5 生野本陣解散

生野本陣破陣

10月12日午後10時、

●多田弥太郎

南らを説得できず、諦めた多田弥太郎は黒田興一郎と共に沢卿のいる生野の陣営に戻り、沢卿に但馬脱出を勧めた。各部署巡視の名目で逃走した沢卿のために、「軍備を整え再挙を謀らねば大和と同じ運命を見る」との意見に一致し、断腸の思いで解散した。

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3 挙兵

十月十一日 沢卿一行は生野へ入る

十月十一日 沢卿一行は生野へ入る。
屋形村で合流した沢卿一行は生野街道を北上し、午後2時ごろに森垣村の延応寺に到着した。一行は京都の姉小路五郎丸とその主従であると言い、延応寺を休息所として利用した。この日のことをあらかじめ本多素行が住職に話をつけてはいたが、野袴を着け、長刀を銃砲を持った一行の威容に驚いた。

さっそく寺に乗り込み、やがて中島太郎兵衛、太田六右衛門ら地元勢や美玉三平らも駆けつけ、また生野代官所剣客だった伊藤龍太郎も門人15名ほどを引き連れてきたので総勢29名だった一行は、忽ち大人数となった。

午後3時には延応寺に集結した志士の内、白石簾作と川又佐一郎が沢卿の書状を持って代官所へ走り代官所借用の談判をするが、代官川上猪太郎は倉敷に出張中で不在のため交渉には元締の武井庄五郎が応接した。

元来、銀山町内での宿泊、滞在は御法度とされていたが、武井は姉小路様(沢卿)の書状を拝見し、「表立っての義軍の御逗留は役所の都合上申せませんが、通りがかりの御一泊と言うことならば、市中の御宿を手配いたしましょう。」という返答をした。話が進まず、やむお得ず当寺で夕食をとり、烏帽子直垂の沢卿を先頭に隊列を整えた一行は、丹後屋太田治郎衛門の邸へ移動する。

午後8時ごろ丹後屋に武井が交渉に訪れた。藤本義芳雑記によると、武井庄五郎は丹後屋に訪れ、二階座敷に案内された。浪士の中から、平野国臣、多田弥太郎、南八郎(河上弥市・高杉晋作のあとの奇兵隊総督)、美玉三平、藤崎左馬蔵(木曽源太郎)、虚無僧素行(本多素行)らは武井と一通りの挨拶を済ませたあと、平野は武井にこう語った。

「京都三条様始め、七卿様長州に御下りのうち、今回沢主水正様は京都へ容易ならざる感歎の筋があり、長州を出発され、我々は供として追従しましたが、諸国の吟味が厳しく、身を忍ぶ所もないので、しばらく匿っていただきたい。」
それに対して武井は、「高貴なお方を匿えと申されますが、当初のお話では一同の方々を通りがかりの御宿泊ということで約束いたしておりましたが、正義の士の方が匿ってくれとは話が違うと存じます。」と答えた。

これには平野も閉口した。今度は美玉が「先だってよりの農兵組立ての儀、早速了承していただき、感謝しております。このことに関して、代官様始め、皆様方も我々と同じく正義の一味と推察いたしております。」と言うと、
武井は「それは以ての外の事、当代官は言うに及ばず、我々も公儀の禄を食む者でございます。」と答えた。それに対して美玉は燈火の火を消し、暗闇になった部屋で一時沈黙になったが、やがて武井はポンポンと手を打ち「誰か灯かりを持って来い。」と呼びかけ、やがて浪士側の意見は通らぬまま交渉は終わってしまったという。

武井が退去したあと、南八郎(ここからは河上のことを変名の南八郎と呼ぶことにする)や戸原卯橘らから平野や美玉に代官風情に言いくるめられてこんな旅籠で悠長に戦の準備など出来るかと言い、直ちに代官所を占拠するべきだと言った。

この時点で天誅組は壊滅しており、平野国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの南八郎の強硬派に意見が分かれ、中止の本陣と強行の先陣とに志士達が分裂した。

