツアー実施など、民間の交流を支援しました。しかし、北朝鮮の潜水艦の侵入や黄海上での南北艦艇の交戦など、不安定要因は完全には解消されませんでした。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(25) 南北の国家建設

[catlist id=8] 戦後復興

北朝鮮は1954年、戦後復旧三カ年計画を開始し、ソ連、東欧、中国など社会主義諸国の経済・技術援助を得て、工場再建と都市復興をおきないました。同時に、農業生産力を回復するために農業の協同化がはかられ、58年8月までに完了しました。社会主義への移行の基礎を整備した北朝鮮は、56年12月、「自力更生」をかかげて生産と労働を奨励する「千里馬(チョンリマ)運動」を開始しました。これは、戦争の犠牲や住民の日本や韓国への「越南」による人手不足を労働者の超過労働により克服しようとするものでした。続いて57年から第一次五カ年計画が推進され、予定より早く60年に完了しました。これによって北朝鮮は「工業国」に変身したとされ、農業における「青山里(チョンサルリ)方法」や工業における「大安の事業体系」など、朝鮮労働党の指導下に大衆の自発性を引き出す生産管理運営方式が確立されました。
政治的には戦争中に弱体化した朝鮮労働党を再建する過程で、戦争の指導責任として朴憲永[*1]ら旧南朝鮮労働党系幹部に転嫁され、「米国のスパイ」として処刑されました。他方、戦後復興の方針をめぐり党内が対立し、56年8月、延安派、ソ連派の幹部が金日成の個人崇拝を批判する意見を表明しました。しかし、金日成の反撃により反対勢力は粛正され、権力集中が一段と進みました。
韓国の復興は米国の援助に依存しました。経済協力局(ECA)や国際協力局(ICA)などから総額31億ドルの無償援助がなされ、忠州(チョンジュ)肥料工場などが建設されました。また、米国の余剰農産物援助によって三白工業(製粉・製糖・紡織)が発達しましたが、これは消費財中心で国内農業を抑圧した結果となり、韓国の経済自立にそれほど寄与しませんでした。むしろ農地改革により誕生した零細自作農を没落に導きました。加えて、戦争勃発前後から旧日本人財産の払い下げが本格化し、政権と結託し特恵を獲得した資本家が初期独占財閥として成長しました。さらに、1953年10月、韓米相互防衛条約が締結され、米軍が駐屯することとなりました。1957年に米国の援助が削減され、無償援助が有償援助に変わると、韓国経済は不況に陥りました。

四月革命と軍事クーデター

憲法の改定や政敵であったソウ奉岩の処刑など、長期政権のための工作を進めた李承晩は、1960年3月の第四代大統領選で四選を果たしました。しかし、行政府主導の不正に対して、馬山からはじまった抗議運動は全国に波及し、4月19日、ソウルの学生、市民が決起して大統領官邸を包囲しました。知識人、マスコミの退陣要求に加え、米国や軍部も支持を撤回したため、4月27日、李承晩は退陣し、ハワイに亡命しました(四月革命)。1960年6月、議院内閣制にもとづく新憲法が公布され(第二共和国)、民主党の張勉政権が成立しました。張勉政権下では言論と集会の自由など民主化が進みましたが、与党の内紛で政権は弱体であり、街頭デモが慢性的に発生するなど、社会が混乱しました。新政権の発足に合わせて北朝鮮が南北連邦制を提議すると、民間でも統一論議が高まり、1961年5月20日、板門店で南北学生会談を開催することが決定しました。
1961年5月16日、陸軍少将 朴正煕らの陸軍将校(後に大統領になる全斗煥、盧泰愚が含まれている)による軍事クーデターが勃発し、軍事革命委員会(のち国家再建最高会議)が実権を掌握しました。張勉政権は無力であったことから米国も事実上黙認しました。「反共」を国是に自立経済建設を標榜する軍事政権は、経済開発計画を策定したほか、国家再建非常処置法、反共法の制定や中央情報部(KCIA)の設立など、権力強化のための処置を講じました。また、軍部、政界、財界の粛正を図る社会浄化運動を展開し、南北統一運動を推進してきた労働組合、学生団体の幹部の多くも逮捕されました。さらに、1963年10月、第五代大統領選挙で当選、12月、新憲法が発効して大統領に就任しました(第三共和国)。他方、韓国の軍事政権が対決姿勢を明確にしたのに対して、北朝鮮は、61年7月、ソ連、中国とそれぞれ友好協力相互援助条約を締結しました。

