筑紫紀行 巻九より 6 湯島にて

十二日晴。
神社仏閣を尋ねるべく参詣せんとて宿を出て町を西の方に行けば、町幅狭く町並みは悪しき。されど三階造りの大なる宿屋、或いは華好(きれい)なる小間物屋、及び麦わら細工の職人など多し。中の町に至れば四所明神の社あり。これは出石明神をうつし祭るといえり。さて出石神社は、神名帳に但馬国出石郡伊豆志座いずしにます神社八座とあり。今出石いずしという城下に坐(いま)す神社なるべし。


但州城崎里客舎 井筒屋

末代山温泉寺。これは聖武帝の勅号なりとぞ。楼門に仁王あり。燈道を三丁ほど登れば本堂あり。道智上人の開祖にて。本尊は十一面観音。木同仏師の作なりとぞ。また楼門の右に宝塔あり。左に茶師堂あり。堂の前に桜多し。右に羅人という俳人の塚あり。碑は一尺四方ありて高さ六尺ばかりなり。面に

暮行やあしきの人の初桜 羅人横に宝暦八年戌寅正月建之と彫るなり。かうの湯。茶師堂の東の山の手にあり。半径三尺ばかり。窪みざる中小温泉をたたえるなり。昔、鸛のきずを病むがここに来て浴すると癒えて去ったといい伝えなり。

独鈷水。極楽寺のうしろの山の手にあり。その他、愛宕山、弁天山、治郎兵衛塚、日より山、桃島、烏帽子岩、八畳岩、鞍掛山、絹巻島、絹巻大明神、気比けい村、小島、津居山、瀬戸山、猿ヶ島、千石岩、龍ヶ鼻、竹の浜などいう所には北海に出ざる海辺ゆえに、ふねなしでは行くべからず。この地の遊興としては今津の茶屋。または舟あそびのみとなり。北海に乗出て景色よき浦々を見るべし。或いは網舟をやといつれして魚を捕らせなどして楽しむなど。けれど荒海なれば、不意なる風波の恐れありといえり。網舟一人乗り。一日一艘の船賃四匁五分なりとぞ。

十三日晴。この地のそのまえにもいえるごとく。
病患療治のてあてにはよき所なれど、無病の人の遊息には便ならざるなし。湯は誠に天下無双と聞く上に、大酒女色の遊び絶えなけ事をば。病を治する事には必ずよくしてわざわざ遠路を尋ね来るとも必ずそういあるべし。予も年来としごろ聞き及びたるこの温湯なれば、この度幸いに立ち寄りて二三回も浴しつべしとおもいけれど、暑気の時節、ことに蚊の多き地に候。昼も蚊帳ありては居難く、もち家を出しより。

月日久しくなりにければ、僻静の地にただ一人気屈して帰心急切なるにて。おのづと久留もなりに候。明日は立たんとその用意をいたしける。さて、この地より京大坂まで駕籠、荷物、人足等を引き受け弁ずる家は魚屋八郎兵衛という駕籠一挺人足二人。丹後の名所を回りて大坂まで六日に着する賃銭八十ニ匁五分にて。雑用は川を渡る船賃のほか、ここより出す事なり。もし大風雨川留めなどにて日数延びる時は、飯料として人足一人に一日にニ匁づつ与える。もしこれらの便によって日数を延びた時は、定まれる賃銀の格好をもって日数にのびて贈与か。賃銀の内五十匁をここにて先渡しして余りは大坂にて払う。これ定法なりといえり。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 5 城崎郡へ

豊岡までは川浅く水はやし。折々舟すわりて動かぬ事あれば。船頭川に立ち入て下へ豊岡。(納屋なや村より是まで一里半)京極甲斐守殿(一万石)の御城下なり。
川舟のみなとなり。出待ちという一箇所に橋あり。ここに茶屋多し。町は通筋二十丁余りもあり。海舟も北海より乗り入れる。出町まで来るも暫く泊まって宿、船宿数多く有りて、湯島へ川舟を出す。

これより陸地を行けば、浜辺または河岸と進みし行くは岩石の難路なるよし事はならば舟に乗りて行く。右の方に愛宕山。宮島村、野上のじょう村。石山などを追い続いてあり。この石山の川岸に臨む一箇所にめずらしき石あり(玄武洞のこと)。奇形の磨磐ひきうすの如く上下平にして周りは三角四角五角八角などありて、石工の切立きりだてし如く、色は青黒し。それを掘り取り跡は洞のごとくになりたるなり。戸島村、楽々浦、左の方には一日ひといち村、二見浦。上山村、日磯ひのそ村、来日くるい村、観音浦、今津村、この村の出口に茶屋あり。樓造ろうつくりの家ありて下には川に臨みてうけ造りすもの涼の床あり。舟中より見るにも、甚だ有り致なり。湯治人遊賞の所なりといえども、かくて二丁ばかりゆけば、城崎郡湯ノ島(豊岡よりここまで三里)