当初の計画は、十月二日に戸原卯橘が長州三田尻から郷里の筑前秋月に出した手紙にあるように「三丹を服従致させ、直に京師へ罷越し、皇朝の恢復遠からずと存じ候えば、今日より発足致し候」というものだった。

これに対し、平野は代官所を無理に占拠するのはよくない、今しばらく時期を待つのが妥当と答え、双方またもや強行、自重の対立が始まった。互いに激しく言い争いが続き、沢卿が自分の不徳の致すところで、自分が責任を取って腹を切ると言い出し、議論は収まったが、結局は強硬派の議論の勝利となった。そうなると直ちに陣容が整えられた。陣容は以下のとおりである。
南八郎ら強硬派に押されて挙兵に踏み切った。

●総帥 沢主水正宣嘉
●総帥御側衆  田岡俊三郎(伊予) 森源蔵(阿波)
●総督 平野國臣(筑前) 南八郎(本名:河上弥市 長州)
●議衆 戸原卯橘(筑前) 横田友次郎(因幡) 木曽源太郎(肥後)
●軍監 川又左一郎(水戸) 小河吉三郎(変名:大川藤蔵 水戸)
●録事 藤四郎(筑前)
●使番 高橋甲太郎(出石)
●節制方 中島太郎兵衛(高田村) 美玉三平(薩摩) 多田弥太郎(出石) 堀六郎(筑前)
●周旋方 中條右京(出石) 太田六右衛門(竹田村) 太田悟一郎(竹田村)
●農兵徴集方 黒田与一郎(高田村) 長曽我部太七郎(阿波)
●兵糧方 小国謙蔵(地役人) 小川愛之助(地役人) 大田仁右衛門(生野町)

また、沢卿の名で宣言書(激文)が起草された。執筆は多田弥太郎、補筆は平野と美玉が行った。

 先年開港以来 御国体ヲ汚シ奉り小民共困窮致シ候ヲ 御憂慮遊バサレ 度々関東へ攘夷ノ勅下シナサレ候ヘ共 終ニ属シ奉ラズ朝廷ヲ蔑シ奉ル。
剰サエ毒薬ヲ献ジ候処 皇祖天神ノ保護ニ依り玉体恙無ク在ラセラル。
然ル処八月十七日奸賊松平肥後守始メ偽謀ヲ以テ禁門ニ乱入シ関白ヲ幽閉シ公卿正義ノ御方々ノ参内ヲ止メ御親兵ヲ解キ放チ言路ヲ隔絶シ恐多クモ今上皇帝逆賊ノ囲中ニ在ラセラル。実ニ千秋ノ一時ノ大厄ヲ醸シ恣ニ三条公始メ毛利宰相父子ヲ所置セラレ候始末
不倶載但馬ノ国ハ人民忠孝ノ情厚ク南北朝ノ時ニモ賊足利ニクミセズ皇威ヲ揚ゲ国体ヲ張り候条聞コシ召サレ兼テ頼母シク 奇特ニ思シ召サレ候 早々馳セ集り大義ヲ承り叡慮ヲ奉り奸賊ヲ退ケ震襟ヲ安シ奉ル可ク候事

癸 十月
沢主水正但馬国家旧家並ニ有志之人々 江

翌十二日未明、代官所を占拠し本陣を定め、運上蔵を開き金と米を出させ、沢卿の檄文を各村々に発表し農兵を募った。この時の触れ役は、侍髷に後鉢巻き、ぶっさき羽織に義経袴、大小を差して四枚肩の駕籠を走らせ、至る所の村々の庄屋で檄文を読んでは先へ行ったという。檄文の内容と三年間年貢半減の約束に、即日二千人を越える農兵が朝来郡と養父郡から生野へ集結した。