日韓国交正常化とベトナム派兵

1952年2月、国交樹立のために日韓会議が開始されましたが、植民地支配をめぐる日本側代表の発言などが韓国側の反発を招き、交渉は難航しました。しかし、軍政が発足すると、極東の安保体制確立を臨む米国、外資導入を切望する韓国、経済進出をねらう日本の思惑が一致し、交渉が急速に進展しました。1962年11月、金鍾泌KCIA部長と大平正芳外相との会談で、植民地支配にともなう損害の賠償や不利益の弁済に関する対日請求権問題が決着しました。1964年3月以後、韓国では「対日屈辱外交」反対運動が全国に拡大しましたが、政府は非常戒厳令を発して弾圧し、1965年6月、日韓基本条約が締結されました。日本は、韓国を「朝鮮半島唯一の合法政府」として承認し、無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル、民間商業借款3億ドル以上を供与することを約束しました。植民地支配に関しては、合法的支配を唱える日本の解釈の違いは放置されました。
また、韓国政府は米国の要請を受け、1964年10月、南ベトナム政府と韓国軍のベトナム派遣に関する協定に調印しました。その結果、1965年1月から73年1月まで、延べ30万人以上の兵士と要員が派遣されました。派兵の見返りとして、米国は駐韓米軍の維持、対韓軍事援助の増額などを約束しました。一方、韓国からの軍需物資の調達、派遣兵士の本国への送金などは、経済開発に必要な外貨の獲得に貢献しました。それにもとづき、67年から外資導入と輸出指向による工業化をかかげる第二次五カ年計画が実施されました。馬山や裡里に設けられた輸出自由地域には日本企業が進出し、低資金に支えられた労働集約型の繊維産業を中心とする軽工業部門が急激に成長しました。

日本への影響

朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、フランスなどを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治、経済、防衛にも大きな影響を与えました。
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に日米安保条約と共に締結されました。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活しました。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。もっとも、日本の再軍備自体は、アメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していました。
経済的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給、製造などを依頼したことから、工業生産が急速に伸び好景気となり、戦後の経済復興に弾みがつきました。日本では以後、このような状態をさして特需と呼ぶようになります。また、戦火を逃れるために朝鮮半島から様々な方法で日本に流入した難民は20万から40万人とも言われています。その一部は現在も日本に在留しているとみられています。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

※[*1]朴憲永…(パク・ホニョン・1900~55)。革命運動家。三・一運動後、火曜派社会主義者として活動。解放直後共産党を再建し、南朝鮮の革命運動を指導したが、46年北朝鮮に移り副首相兼外相となった。
※[*2]朴正煕…(パク・チョンヒ・1917~79)。慶尚北道出身。大邱師範学校を卒業し、慶北聞慶国民学校で教員後、満州国軍の新京軍官学校を主席で卒業で学び特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学。3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。解放後、韓国の陸軍士官学校に再入学。卒業後、大尉に任官。一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告される。しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に評価されて釈放された。朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。
休戦後の1953年には、アメリカの陸軍砲兵学校に留学した。
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【韓国朝鮮の歴史と社会】(24) 朝鮮戦争

[catlist id=8]