御公領ゆえ久美浜の御代官所に属せり。おいてここは一筋の町にて。町の中に細き溝川あり(大谿川)。上の町、中の町、下の町、合わせて人家二百五、六十軒。宿屋大小合わせて十軒あり。下の町井筒屋六郎兵衛を大家と聞きて尋ね入り、滞留の宿を定む。家の入口より奥まで、樓上ろうじょう樓下合わせてざしきの数三十に余り。さて一室に入り休み居うに。暑気なりして冷然しせり。土地北海に近く、その上山谷の間なればなり。

十一日巳の刻過ぎより曇天になりて、未の刻過ぎより雨ふりいでぬ。ここに諸国より湯治のために来たれる人多けなれど。辺国僻地なれば、遊覧のためにうこつけ来るはまれなり。実病の人のみ多いければ、自らしめようにして華々しき遊び業もあれば、有馬などには様の事なり。湯治人旅宿旅籠の商い一日ニもんめなり。朝と未の刻頃に茶漬けを出し、昼と夕方に本膳を出す。また、座敷を借用の事にて、食べ物を自調したるもあり。室代一泊三匁に候。米・味噌・薪その他の諸物みな宿に出入りする商人通いにて入るなり。また炊き出しと称するあり。それは米を自ら運んで宿に付して日に二回炊き出しする。さすれば宿より一汁一菜と合わせて出す。かくて一回の代金一匁五厘。座敷代に合わせて四文五厘なり。

温泉に浴する事。入り込み湯には湯銭なし。幕湯の商いは一回六文なり。一日に三度つく湯女ゆなに事をしめす。別に切幕というあり。一室限りに浴するなり。一日に二度なり。一回の商い金一歩なり。湯治人初めて宿に着く時、祝儀を贈る事定めなり。この度は主の妻に百匹贈る。下女四人、僕ニ人に百匹、湯女三人に六匁。湯支配菊屋元七に銀一両贈り奥へ。

温泉はすべて五ヶ所。一には新湯、下の町の入口にあり。清潔にして甚だ熱し。一の湯二の湯と二つに隔たりなれど同じ泉なり。効能は気血を運び、胎毒・瘡毒を追い出し、創傷(切傷)など一旦うみてのち癒やすなり。

二つには中の湯ありき。匂いあり。甚だぬるし。腫れ物・切傷の類い、癒やすこと早き。故に癒え湯という。されども毒気を追い込むゆえに程もなく再発するとぞ。

三つには常湯つねゆ。四つには御所湯。五つには曼陀羅湯。この三つ大形あり。湯に同じ。曼陀羅湯はここの温泉の始めなりといえども。ほかに殿の湯は平人が入る。非人湯は非人のみ浴なり。

この地の名物として売り物は、麦わら細工、柳行李、湯の花、海苔等なり。ここでも銀札通用す。十文より一歩まであり。銭は98文を以って一匁とす。
この地は北海(日本海)を隔てる事わずか一里なり。されど魚類多くして商いいとやすし。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張)  東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 4 気多郡へ

ニ、三丁行けば(気多けた郡)岩中いわなか村。農家三、四十軒あり。引き続いて宵田よいだ町。(小田村よりここまで一里半)
上中下の三町あり。商家・宿屋・茶屋あり。町の中通に溝川あり。

引き続きて江原えばら村。人家百四、五十軒。茶屋あり。商家多く酒造の家あり。
二丁ばかりゆけば日置ひおき村。農家四、五十軒あり。

さて神名帳に但馬多気郡(※気多郡の誤り)日置の神社とあるは、この村にあらざるなり。二丁ばかり行ば、伊福いふ村(今の鶴岡)。(宵田より是まで半里)農家四五十軒。商家茶屋あり。宿屋なし。

四五丁行ば土居村。村ながら町にて。人家七八十軒。商家多く茶屋なし。町の中通に溝川あり。引き続きて手邊てなべ。(伊福村より是まで半里に近し)人家百軒計あり。商家多し。