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6 生野義挙 終結

生野義挙終結まで

10月14日 山伏岩の自刃

「山伏岩(自決岩)」 山口護国神社内

文久3年(1863年)10月14日

そのころ、小河吉三郎(大川藤蔵)は養父郡能座村のサケジ谷(朝来市山内)というところにいた。伊藤龍太郎が妙見山の南側の陣に行く前に、小河は南らと共に妙見山にいる同藩の川又左一郎を訪ねた。午前5時頃に沢卿本陣脱出の噂を聞いた小河は、川又にこれを伝えたあと、南に下山の説得をしたのだった。小河は川又と下山したあと、大村辰之助と丹後の片山九市にあった。地の利がある片山を案内役として、丹波路に入ったころに百姓たちが後をつけてきた。農兵として駆り立てられた百姓たちは、近隣諸藩の追討を知り、沢卿一行の本陣脱出を知ると彼らに騙されたと思っていた。やがてサケジ谷にさしかかったあたりで、百姓らは激しく発砲してきた。小河は百姓に殺されるのならと、その場で自刃した。小河の介錯をした川又は大村、片山と共に縄にかかり、出石藩に引き渡された。

午後4時、妙見山に訪れた伊藤龍太郎に説得され、下山した中條と長曽我部は生野に戻り、伊藤の案内で追上峠(神崎郡神河町)まで来ていた。ここから姫路街道に落ちるつもりであった。伊藤と別れ二人は猪篠村に向かったときに百姓どもは追跡していた。浪人待てと言い放ち、発砲する。まず中條は胸板を撃ち抜かれ、長曽我部は自刃しようとしたところを狙い撃ちされた。

午後4時半ごろ

南八郎ら志士13名は、山口村妙見山の陣から生野の本陣に戻るべく討死の覚悟で降りてきた。生野の追討に諸藩が出陣したうわさを聞いた農兵召集で駆けつけてきた農民どもは村への後のお咎めを恐れ、かくなる上は浪士たちを追い払おうということになり、山口村西念寺で早鐘を打ち、妙見山麓に押寄せたのであった。集結した農民たちは、沢卿をはじめ、義軍を偽浪士と思い込こみ空砲を放ってきた。

妙見山麓に街道があり、その向こうには市川が流れている。街道沿いにいる南ら13名と、川辺にいる農民どもとのにらみあいは続した。やがて農民どもは鉄砲で空砲を撃ちかけ、浪士たちを威嚇してきた。つい先程までは浪士たちの手足となって働いていた百姓たちであるが、手のひらを返してきたのである。憎い百姓らめと抜刀して追いかけると百姓どもはパっと散り、引き上げようとすると竹槍を振り回し、空砲を撃ってわぁわぁ騒いで迫ってくる。

百姓らは幕府側の追討の火の粉が浪士たちのせいで己に降りかかると恐れている。物の分らん百姓めと切りかかろうともしたが、百姓相手に討死してもと思っているところに、川の向こう岸から岩津村(朝来市岩津)の大川勇平という愚者が実弾を放ち、これが26才の小田村信一の胸板を貫いてしまった。2、3人の者が手負いの小田村を担いで、通称山伏岩という岩陰に連れて行き、みなもそれに続き、岩陰で百姓どもの銃弾から逃れました。

彼らを恐れて、百姓らは近ずくことは出きず、しばらく睨み合いが続いたが、これ以上、百姓と戦をしても仕方がない、もはやこれまで山伏岩の岩陰でまず南八郎が切腹、続いて9名が切腹、このとき見事なのが全員の介錯をした筑前秋月藩の戸原卯橘(29才)だった。

言い伝えによると、戸原は南ら同志たち10名の介錯をしました。介錯を終えた戸原は山伏岩によじ登り、後事を託すために百姓どもを手招きしましたが、誰も近寄るものはいなかった。戸原は刀を拾い、武士の最後を見よと腹を一文字に切り、喉を突いて同志たちの死んだ岩陰に転げ落ちた。

戸原が死んで、しばらくすると山伏岩の近くの藪の中に二人の浪士がいた。氷田左衛門と草我部某で、百姓どもはまた、わぁわぁ叫びながら二人の後を追った。すると氷田が後ろざまに羽淵村の元三郎というもの肩先を切りつつけると、元三郎は驚いて川に飛び込み、家に逃げ帰ったがすぐに死んだという。元三郎が斬られて、百姓どもは一目散に逃げ帰った。そして、静かになった頃を見計らい、氷田左衛門と草我部某は刺違えた。