韓国政府樹立後も、南部では左派の遊撃闘争が継続しましたが、1950年春にはほぼ壊滅しました。他方、米国は西太平洋の防衛線内に韓国が入らないことを言明しました。米軍は、1949年6月までに軍事顧問団500名を残して撤兵しました。中華人民共和国の樹立により社会主義の優勢を確信した北朝鮮は南進を決意し、中国とソ連の同意を得ました。さらに、1950年5月、韓国総選挙での李承晩派の大敗は、北朝鮮に「祖国解放」を楽観視させる根拠となりました。
1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を突破し、戦争が勃発しました。北朝鮮軍は28日ソウルを占領し、南下を続けました。これに対して、韓国政府は釜山に遷都し徹底交戦の姿勢を示しました。また、「内戦不介入」という北朝鮮の予測に反して、米国は国連安保理事会を招集、北朝鮮を「侵略者」と非難し、韓国を支援するため米軍を主力とする国連軍を派遣することを決議しました。
南部を占領した北朝鮮軍は、北部と同様の「民主改革」を実施しましたが、期待した民衆蜂起は起きず、性急な改革に対して反発が強まりました。1950年9月、国連軍が仁川に上陸すると、北朝鮮軍は退却を強いられました。国連軍は、ソウル奪回後、北朝鮮を解体することを決意し、10月、38度線を突破、平壌を占領して、一部は中朝国境にまで達しました。国連軍の北朝鮮進撃が自国の存亡にかかわると判断した中国は、「抗米援朝運動」を展開し、同月、中国人民志願軍(実態は正規軍)を派兵しました。中国軍の参戦で戦況は逆転し、平壌奪回に続いて、1951年1月、ソウルが再占領されました。これに対して国連軍も反撃、3月ソウルを再奪還しました。その後戦況は膠着し、国連軍司令官マッカーサーは中ソ各地への原爆投下を企てましたが、英国などの反対で阻止されました。
1951年7月、ソ連の提案を請け、国連軍と中国軍、北朝鮮軍の間で休戦会談が開始されました。交渉は軍事境界線設定や捕虜交換をめぐり紛糾しましたが、1953年7月、「単独北進」を唱える韓国を除く三者が、休戦協定に調印しました。戦闘は停止し、軍事境界線の南北に非武装地帯が設定されました。
戦争の人的被害は、韓国軍、国連軍側の死傷者や行方不明捕虜が115万人、中国軍側の死者142万人以上、非戦闘員の犠牲者と行方不明者も200万人以上と推定されています。物的被害も著しく、韓国の被害額は、総国民所得の二倍に当たる30億2000万ドルに達しました。また、北朝鮮も国土の大半が荒廃し、戦前に比べて製造業の36%、農業の24%が減退しました。加えて、戦争は南北の分断を固定化し、相互に憎悪し合う異質化を徹底しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(23) 朝鮮の解放と分断

[catlist id=8] 国内の抵抗運動

日中戦争の前後から、朝鮮国内での抵抗は散発的、象徴的なものに変質しました。1936年8月、ベルリン・オリンピックのマラソン競技で優勝した孫箕禎の写真を掲載する際に、『朝鮮中央日報』と『東亜日報』が日章旗を抹消し、当局から停刊処分受けました。また、労働強化が押しつけられるなか、労働争議や怠業、供出物資の隠匿など、戦争に対する非協力行為が多発しました。神社参拝の強要に対しては、各会派が参拝を容認した後も、各地の教会や牧師が独自に拒否を貫徹しました。さらに、42年10月、朝鮮語学会の研究活動が、総督府の推進する「国語」常用に反対し、民族意識を保存する抗日運動であるとして、弾圧されました(朝鮮語学会事件)。
そうしたなかで、一部の人々は解放後を視野に入れた活動を展開しました。42年12月、米国の海外向け放送である「ヴォイス・オヴ・アメリカ」の朝鮮語放送を密かに聴取した容疑で、京城放送局の職員らが検挙されました。また、朴憲永らは40年3月、京城コム・グループを結成し、共産党の再建工作に従事しました。さらに、44年8月、呂運享らが朝鮮建国同盟を結成しました。同盟は朝鮮の完全な自由独立、反動勢力の排除、民主主義の原則に立脚した建設などを行動綱領にかかげ、朝鮮の自力開放をめざして抗日軍事行動の準備を進めました。