十丁計行は水生みずのう村。岩山のすそなり。十四、五軒あり。岩の下より冷なる清水流れ出る。その水にてところてん・索麺(素麺か?)を冷やし売る。其の清水の上の岩に小さき穴ありて。奥底測られず。此の穴を隠れ里といひて。穴の中には白鼠あまた住むといへり。

これより山の尾を廻りて四五丁ゆけば納屋なや村。人家三四十軒。茶屋宿屋あり。

是より湯の島へ向けて川舟に乗らんとて。(若しくは陸地をゆくときは。佐野村、九日村、豊岡と経歴し行んといふ)船宿藍屋勘十郎といふに入て船を出さしむ。船賃の定まりは借切かりきり一人乗り二百八十文。人数五人を限りとす。駕籠かごは二人に準ず。挟箱同じ。屋形賃四十文なり。人数五人に過る時は。其の過ぎたる人数の賃を増す。二人乗りも此格好にて賃を倍するなり。船の形状海船のごとし。かくて打ち乗り行くに。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 3 養父郡へ

十日晴れ。卯の刻過ぎに立ち出ず。
二丁行けば堀畑村。農家三十軒ばかりあり。五丁ばかり行けば西は出石領、東は御公領(天領)という領地境の表あり。

これより大川(円山川)の岸を通って二十丁ばかり行けば養父やぶの宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ばかり。商家大きなる造酒屋、茶屋、宿屋多し。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町を離れれば、道の両側松の並木のあるべき所に、桑をひしと植え並べたり。一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳に但馬国養父郡水谷神社とある御社なり。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。
門は草葺かやぶき、拝殿本社は檜皮葺ひはだぶきなり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰って家に置く時は鼠をよく捕らうという。又、しばし行きて五社明神の御社なり。これは神名帳に但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に山乃口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。故にこの神は狼を遣いしやという。社僧の居所は水谷山普賢寺。本尊は薬師如来なる。

さて、大道を帰って五、六丁行けば、薮崎村(養父宿よりここまでニ五丁)。
人家四、五十軒。茶屋、宿屋あり。村のはずれより左へ行けば因州(因幡)道、右へ行けば湯ノ島道なり。一丁ばかり行けば大屋川。幅六、七十間もあるべし。夏秋の間は歩いて渡るも、冬春は舟にて渡すという。(中略)

六、七丁行けば網場なんば村。(薮崎よりここまで半里)人家百軒ばかり。茶屋宿屋あり。一丁ばかりゆけば下れば村。農家ニ、三十軒あり。五丁ばかりゆけば大森川。幅六、七十間あるを歩いて渡る。冬春は舟にて渡るという。川を渡れば大森村。御公領なり。農家ニ、三十軒。この辺り別に蚕飼を多くして家ごとにおびただしく飼う。

十丁ばかり行けば小田村。(網場よりここまで二十丁)人家四、五十軒。茶屋ありて宿屋なし。まっすぐに行けば出石の城下小出家へ。左の方湯ノ島の道にかかって三丁ばかり行く間に人家百軒ばかり立ち続くなり。また行けば下小田村。農家五十軒ばかりあり。これよりいささか上りありの坂を越えて五丁ばかり行けば江の宮(今の寄宮)村。農家ニ、三十軒あり。冬春はここより湯島へ渡る舟あり。夏秋は水浅きによりて渡さずという。二丁ばかり行けば、宿南村。農家三、四十軒。村はずれに茶屋のあるに立ち入り暫し休んで平道五、六丁行けば、左は岩山。右は気多川(円山川の気多郡内流域の名)にゆく。岩山の裾の川岸の上をば小坂を上り下りつつ行く足いと痛し。この間を岩帚いわほうきというとなり。

十丁ばかり行けば浅倉村。農家五、六十軒。茶屋一軒あり。村の出口に滝中(岩中)川となり。幅十間ばかりの川あると歩いて渡る。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 2 但馬国朝来郡へ

九日晴、卯の刻頃に立ち出ず。
駅を離れて板橋を渡れば、上粟賀村。人家二百軒ばかり茶屋あり。出口に戸田川渡りて四十間余りの川あるを土橋より渡る。これより山道に入る。

入口はよし殿村。二十丁ばかりの間に一つの小農家まぶたにあり。その先は八百軒余りあるべし。中程に春日大明神の宮を参で、殿川という谷川あり。歩いて渡る。かくてまま十丁行けば一本杉。木の□という茶屋あり。これよりは大山村の内なり。二十余り丁の間に人家七、八十軒あまりにて折には茶屋もあり。出口に小川二つとも土橋より渡る。五、六丁行けば一枚の板を橋にした小川あり。川を渡るにてゆり坂という小坂を登ると猪笹村に至る。(粟賀駅よりこれまで二里)一名、追上という端宿なり。郷町にて人家三、四十軒あり。