午後8時、南八郎ら少壮派が壮絶な最後を遂げた山伏岩に出石藩は検分に駆けつけている.。検視に来た出石藩が驚いたのは、戸原に介錯された志士たちの首か皆、頸の皮を一寸(約3cm)程を残して切ってあったらしく、出石藩士たちはこれを見て思わず感歎の声を上げたという。

13名の浪士たちは皆、鎖帷子を着けて、懐中には鰹節が2,3本ずつ入れてあったという。また、戸原卯橘に介錯された首級は出石藩士により、一人ずつ切り離され、生野代官所に届けられた。

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4 生野代官所占拠

10月12日 生野代官所占拠
生野代官所跡(朝来市生野町口銀谷)

午前2時、陣容が整うと直ちに出陣の用意に取り掛かった。物々しい様相に丹後屋太田治郎左衛門は代官所に注進した。これを聞いた元締武井庄五郎はただちに密使を出石に差し向けた。

やがて、南八郎の率いる少壮派たちは代官所を包囲した。役人どもが歯向かうようなら切り捨てる気構えであったが、婦女子には一切手荒な真似はしないように言い伝えた。やがて表門が開かれると一斉に突入した。しかし、代官所側は刀を捨てて一切戦う意思が無いことを示し、南八郎は元締武井に対し、当分代官所を拝借すると言った。また、南は御持ち出しになられる品物があれば随意持ち出されよと、寛大に措置を取った。また、武井もなかなかの人物で、代官所内にある槍などの武具は事前に穂先などを削り、あまり使えないようにしてあったという。

午前4時、無血で占拠した代官所に沢卿らが到着した。

宣言書を携え、各村々に黒田興一郎、長曽我部太七郎ら農兵徴集方や、地役人たちが農兵招集に奔走した。午前10時頃から農兵たちは集りだし、正午頃には2000人余りの兵が集った。

本陣に集った兵の前に沢卿ら首脳が現れ、沢卿は床の間の上段に座し、側には平野、南、美玉、長曽我部、多田らが甲冑をつけて居並び、本多素行が烏帽子姿で今回の義挙の大意を告げた。やがて、式が終わり、農兵たちは銀山町の来迎寺に引き移った。

午後6時、本陣ではまたもや軍議が二つに分かれた。一つは生野に籠り、敵を迎え討とうという者。あるいは軍を整えて丹波路から京へ進出し、大和追討の諸藩の兵と一戦交えようというものなど、強行派と出石、豊岡、姫路などの諸藩の追討が寄せる風聞を知り、兵器が未だ不十分ということなどから自重すべしとこの期に及び意見はまとまらなかった。

この頃、代官所元締の武井は密使を豊岡、姫路へと送っていた。幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられた。

前日に武井から送られた密使は出石に午前8時頃に到着し、出石藩は早速出陣の用意を行い、一番手は生野に向かい出陣した。一方、生野本陣では美玉三平は大阪の薩摩藩の有志あてに義挙の勧誘状を送っていた。

しかし、軍議は未だ一致せず、このときの様子を銀山新話にこう記されている。

沢殿曰く、「竹田町より京都正義の方へ急々勢揃の上、此処へ下向いたすべき旨申し遣わすといえども当時京都にても時々に変事これあり、時節、これとても当に成り難し。そのうちに南に酒井(姫路15万石)、北には仙石(出石3万石)、京極(豊岡1万5千石)、東は篠山(青山氏6万石)、福知山(朽木氏3万2千石)、宮津(本庄氏7万石)、柏原(織田氏2万石)等寄せ来たらばいかに防戦すべきかな」と、有りければ、南八郎進み出て、「仙石始め加令一時に攻め寄せ候とも、某、黒田(興一郎)に勇士14,5人を賜え。

山口(山口村)へ砦を構え、要害堅固に防戦に及べば、仙石、京極取るに足らず。南より酒井寄せ来らば、森垣(森垣村)、追上(追上峠)2ヶ所の内、美玉(三平)始め長曽我部(太七郎)、多田(弥太郎)等、地役人農兵引き具し、追上峠よりポンペン放ちかくれば、酒井勢大半討たれ、進む敵はこれあるまじく、君(沢卿)の御側には平野、本多(素行)両士等守護あらば心安き事」と、安気に申しければ、平野曰く、「南公(南八郎)は若武者ゆえ、左様に思い召され候得共、この軍中は容易ならず仙石、京極のみにあらず。三丹一所に攻め寄れば大敵なり。」その時、多田進み出て、「なにぶん無勢にて所々へ手を分け候こと、はなはだ以って危うし。某、所存は峠の切り所に陣を布き敵寄せ来たれば逆路にポンペン打ち付ける時は、岩屋谷津村子までは寄る共、一人近寄る事ある可らず。陣屋付近なれば万事駆引き自由なり。」と申せば、南八郎気色変じ、「全体この度の企て違いに相成り、勢い揃い兼ねる杯。足下方申され候へ共、諸方の集り勢、当に致し多勢小勢、杯論ずるは、必竟(ひきょう)臆病神の付くに似たり。仮令無勢にても心を一致して身命を抛(なげう)ち、精神貫き発せば何千騎の寄手なりとも、蹴散らして一人も通す間敷。黒田殿は此の辺地理委しき事ゆえ、采を取り指揮いたすべし。」とある。

午後2時、南八郎や戸原卯橘の正義同盟の少壮派志士達は先陣として北面の守りへ山口村に出陣する。生野の村は今や戦かと大騒ぎになっている。諸藩の追討に対して、南らは生野からさらに東北に二里ほど離れた山口西念寺に赴き、大挙出陣して来る出石藩に備えることにした。

翌十三日に先陣は要害堅固な妙見山のほうが陣としてはふさわしいと、早速、農民に大砲や水など兵器、兵糧を妙見堂に運ばせた。ここなら諸藩の兵が押寄せても様子が一望出来るし、大砲を撃つにも絶好の場所である。それにくらべ、生野の陣地ではたとえ楠正成以上の軍師がいても諸藩の包囲を防ぐことは出来ないであろう。南らは山頂にある妙見堂の祠の周りに陣幕を張り、陣容を整えるとすぐに生野の陣営に至急移動するように使いを出した。

しかし、決戦の構えを整えるが、同夜になって生野本陣はこの頃も相変わらず議論は続いていた。南らが出陣したものの、残された大方の意見は自重説である。今、諸藩を迎え討とうとしても勝ち目がないという意見が多かった。南らのもとに多田弥太郎が説得に向かった。銀山新話にはこう書かれている。「銀山本陣より多田弥太郎早馬にて駆け付け、(沢卿からの)書簡差し出す。南八郎披見(ひけん)して打ち笑い、出石勢近寄り候に恐怖し、この出張(でばり)を開くべしとは片腹痛し。美玉始め平野等の諸勇士は酒井勢討ち入りに備え、某は此所にて仙石勢、相防ぎ此所より一人も通すまじき。云々。」

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2 生野義挙への動き

生野義挙(生野の変)への前夜

文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。
また、この義挙は大和で挙兵した天誅組に呼応してのものだったが、ともに天領であり代官所の占拠といい、山間部での挙兵といい、ともに共通するところが多い。

その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。

そのころ三田尻の招賢閣に、筑前の平野国臣と但馬の北垣晋太郎(但馬の青谿書院出身)が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、河上弥市(南八郎)は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った(長州藩内の内紛である教法寺事件の責任のため、奇兵隊初代総監の高杉晋作は謹慎中であった。同じ大組士の家に生まれた河上は高杉の幼少のころからの親友であった)。

変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。

8月19日に七卿と同じく京を落ちた美玉三平は、21日に但馬に入り、本多素行と会い、養父市場で止宿した。翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島の鯰江伝左衛門方に止宿。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。

8月24日 平野國臣、新撰組に襲われる。
五條から帰京した平野は木屋町の山中成太郎宅を仮住まいにしていたが、ここを新撰組に踏み込まれていた。幸い留守であったのでこの時は難を逃れたが、24日には三条木屋町の古東領左衛門宅にいるところを襲撃された。このとき古東が平野を逃がし、自ら縛に就いた。

8月26日、新撰組から難を逃れた平野は、阿波の浪士長曽我部太七郎を伴って、但馬に向かった。

9月1日、京に入った北垣晋太郎(国道 のちの京都府知事)は、長州藩士野村和作、因州の有志らと会見する。そのときに野村から天誅組に呼応し、生野で挙兵の提唱をされる。

9月2日 但馬入りをした平野はまず、能座村の北垣晋太郎を訪ねるが、北垣は上京のために不在であった。その日はここで泊まることとし、翌日、円山川を下り、湯島(今の城崎温泉)の旅館三木屋片岡平八郎方で止宿した。

なぜ但馬生野で挙兵したのか

こういう状況下で農兵組立を画策、実現の運動を進めていたのが、養父郡高田村の大庄屋中島太郎兵衛、弟の黒田与一郎、建屋村(養父市)の北垣晋太郎(後の国道)、膳所藩浪士で養父市場明暗寺出張僧の本多素行らであった。しかし、この計画は容易に具体化されなかった。

生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。

なぜ生野において挙兵されたかであるが、上記の農兵の存在の他に銀山による幕府の経済要所の占領、京からも近く、山間部でしかも代官所は周囲を高い塀で囲まれ、銀山町周囲には播磨口、但馬口など7つの番所が配置されており、ある種、砦のような様相であり、天領を浪士に占拠される幕府の精神的ダメージと、諸藩への倒幕の起爆剤としての働きかけが期待された。

第一回農兵組立て会議

9月5日、養父明神別当所普賢寺(今の社務所)において、第一回目の農兵組立て会議が行われた。この会議の場所が普賢寺となったのは養父市場に居住し、代官とも交流のあった本多素行がこの農兵組立ての発起人の一人だったからである。美玉、北垣らの画策が功を奏し、生野代官も農兵に賛同したため、代官所からは小川愛之助、木村松三郎が出席した。

また、会議には生野代官の呼びかけにより支配村の代表的な豪農や村役人24,5名が集まった。この会議では各村に2,3名の農兵周旋方が指名された。中には百姓に武芸の稽古をさせたところで何の役にもたたず、百姓の気性を荒立て、また、農業の妨げになるだけなどといった反対意見も出ていたが、当会議を前に生野代官川上猪太郎は農兵周旋方を有力な百姓に命じていたために、会議は一応のまとまりを見せる形となっていた。また、この会議が行われた日に美玉三平は湯島に平野が来ていることを知った。

一方、京にいる北垣はこの日、長州の野村和作と会見し、「但馬の国は1年かけて農兵を訓練し、兵器を備え、明年秋ごろに隣国の有志と気脈を通じて挙兵すれば、近畿、中国を動かすことが出来る。この機に長州も大挙を発せられれば事は成就する。大和の天誅組は一時、楠公の赤阪城退去の例に習ってもらうのが得策である。」と京へ向かう前に美玉や但馬の同志と話あった意見を述べたが、これに対して野村は「久坂(玄瑞)、寺島(忠三郎)も兵庫から潜行して(七卿落ちから別れて)、今京に来ている。君が告げる意見書も同志らと拝見した。実に得策とは思うが、今日の勢は1日も早く大和の義挙を助けないといけない。長州人や諸藩の同志も行って、兵器なども供給して便宜をはかりたい。」と意見した。また、「平野國臣はその為に但馬に向かったので、あなたも急いで但馬に帰り、平野を助けて、大和の応援を謀ってくれ。」と告げられている。

美玉三平、平野國臣と会見する

美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。
9月8日 美玉三平、平野國臣と会見する。美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。
9月11日 美玉、平野養父明神に参拝する。
8日に美玉と再開した平野は、農兵組立てについて談義し、10日には湯島に帰るはずであった幕吏が彼の止宿先でもある三木屋にまで探索に来ているとのことで、養父市場に留まることになった。11日には養父神社で祭礼があり、身辺は決して安全とはいえないが、平野は美玉、本多らと正午ごろに参拝に出かけ、二時ごろから境内で行われた相撲を観戦したという。

9月13日 北垣晋太郎、但馬に戻る。
この日は第二回目の農兵組立て会議が行われる予定であったが、京より北垣が帰り竹田町の太田六衛門方に来ていたので、急遽会議は取りやめにし、平野、美玉、本多、中島が集まり、京の情勢の徴収をした。北垣は長州の野村和作が説いた大和義挙に呼応して兵を挙げることの必要を語った。

第二回農兵組立て会議

9月19日、13日に予定されていた2回目の農兵組立て会議が、高田村の中島太郎兵衛宅で行われた。前回と同じく、生野代官所役人も参加し、今回において農兵組立ての意見はまとまり、会議は解散となった。表向きはそうみせかけ、役人が帰ったあと、用意されていた中島宅の別室でいよいよ挙兵の決行策を協議し、この会議には平野も参加した。農兵召集に関しては表向きの会議に代官所側が出席していたので問題はないであろう。会議の結果、10月10日を期して長州にいる七卿の一人を大将として、生野にて挙兵することに決まった。

平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、平野は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)と連携して、生野天領での挙兵を計画した。さてここで、いよいよ生野で倒幕の兵を挙げる事となる。

生野義挙への動き

9月20日 会議の翌日、早速平野は長州にいる七卿の中から一人を総帥として迎えるため、長州に向かう。26日に広島に着き、後発の北垣晋太郎と合流し三田尻に向かった。
9月27日 吉村寅太郎戦死。
大和の東吉野村で戦っていた天誅組は、24日土佐の那須信吾ら6人の決死隊が彦根藩の陣に切込みを駆けるうちに、主将中山忠光は鷲家口を脱出、天誅組三総裁の藤本鉄石、松本奎堂は25日紀州藩勢との戦いにより戦死、吉村寅太郎は27日に藤堂藩勢40人の銃手に囲まれて銃殺され、事実上天誅組は壊滅した。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
幕末史蹟研究会
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1 なぜ但馬生野で挙兵したのか

但馬は石見・佐渡と並ぶ幕府の三大鉱山として栄えた生野銀山を筆頭に、明延、神子畑、中瀬、阿瀬等の金・銀などを産出する鉱山が各所にあったことからも幕府直轄領(天領)が多くあった。

1716年(享保元)、織田信長から豊臣秀吉および江戸幕府により置かれていた生野奉行を生野代官と改称した。それは産出量減少のためであった。奉行所・代官所は、現在の兵庫県朝来市生野町口銀谷の生野小学校付近にあった。江戸時代の生野奉行は11代、代官に改組後は28人が勤めた。代官には旗本が任命され、生野銀山の後背地となっていた但馬国、播磨国、美作国の天領も統治した。なお、統治規模は但馬国最大の藩である出石藩よりも大きく、江戸時代初期は5万2千石、江戸時代末期には8万2千石に達していた。明治維新期の日本の人口は、3330万人であった。しかし、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していた。このように全国各地で260年間続いた藩幕体制は崩壊に向かっていったのである。

文久2年(1862年)の頃から但馬の幕府領の豪農層などの間で農兵の組立の必要性が囁かれるようになっていた。外国船が日本沿岸に出没する社会情勢の折、北辺沿岸の防備に備えるためでもあり、領内の不意にも備えるためである。また、生野の代官は但馬から播磨にかけて244ヶ村、石高64,716石余りを支配していたが、武備に関しては裸同然であり、代官の家臣に地役人6,70人程しかいなかった。

生野天領では豪農の北垣晋太郎(のち国道)が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。

平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。
28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎えることを決めた。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めるが、藩首脳部は消極的だった。
10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かった。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置いた。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張するが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになった。

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【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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日本三大義挙 生野義挙

[wc_button type=”primary” url=”http://webplantmedia.com” title=”Visit Site” target=”self” position=”float”]生野義挙(生野の変)[/wc_button]

江戸時代後期の文久3年(1863年)10月、但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きた。「生野の乱」、「生野義挙」とも言う。
この静かな農村地帯であった但馬で、幕末にそのような大事件があったことは、くわしくは知らなかったので、調べてみることにした。


生野代官所跡

《概 要》

生野義挙(生野の変)は、平野国臣、長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、公卿沢宣嘉を主将に迎える生野での挙兵を計画した。あっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である大和義挙(天誅組の変)、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター回天義挙(功山寺挙兵)とともに日本三大義挙といわれる。