国外の抵抗運動

中国東北では、「満州事変」を契機に反満抗日運動が高揚しました。民族主義者は、旧張学良軍など中国人の抗日義勇軍と連合作戦を展開しましたが、1934年ごろには弱体化しました。社会主義者は、中国共産党の指導下に赤色遊撃隊を組織しましたが、33年ごろから反帝統一戦線をめざす東北人民革命軍に改編されました。さらに、36年2月以降、人民革命軍は東北抗日連軍に再度改編されました。抗日連軍のなかには、のちに北朝鮮政府の最高指導者となった金日成、同じく北朝鮮の高級幹部となった崔石泉、金策ら朝鮮人幹部が含まれていました。同年6月には朝鮮独立を求める統一戦線組織として、在満韓人祖国光復会が結成されました。37年6月、金日成の指導下にかん鏡南道甲山郡普天ポに侵攻しました。この事件は、閉塞状況にあった国内民衆に独立の希望を与えました。しかし、日満軍の掃討作戦によって活動が困難になり、40年夏以降、小部隊に分散した抗日連軍は、ソ連領沿海州に移動しました。彼らは、ソ連軍の傘下で対日戦の準備を進めましたが、実践には参加しませんでした。
中国国内では、32年2月、上海事変が勃発して以来、日本軍の侵攻が強化されるなかで、独立運動団体の統合と分裂がくり返されました。右派の中心であった金九率いる大韓民国臨時政府(臨政)は、蒋介石政権との提携を深めて40年、重慶に定着し、9月には韓国光復軍を組織しました。臨政と光復軍は、米国戦略情報局(OSS)の支援を受けて対日戦の準備を進め、太平洋戦争勃発直後、日本に宣戦布告しました。しかし、臨政が「亡命政権」として国際的承認を受けることはありませんでした。
左派は、38年10月、朝鮮義勇隊を創設しましたが、その主力は40年から華北の中国共産党支配地域に移動し、朝鮮人社会主義者と提携しました。彼らは42年7月、延安において華北朝鮮独立同盟とその軍事組織である朝鮮義勇軍を結成し、中国共産党が指導する八路軍と共同作戦を展開しました。
朝鮮人の民族運動は日本の戦力を消耗させる役割を果たしましたが、解放戦争を準備しているうちに日本帝国主義の崩壊を迎えました。その結果、自力で民族解放を達成するという悲願はかないませんでした。

解放と分断

1945年8月15日、日本の降伏とともに、朝鮮は解放されました。それに先立ち、9日、ソ連軍が北部に侵攻しました。米国は、日本の降伏とともに急遽朝鮮進出の方針を打ち出し、朝鮮半島に最も近い沖縄駐屯の第10軍の派遣を決め、北緯38度線を境界に南北朝鮮を分割占領することで、ソ連と合意しました。
南朝鮮では、解放と同時に呂運享、安在鴻らが朝鮮建国準備委員会(建準)を結成しました。建準は、各地に結成された自治委員会や人民委員会を基盤に治安維持をはかるとともに、対日協力者を除く諸勢力を網羅する統一戦線の役割を果たしました。45年9月、建準は独立運動に関連する人士を総結集させた朝鮮人民共和国を樹立すべきことを宣言しましたが、進駐した米軍は軍政を宣布し、朝鮮人民共和国の存在を否認しました。米軍政は、左派主導の社会運動を抑制し治安維持を最優先する方針にしたがって、植民地期の官僚や警官、軍人を雇用し、韓国民主党など右派勢力を優遇しました。他方、再建された朝鮮共産党など左派勢力は、徐々に米軍政との対立を深めました。
北朝鮮では、45年8月末までにソ連軍の支配が開始されましたが、9月、金日成らが沿海州から帰国して主導権を握ると、10月、南朝鮮とは別個の朝鮮共産党北部朝鮮分局(46年4月北朝鮮共産党と改称)を設置し、独自の革命を追求しました。46年2月、実質的な政府である北朝鮮臨時人民委員会(委員長 金日成)が結成されました。無償没収、無償分配の土地改革や八時間労働制度、重要産業の国有化など、「民主改革」が推進されました。そして、まず北朝鮮の革命を完遂し、ここを「民主基地」として、次ぎに南朝鮮の解放に着手する、よいう戦略が樹立されました。46年8月には北朝鮮共産党は、北朝鮮新民党と合同して北朝鮮労働党となりました。
朝鮮の独立は、1943年11月カイロ宣言により、米国、ソ連の合意を得ていましたが、日本の敗戦まで具体的な進展はありませんでした。45年11月、米英ソ三国外相会談は、朝鮮に臨時民主政府を樹立し、米国、英国、中国、ソ連による五年間の信託統治を実施することを決定しました。会談の結果が南朝鮮に伝えられると、右派は信託統治反対運動を展開し、賛成を表明する左派との対立を深めました。46年3月、新政府樹立を援助するために、ソウルで米ソ共同委員会が開催されましたが、対立から5月に委員会は決裂しました。
48年5月、南部で単独選挙が強行され、8月15日、大韓民国(韓国 大統領李承晩)が樹立された(第一共和国)のに続き、9月9日、北部で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮 首相金日成)が創建されました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(22) 日中戦争と朝鮮 

[catlist id=8] 大陸兵站(へいたん)基地と植民地工業化

1937年7月、日中戦争が起こると、朝鮮は軍需物資を生産する後方基地となりました。これに先がけ、36年8月に関東軍司令官を経て朝鮮総督に就任した南次郎は、工業化の推進と産業の統制をかかげました。そして、臨時資金調整法を施行して軍需産業に対する資金の重点配分を進めるなど、戦争経済の確立につとめました。

その結果、工業生産額が急増し、1930年代末には農業生産額と肩を並べました。とりわけ重化学工業の成長が顕著で、日本窒素肥料系の企業が多数設立された北部のかん興や興南を中心に工業地帯が形成され、在来の精米業や紡織業を主軸とする京仁(京城、仁川)工業地帯とともに二大工業地帯をなしました。しかし、生産は完成品ではなく部品や半製品が中心であり、一部を除き朝鮮人資本は弱体であるなど、植民地工業化は朝鮮内の有機的連関を欠くものでした。

内鮮一体と皇民化

日中戦争の勃発は、朝鮮における全国的な戦争動員体制の確立を促しました。当時マスコミは未発達だったので、総督府は講演会や時局座談会、紙芝居などを利用して、戦果とその意義の宣伝につとめました。しかし、人々にもっとも身近な情報源は噂話でした。当局はこれを「流言飛語」とみなして取り締まりましたが、根絶は不可能でした。戦争を傍観する態度や日本の敗北を願う気分が蔓延し、動員政策に対する非協力が民衆感情の根底を成していました。それに対して朝鮮人の民族性を抹殺し、天皇に忠誠を尽くす「皇国臣民」とする政策、すなわち「皇民化」政策を徹底する必要を感じました。

そこで唱えられた標語が「内鮮一体」でした。「内地」と「朝鮮」とは一つであり区別はない、という単純な内容でしたが、朝鮮人から自発的な戦争協力を引き出すため、その時々の政策の必要に応じた意味づけがなされました。「内鮮一体」の究極目標は、将来の徴兵制実施に備えて、「皇軍兵士」を創出することでした。しかい、現実には「流言飛語」が飛び交うように目標の達成は困難であり、かつて激しい抗日闘争を展開した経験のある朝鮮人に武器を渡すことに対する不安は、尋常ではありませんでした。したがって、総督府と朝鮮軍(駐屯陸軍)は、徴兵制の実施には数十年の歳月がかかると想定しながらも、「皇民化」の三本柱といわれた、志願兵制度、朝鮮教育令の改定、創始改名の実施を、実施しました。

戦時動員体制

1938年2月、陸軍特別志願兵令が公布されました。志願兵制度は、朝鮮人に武器を与えるテストとしての意味をもち、実施の地ならしの役割をはたすものでした。行政当局は熱心に応募を勧誘した結果、名目は志願ながら強要に近い形をとり、兵志願者訓練所の定員を大幅に上回る応募者がみられました。また、43年7月、海軍特別志願兵令が公布されました。

38年3月に実施された朝鮮教育令の改定は、「内鮮教育の一元化」を唱えて、学校の名称、教科書、教育方針を日本国と同一としましたが、実際には本国以上に徹底した「皇民化」教育が実施されました。また、朝鮮語は必修科目から随意科目へと変更され、事実上の廃止処置がとられました。41年4月には国民学校令が施行され、小学校は国民学校に改められました。しかし、42年でも、就学率は55%、日本語普及率は20%に留まりました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(21) ロシア革命と朝鮮

[catlist id=8] 在外朝鮮人

韓国併合前から、政治的な自由や生活の基盤を求めて国外に移住する朝鮮人が増加しました。そのなかでも朝鮮と国境を接する中国東北地方の領域は「間島(カンド)」とよばれ、在外朝鮮人の活動の一大拠点となっていました。併合後には、民族主義者が自治組織や民族教育機関を設立し、越境した義兵部隊を改編した軍事団体を備えて、武装闘争を展開しました。これらは独立軍と総称されました。これに対して、日本は、1920年10月、日本人居留民の保護を口実にシベリア出兵軍などを「間島」に侵入させ、独立軍の鎮圧をはかりましたが、和竜県青山里の戦闘では独立軍の部隊に大敗しました。以後、日本軍は報復として「間島」在住の朝鮮人を虐殺するなど徹底的な弾圧をおこないました。独立軍の諸部隊は離合集散を重ねましたが、25年前後には参議府、正義府、新民府の三団体に統合されました。
極東ロシアでも、併合直後から自治組織が結成されましたが、ロシア革命の勃発は社会主義思想を伝播する役割を果たしました。18年6月ハバロフスクで韓人社会党が、19年9月イルクーツクで全露韓人共産党がそれぞれ結成されました。中国国内では、18年8月、上海で新韓青年党が結成され、パリ講和会議に代表を派遣することを試みました。米国でも、ウィルソン大統領の知己である李承晩[*1]らを中心に外交活動が展開されました。
三・一運動が発生すると、運動継続を願う民族主義者により各地で亡命政権が樹立され、これらが統合して、1919年4月、上海のフランス租界に大韓民国臨時政府(臨政)が樹立されました。臨政は朝鮮国内との連絡網の確立につとめる一方、欧米の世論に向けた工作を展開しましたが、外交活動か武装闘争かをめぐる内紛が激しくなり、1925年3月、大統領李承晩が罷免され、国内との連絡も断絶されて、以後活動は沈滞しました。
日本本国へは併合以前から労働者が移住していましたが、併合後は在日朝鮮人の数は増加しました。その原因は、地主制の発達にともなう土地喪失農民の増大と、日本資本主義の勃興による労働力の創出は、日本への移住をいっそう促進しました。

※[*1]…李承晩(イ・スンマン、1873~1965)。独立運動家・政治家。早くから英語を学ぶ。1904年渡米してプリンストン大学で博士号を取得する。1919年大韓民国臨時政府大統領に就任後も米国を拠点に独立宣言運動に従事する。1948年韓国の初代大統領となるが60年四月革命により退陣した。竹島問題の発端である漁業権をめぐる李承晩ライン。

労農運動と新幹会

1920年代、日本資本進出の本格化につれて、朝鮮内でも労働者の数が増大しましたが、長時間労働、低賃金、親方支配、危険放置など、劣悪な労働条件に対する不満を爆発させました。各地に労働組合が結成され、1920年4月に結成された最初の労働団体である朝鮮労働共済会は、知識人が会員の多くを占め、労働者の知識啓発や品性向上など、労資協調主義的な団体でしたが、のちには社会主義思想の影響を受けるようになりました。
一方、地主制の発達にともない小作争議もさかんになりました。1920年初頭には、地主との協調を基本とする小作人組合が指導し、高率小作料の引き下げを要求する大規模な争議が発生しましたが、半ばからは、小作権移動に反対する小規模な争議が多発しました。24年4月には、全国の労農運動を統括する朝鮮労農総同盟が組織されました。27年には階級的色彩を明確にし、朝鮮労働総同盟と朝鮮農民総同盟に分立しました。29年1月にライジング・サン社の石油貯蔵所の労働争議として発生した元山ゼネストは、港湾と運輸関係の労働者を巻き込み、植民地期最大規模のストライキに発展しました。
1920年代初頭、ロシアや日本などを経由して朝鮮にも社会主義思想が伝播しました。社会主義に基づく政治活動は禁止されていたので、研究をかかげる各種の思想団体が結成されました。25年金在鳳を中心として秘密裏に朝鮮共産党が結成され、モスクワのコミンテルン(国際共産党)から承認を受けました。共産党は、1926年4月、大韓帝国最後の皇帝であった純宗の死去を契機に、三・一運動の再現をねらって学生や天道教に工作を進めました。そして、6月10日純宗の国葬当日、ソウルで学生が万歳の高唱やビラの散布などの独立示威を敢行しました(6・10万歳運動)。しかしその後、共産党は度重なる弾圧のため壊滅し、コミンテルンの承認も取り消されました。
1929年11月、光州で発生した日本人と朝鮮人の学生同士の衝突が、植民地教育制度に反対する全国規模の運動に拡大する(光州学生運動)と、12月に新幹会は運動を支援する民衆大会の開催を計画しました。しかし、直前の弾圧により主要幹部が多数検挙されて大会は中止となりました。31年5月、新幹会は解消しましたが、近代的な「政治」のあり方を学ぶという意味で、その経験は貴重なものでした。また、27年5月、女性運動の統一組織である槿友会が創立され、新幹会と共同歩調をとりました。

近代社会の形成

「文化政治」のもと、1920年代から30年代にかけて、都市を中心に近代社会の形成が進みました。当時京城とよばれたソウルの人口は急増し、日本帝国有数の都市へと発展しました。道路の拡張、城壁の撤去や高層建築の登場などは、都市の景観を一変させました。街路には路面電車や自動車が行き交い、電気や水道の整備も徐々に充実し、官庁や大企業の従業員を中心に俸給生活者が増加しました。それのともない、百貨店や映画館、喫茶店、カフェなど都市的な消費文化の施設が増えました。人々の洋装や洋髪も暫時普及し、日本食や洋食など外食の習慣も広まっていきました。ラジオや電話、電報など新たなメディアが導入され、レコードも発売されました。さらに、欧米の文化や芸術も、おもに日本を経由する形で受容されました。
ただし、都市生活の中心にあった朝鮮在住の日本人たちは、本国の生活文化をそのまま持ち込み、それを極力維持しようとしました。神社の祭礼や花見、川遊び、紅葉狩り、初詣など、日本の一地方都市としての生活が営まれたのでした。他方、農村から大量の住民が都市に流入するようになると、都市周辺部に朝鮮人スラム街の形成が急激に進みました。その結果、都市は、洗練され先進的な中枢部と、劣悪で後進的な周辺部の二重性を帯びるようになりました。このように、日本人の生活圏と朝鮮人の生活圏が直接交わることはそれほどなく、同じ都市内でも格差は大きいものでした。
これらの都市的な文化や価値観は、都市以外の村落地域に居住する人々にとってもあこがれの対象として受け止められました。学校や官公庁、病院などを拠点として、時間厳守の観念や衛生の観念の普及、文書を通じた事務処理の徹底のような日常生活における規律の強化と一体となって、村落地域にも緩慢ながら着実に浸透していったのです。

恐慌下の農村と「満州事変」

昭和恐慌は朝鮮でも猛威をふるい、労働者が解雇されたり日本への渡航が制限されたりして、民衆を困窮させました。さらに産米増殖計画が中断されると、豊作飢饉のなかで農村は崩壊の危機に瀕しました。とりわけ、春の端境期は、自家の食糧さえ確保できず、山野の「草根木皮」の採取によって辛うじて生命を維持するような極貧の生活を強いられる農家が少なくありませんでした。そうしたなかで、北部のかん鏡道・北道を中心に社会主義思想が浸透し、「赤色農民組合運動」とよばれる激しい農民運動が展開され、支配基盤は動揺しました。
農村の社会不安を危惧する宇垣一成総督は、1933年3月、農村振興運動の開始を命じました。この官制運動は更正部落や更正農家を選定して、家計管理に至る個別指導をおこないつつ、増産と節約、副業を通じた困窮からの脱出を企てました。しかし、根本的な解決とはなりませんでした。
ところで、「文化政治」のもとでさかんになった民族運動や社会運動への対応として、総督府当局は、従来の同化主義体制を最終的には自治主義体制へと転換せざるを得ないと判断しました。29年末から、朝鮮議会の設立と帝国議会議員選出のための試案を作成し、本国政府と交渉を進めましたが、本国政府の拒否によって挫折しました。それに代わっておこなわれたのが、地方制度の改編でした。30年、道制、邑制が新たに公布され、府制が改訂されました。議決権機関として道会、府会、邑会を設置しました。この改編は朝鮮人有権者の増大をもたらし、地主や商工業者など有力者が地方政治に参加する道を拡大することになりました。その結果、朝鮮人の対日協力が進展することとなりました。
20年代から朝鮮農民の「満州」移民が増大し、「満州事変」勃発直前には約60万人におよびました。とくに豆満江対岸の「北間島」では朝鮮人が住民の多数を占めました。多くが中国人地主の小作農民である彼らに対しては、「満州」在住の朝鮮人社会主義者による組織工作が進められ、朝鮮共産党満州総局や中国共産党満州省委員会の指導下に闘争が発生しました。そして、30年5月には朝鮮人社会主義者が一斉に蜂起し、日本の軍隊や警察と市街戦を演じる事態にいたりました(間島五・三○蜂起)。また、31年7月長春郊外で水路開削工事をめぐり朝鮮人入植者と中国人農民が衝突する万宝山事件が発生しましたが、この事件の内容が朝鮮内に歪曲報道されたことにより、多くの朝鮮在住中国人が報復を受けました。
33年3月「満州国」が成立すると、在住朝鮮人のなかには中国人とともに反満抗日運動を展開する者も少なくありませんでしたが、一部は満州国のかかげる「五族協和」[*1]に呼応し、官吏や企業家として支配に協力しました。20年代からいち早く進出していた日本窒素系の企業を中心に、朝鮮北部の工業化が開始されました。

※[*1]「五族協和」…五族とは日本人・満州人・蒙古人・韓人・朝鮮人のこと。
出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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