ここより山の谷あいに田畑なく田地の跡あり。谷間ゆえに暑気なく冷ややかなり。かくて小坂を十丁ばかり登りて十四、五丁下れば真弓村なり。この間に谷川を渡れどもに歩いて渡る。真弓で宿。追上よりここまで一里)人家四十軒ばかり茶屋、宿屋なし。

一丁ばかり行けば川あり。土橋の長さ十間ばかり川を下れば森のひ町。町家三、四丁にたちつづいて里。ここは生野いくの及び銀山の入口なり。改役所、銅問屋、その他銀山掛□の役所などありて賑わいし。七、八丁登りて行けば峠にて人家十軒ばかりあり。ここは銀山の北の方の入口にて、山代口小番所あり。銀山はここより五十丁奥にありと聞き、さて平道を志し行きて、また坂路に向かえば、路の傍らに松画きうる扇あり。手に取り上げて。

(歌を詠んでいる。中略)

三、四丁登ると峠に至る。ここは播磨と但馬との国境なり。
また一丁ばかり下ればこたた村。人家十軒ばかり茶店多くして茶屋ごとに土用餅という砂糖餅を売る。人々と共に立ち入りて思いもよし土用の節物餅を食うを心得て旅中ながら祝儀を欠かさざるなり。これは今扇を拾いけるにやなどいいたく休むほどに。荷物を持たせる人足いと暑しやとて汗おおしごびつく。(中略)

ここを出て十四、五丁下れば圓山(円山)村。人家二十軒ばかり茶屋なし。十二、三丁行けば岩屋谷村。人家五、六十軒。村中小川あり。土橋より渡る。ここより岩屋の観音へ参る道あり。四、五丁行けば茶屋あり。岩屋谷村の内なり。家続くに上津村、子村。二村すべて人家ニ、三十軒。商家あり、茶屋なし。

二十丁行けば、但馬山口駅。(猪笹村よりここまで二里)御公領(天領)なり。人家四、五十軒、宿屋あり茶屋多し。ここらあたり鮎魚多きにや。この駅にはこの魚を売る家おおしゆ。十丁ばかり行けば濶。三十軒ばかりの川あり。

土橋より渡ってニ、三丁ゆけば荒井村(今の新井)。人家四、五十軒。皆農家なり。二十丁あまりゆけば帯刀村(今の立脇)。人家六、七十軒。茶屋宿屋あり。間の宿なし。ここらあたりは麻を多く種作(つく)るもまた蚕飼を家々に営むなり。五、六丁行けば桑市村。農家三十軒ばかりあり。十丁ばかり行けば物部村。間の宿なし。茶屋宿屋農家をへて五、六十軒。十丁ばかりこの間にあり。

かくてまた十丁余り行けば竹田宿。(山口駅よりここまで二里)御公領なり。瓦葺き板葺き、打雑つまびく町屋十丁あまりに立ち続けるけり。白糸を多く出し、また白絹をおおく織り出す。また竹田椀といって下品の椀を造るも出せリ。宿屋茶屋あり。宿屋は甚だ古くよりあり。西の方の山の上に赤松左兵衛広秀の城跡あり(竹田城)。櫓天守のいしずえ石垣など高く見ゆ。赤松氏は慶長五年10月28日33歳にて逝去なりという。大森村に墓あり。かくて二十丁ばかり行けば平田(今の牧田)村。農家三、四十軒あり。この辺りは大なる川を右の方に見て。

その川岸を行くなり。この川に鮎多しといえども、十五、六丁行けば、和田山の駅。(竹田よりここまで一里)
上組下組と分けるを合わせて五丁ばかりの町続きなり。茶屋宿屋あり。宿屋はいと良きあり。十丁ばかり行けば東谷村。農家ニ、三十軒あり。五、六丁ばかり行けば土田はんだの宿。(和田山よりここまで半里)人家五、六十軒。商家、宿屋、茶屋あり。町の中通りに溝川あり。五、六丁行けば宮田村。人家四、五十軒。多くは農家にて商家もいささかあり。十五、六丁行けば高田宿(土田よりここまで半里八丁)人家百軒ばかり。町の中通に溝川あり。姫路屋宗右衛門という宿に。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
*変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す

『筑紫紀行』巻1-10  巻9
吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 1 播但道を粟賀へ

筑紫紀行は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行記として出版され、明治にも多く読まれていたようである。
巻1から10まであり、巻9は湯島(城崎)温泉と丹後へ紀行文となっている。但馬の江戸享和期の地勢が詳しく記されているので興味深い。

(変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す)

(姫路から)これより大坂に直ちに登るには、加古川に至り高砂を見て明石、須磨の浦、兵庫、西の宮、尼ケ崎を経て大坂に入る。いわゆる播州を廻ること。世人のよくする事なれば珍しきくもなし。

予年来、但馬たじまの温泉に浴をもの志ありしかども、得果さりしに。
この度よきついでなりとおもい立ちて此夜(今宵)荷物書状など取認めて大坂に送って預かり置きて。その用意をしてぞせる(横になって休む)。

八日卯の刻に立ち出て、(姫路)城の西の方を出、堀際を北へ行く。東の裏の方を南へ行けば町家を出るを、東に行く事五丁*1ばかりにして郷町へ出づ。また十丁ばかり行けば茶屋多し。三、四丁行けば白国村の道の傍らへ人家六、七軒あり茶屋なし。

七、八丁行けば砥堀村。人家五、六十軒。出口に茶屋一軒あり。下砥堀村人家三、四十軒あり茶屋なし。一丁ばかり行けば、丹生野にぶの(今の仁豊野?)駅。姫路よりここまで一里半。人家五十軒ばかり茶屋あり。町の中通りに溝川あり。

十丁ばかり行けば小川あり。石橋より渡る。ニ、三丁行けば犬飼村。農家四十軒ばかり茶屋なし。二十丁余り行けば馬橋村。人家十四、五軒。商家酒屋あれど茶屋なし。姫路よりこの辺まで三、四里、四方の平地なり。小石ありて道悪し。十丁ばかり行けば溝口村。人家四、五十軒、茶屋なし。

これより山間いの細道にて、溝口坂といって小さき山を一つ越え行くこの道、甚だ不自由にして、物事を申しいずいとさびし。中国筋の道々さえも東海道などに比べる事は似べくもあらずただ□□ありしにましてこの道は□き道なれば宿駅の内にても食物など心に任ぜず頃、日照り続きぬる暑さゆえ堪えしのんで茶を飲まんとするに。茶屋なきところ多い事は。詮方なく農家に立ち入りて家を守るという老婦に冷茶を乞い得てさわりに喉を潤すの事なり。

一里ばかり行けば新町という間の宿あり。人家五、六十軒。町の中通りを小溝川あり。茶屋、宿屋あり。ここを出て大川の堤の上を二十丁余り行けば、千束。人家二軒あり。これより山の尾を廻れば川へ添いて十五、六丁行けば□まぢ。人家五丁ばかり間に百軒ばかり。果てに茶屋あり。前に細き溝川流る。名草の滝の流れありという。この内にところてんを冷やして売る。二丁ばかり行けば近平村。人家二十軒ばかり茶屋なし。

十丁ばかり行けばちむら村。人家三十軒ばかり茶屋なし。十四、五丁行けば福渡村。人家四、五十軒、茶屋なし。五、六丁行けば大川。かちより渡る。水増されば舟にて渡る時もありという。川を渡れば尾形。(丹生野よりこれまで五里)人家五、六十軒。宿屋茶屋あり。堤道を半里ばかりゆけば谷川あり。歩いて渡る。大内口(おおごち)村、人家二十軒ばかり、茶屋なし。半里行けば谷川あり。歩いて渡る。

一丁ばかり行けば福本町*2。松平伊勢守殿(一万石)の在所なり。郷町四、五丁あり。商家、茶屋、宿屋あれど間の宿なり。二丁ばかり行けば、粟賀あわがの駅。(尾形よりこれまで一里四町)福本領*3なり。人家百四、五十軒。仏霊という銘の茶を出す。茶屋宿屋あり。河内屋傳右衛門という小宿へ。

(続きは2へ)

*1 1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
*2 福本 現在の兵庫県神崎郡神河町福本
*3 福本領 福本藩 播磨国神東郡の福本陣屋(現在の兵庫県神崎郡神河町福本)に藩庁を置いた藩。ただし、藩(大名の所領)であったのは江戸時代初期および明治維新期のごく短期間であり、その間は交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)池田家の知行地であった。

『筑紫紀行』巻1-10  巻9
吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより