20世紀の戦争と戦時国際法 学校で教えてくれなかった近現代史(54)

戦時国際法と戦争犯罪

人間は長い歴史の中で、国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。そこで、戦争のやり方を国際的に取り決めたルールの制約のもとに置こうとする知恵が生まれました。このルールを戦時国際法といいます。1907年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表例です。

戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています。

空爆・原子爆弾投下とシベリア抑留

一方、第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする日本やドイツの多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下し民間人を無差別に殺しました。

また、ソ連は日本の降伏後、日ソ中立条約を破って満州や南樺太および千島列島に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返しました。そして、日本兵の捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、苛酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させました。

二つの全体主義の犠牲者

ナチスドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行いました。これはナチスドイツが国家として計画的に実行した犯罪で、戦争にともなう殺傷ではありません。ナチスはまた、自国の障害者や病人を注射などで薬殺し、ジプシーと呼ばれた移動生活者も大量に殺害しました。しかし、戦前からヨーロッパのどの国でもユダヤ人を迫害していました。日本は日露戦争の際にユダヤ人が高額の戦争資金を調達してくれたこともありますが、ポーランドやシベリアのユダヤ難民を助けています。

共産党の一党独裁体制が確立したスターリン支配下のソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の農民が処刑され、また餓死させられました。共産党の幹部の粛清も繰り返され、多くの政治犯とその家族が強制収容所に送られましたが、ほとんどは生きて戻りませんでした。
二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしましたが、そればかりでなく、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な犠牲者を出したことも忘れてはなりません。

欧米のアジア植民地支配

高山正之氏(元産経新聞ロサンゼルス支局長など)は、欧米のアジア植民地支配のポイントは愚民化政策だったといいます。知恵は白人のもので植民地の民のものではありませんでした。近代化の目覚めを奪うために、ただ伝統と文化を重んじさせました。インドを支配していたイギリスは、衰退気味だったヒンズー教を復興させ、イスラム系やさらに別シーク派の人たちを同じ政治区分に住まわせることで、四億の民が宗教で対立して争っている限り、団結して宗主国イギリスに抵抗する事態を避けさせました。

しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。

共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。

しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。

インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。

フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。

アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。

そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。

侵略国家にされた日本

欧米諸国が西から津波のように押し寄せ、アメリカが太平洋を東南から駆け上がってきます。北からはソ連が迫ってきます。そういう直接的な脅威を感じ、断固日本人のサムライの気風が立ち向かったのが、わが国の近現代史で、中国大陸との関係も満州事変以後というような短い時間尺度で見るべきではないでしょう。

清朝の時代は、中国史の中でも比較的に良い時代なのですが、それでも内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害など数千万単位の餓死者を出し続けた不幸な国土でした。強盗団がはびこる無法社会で、幕府治世下の法治国家を生きていた日本人が明治になっていきなり接触するにはあまりに放埒すぎました。人類史上最大の内乱といわれる太平天国の乱は十~十五年も続き、人口四億のうち五千万から八千万もの死者が出ました。中華民国になってからも内乱はやみません。中国はそのころまだ国家ではないのです。

日本はそのような状態の中国の内乱に介入すべきではありませんでした。清朝末期から国民党と中国共産党の殺し合いを経て、文化大革命に至るまで内乱の連続で、皇帝や政権が代わるたびに何百万人を虐殺してきた歴史があります。

最近でもチベット、ウイグル、内モンゴルなど、統一といって侵略によって民族を抹殺してきた歴史があり、天安門事件や農村での土地問題によって自国民でさえも民主化運動や共産党の意に添わない者は虐殺を繰り返しています。日本の文明とは異質な大陸の長い歴史に、過去のほんの一時期巻き込まれたに過ぎないのです。

ちょうど同時期に、ドイツとの戦争を始めたソ連とイギリスはそれぞれ異なる動機から、大陸に介入した日本の戦火の拡大を期待し、謀略の限りを尽くします。ソ連は日本の北進を防ぐ必要がありました。イギリスは欧州戦線にアメリカを引き込むために、中国に好意と野心を持つアメリカの反日感情を可能な限り刺激する必要がありました。イギリスとアメリカは連合して蒋介石を支援し、ソ連はルーズベルト政権の中枢にコミンテルンのスパイを送り込むことに成功しました。それらに対して日本の政治と外交の受け身の弱さでした。国際政治の修羅場で国益を守るため粘り腰でしたたかに自己主張する強さの欠如です。

満州事変以後、日本が大陸で展開したとされる国家悪など、世界史的に見れば何ほどのことでもありませんが、戦前に「侵略」という文字は欧米にのみ与えられていました。例えば『英国の世界侵略史』『白人の南洋侵略史』『米国東亜侵略史』『露西亜帝国満州侵略史』『米英東亜侵略史』『印度侵略非史』『西洋文化の支那侵略史』など数え切れぬ本がGHQによって没収、廃棄処分(焚書)されてしまいましたが、これらを見れば欧米諸国が「侵略」した側であって、それ以外ではありません。ところがいつのまにか侵略したのは日本だということにされてしまっています。

「侵略」や「天皇制」「皇国史観」も戦前は使われていません。「天皇制」はコミンテルンの指令書に出てくる「君主制」の訳語で、打倒のための革命用語が戦後に流布したものだそうです。戦前の日本人はこんな冷たく無礼な言葉を用いるはずがなく、「皇室」といっていました。日本では政治制度として「天皇制」を定めた歴史はありません。

戦後の占領支配は戦前まであった日本人の世界史を長い時間で計る目を消し去りました。日露戦争後に日本が取り込まれた英米の金融資本主義の罠、ユダヤ人の暗躍、共産党コミンテルンの陰謀など。これらすべてを歴史として描くべきです。近現代史を、日本の軍部の行動と国内政治だけを描くような歴史なら子どもたちにむしろ教えない方がよいと思います。一方の資料だけを見て、本当の意味が分かるはずはないのです。

対日戦に触れるな

中西輝政氏は、こう記しています。
第二次大戦については戦勝国側の重要資料が、未だ十分に公開されているとはいえません。ソ連崩壊によってこの十年、大戦期のソ連に関する公文書資料がほんの少しですが公開されました。その中からいくつもの驚くべき新事実が明らかになりました。

たとえば1938(昭和13)年の日ソ間で起こった「張鼓峰事件」[※1]については明らかにソ連側が仕掛けた戦いで、日本は純然たる被害者だったことが新たに分かったのです。しかし東京裁判では、これも「日本の侵略」として断罪されており関係者の処罰も行われました。また数年前に公開された旧ソ連軍の資料からは、戦後ずっと「日本側の一方的敗北」とされてきたノモンハン事件では、実はソ連側の方がはるかに大きな損害を被っていたことも明らかになりました。

そして言うまでもありませんが、現在の中国はほとんどといってよいほど資料公開をしていません。もし旧ソ連のように中国共産党体制が崩壊したときは、日中戦争についてどれほどの新事実が出てくるか、まだまだ闇の中と言わねばなりません。

情報公開に熱心なはずのアメリカやイギリスについても、ドイツの場合と比べ、なぜか日本が関わる戦争についての資料を、長く秘匿しています。たとえば、1928年の張作霖爆殺事件について、当時のイギリスの資料の中に、ソ連の関与の可能性に触れたものがあるのですが、それさえも2007年まで非公開とされてきました。1979年から90年まで足かけ12年をかけてイギリス政府の特別許可を得て、膨大な非公開文書をもとに書かれた『第二次大戦におけるイギリスの諜報活動』(全五巻)は、ドイツと米英の戦いについては、きわめて多くの新事実を明らかにしていますが、日本に関わるものについてはほとんど触れていません。同書の編集代表であったケンブリッジ大学のヒンズリー教授は、何度も「対日戦については触れてはならない、とアメリカ強く申し入れてきている。アメリカはどうして日本をもっと信用しないのか、私にはわからない」と語っています。

おそらく真珠湾関係の秘密やその他、多くの対日諜報活動が明らかになるのを恐れたのでしょう。しかしなぜ日本に対してだけ、それほど恐れるのか不可解というしかありません。またアメリカ政府は対日占領政策についても未だに大量の文書を非公開扱いにしると言われています。

いずれにしても、今後、日本の近現代史について、戦勝国側の資料公開について日本人はもっと強い関心を向けなければなりません。今ようやく初めて本来の歴史が書かれる時代を迎えており、しかもこの機会を逃すと、永遠に闇に葬られることがずい分多いと思われるからです。

[※1] 1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。この激しい紛争で日本側は戦死526名、負傷者914名の損害を出した。この事件は、第一次世界大戦の激戦をほとんど経験しなかった日本にとって、日露戦争後では初めての欧米列強との本格的な戦闘であった。

皇国史観という言葉はなかった

皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。

南北朝時代に南朝の北畠親房の『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、政治体制によって正統な歴史観として確立した(現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた)。

しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。

その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。

19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を、皇室に対する順逆によって賞賛あるいは筆誅を加える史観によって記述していた。(国定教科書)  戦後は、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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今ようやく本当の近現代史がうまれつつある 学校で教えてくれなかった近現代(53)

自虐史観と自由主義史観

自虐史観(じぎゃくしかん)とは、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。これに対して、自由主義史観は、藤岡信勝・東大教授(当時)の唱えた歴史検証法。歴史を動かす要因として「人物」を重視し、「『偉大な人物』が歴史を切り開く」との歴史観に立っている。

第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制の下で、歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合(日教組)に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。

アメリカに比べて日本の近代化の遅れ、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、皇国史観が歴史学研究に影響を及ぼし、その発展が阻害されたという反省からマルクス主義の影響を強く受けた歴史研究が主流となった。 しかしその反動が行き過ぎたため、日本の伝統・文化などの世界に誇るべき歴史の再評価の気運が生じ、「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。

ところが、『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達によって作られた新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)は、戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の誇るべき歴史を貶める歴史認識を「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。

「つくる会」は、「自虐史観」は、「戦後の歴史教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となった。」と主張する。「自虐史観教育を受けた結果、自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識を植え付けられ、「いわゆる戦後民主主義教育によって誤った歴史観(自虐史観)が蔓延した」として、「暗黒史観」「土下座教育」の改善を主張している。

外国の文化を学びつつ独自性を維持してきた日本

日本人は、外国の進んだ文化を理解するために、あらゆる努力を惜しまずやってきた民族でした。
古くは遣隋使や遣唐使が、木の船で荒波を越える危険をおかして、留学生は中(株)グローバル奥で長い期間を学習しに費やしました。帰国できないで死亡する者、やっと帰路に就いた途中で嵐にあって遭難してしまう者も少なくありませんでした。
明治になると、留学生たちは、西洋文明を学ぶ使命を帯びてヨーロッパやアメリカに渡りました。当時はまだ飛行機がなかったので、ときには1か月以上もかけて船で渡ったのです。
このように、日本人は外国から深く学ぼうとしましたが、それによって自国の文化的な独自性を失うことはありませんでした。それは各時代の文化を見ればよくわかります。飛鳥文化から江戸の文化にいたるまで何れをとっても日本らしいユニークな個性を備えつつ、しかも世界に通用する普遍的な魅力を持っているからです。

方向性が見えない二つの理由

ところが、ここ半世紀は、必ずしもそうとはいえない時代になってきました。それはなぜでしょうか。
日本人が外国の文明に追いつけ、追い越せとがんばっているときには、目標がはっきりしていて、不安がありませんでした。ところが今や、欧米諸国に追いつくという近代日本がかかげた目標を達成し、日本はどの国も目標にはできない立場に置かれるようになってきました。これが、日本人が方向性を見失いつつある一つの理由です。
しかし、もう一つの重要な理由が別にあります。

日本は長い歴史を通じて、外国の軍隊に国土を荒らされたことがない国でした。ところが、大東亜戦争で敗北して以来、この点が変わりました。
全土で約50万人もの市民の命をうばう無差別爆撃を受け、原子爆弾を落とされました。その後の占領によって、国の制度は大幅に変更させれました。戦後、日本人は、努力して経済復興を成し遂げ、世界有数の経済大国の地位を築きましたが、いまだにどこか自信を持てないでいます。戦争に敗北した傷跡がまだ癒えません。

自国の歴史と伝統を学ぶ意味

日本人が、これからもなお、外国から謙虚に学ぶことは大切です。しかし、深い考えもなしに外国を基準にしたり、モデルに見立てたりすることで独立心を失った頼りない国民になる恐れが出てきたことは、警戒しなくてはなりません。
何よりも大切なことは、自分をしっかりと持つことです。自分をしっかり持たないと、外国の歴史を学ぶことも、実はできません。そのために、さらに深く自国の歴史と伝統を学んでほしい。

『新しい歴史教科書』

戦勝国は不利な公文書を秘匿する

良く近代史の書き換えということが言われますが、そもそも、まだ本当の意味で「書かれた歴史」というものはないのです。従って「書き換え」ということもあり得ないわけです。少なくとも、二十世紀の戦争や第二次大戦をめぐる歴史は、本当は今ようやく書かれ始めている時期を迎えているのです。

歴史は資料によって書かれるものです。「近現代史」といわれるものについては、その重要な資料は各国の政府が作成した公文書ということになります。しかしどの交戦国の政府も、戦争ではみな当事者ですから、自国に不利になるような文書の公開は可能な限り先に延ばそうとします。先の戦間期のフランスや日本、ドイツのように外国部隊に占領され押収(焚書)されない限り、容易には自国の国益に大きなマイナスとなる資料の公開はしないものなのです。

戦勝国というのは、自国に有利な戦後の国際秩序(その中には当然、歴史観も含まれる)を、どれほど必死になって守ろうとするのか、そのためには、いかに手の込んだ工作やトリックを使うものであるか、ということが如実にわかるのです。

今ようやく本当の近現代史がうまれつつある

国際政治学、国際関係史、文明史の中西輝政氏はこのように書いています。
かつて留学した西欧の大学で、指導教官から「現代史というような学問は本当はないのですよ。最低50~60年経たないと大切な資料は出てこないからです。つまりそれは、本当の歴史ではないのです。」と言われたことがあると。とくに、このことは二十世紀の世界大戦や冷戦といった世界史的な出来事についてあてはまると思います。

引用:『日本人の歴史委教科書』自由社

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国際社会における日本の役割 学校で教えてくれなかった近現代史(52)

昭和から平成へ

1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇が崩御されました。60年あまりにおよぶ、激動の昭和時代は幕を下ろしました。皇太子明仁親王が即位し、新しい元号は、平成と定められました。

国際社会における日本の役割

1990年8月、イラク軍が突然クウェートに侵攻し、翌年1月、アメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍と戦って、クウェートから撤退させました(湾岸戦争)。この戦争では、日本は憲法を理由にして軍事行動は参加せず、巨額の財政援助によって大きな貢献をしましたが、国際社会はそれを評価しませんでした。国内では日本の国際貢献のあり方につて深刻な議論が起きました。21世紀を迎えた2001(平成13)年、アメリカでイスラム教徒の過激派による大規模な同時多発テロ事件が起こり、これが引き金となってアフガニスタンでの過激派への攻撃やイラク戦争が起こされるなど、世界は新たな試練を迎えました。

一方、インターネットの普及により地球上の時間的距離は一気に短縮され、大量の情報を簡単に交換できるようになったことが世界を大きく変えています。豊かさと引き換えに地球全体で自然環境が大きく崩れ始めていることも心配です。
こうした中で、独自の文化と伝統をもつ日本が、自国の安全と自由をしっかりと確保しつつ、今後、世界の平和と繁栄にいかに貢献していくかが問われています。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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共産主義の崩壊 学校で教えてくれなかった近現代史(51)

社会主義

社会主義とは、生産手段の社会的共有・管理などによって、平等な社会を実現しようとする思想・運動の総称です。狭義では、生産手段の社会的共有・管理を目指す共産主義、特にマルクス主義とその潮流を指します。日本では歴史的経緯により、この狭義を指すことが多いです。しかし広義では、トマス・モア、フェビアン協会、北欧諸国などの社会改良主義や社会民主主義、一部のアナキズム(無政府主義)、上記のマルクス主義などを含めた総称です。ヨーロッパではこの広義を指すことが多いです。

政治的には「左翼」と呼ばれ、労働組合の結成と労働条件の改善、社会保障による富の再分配、教育や医療の無償化、教会権力に対する政教分離、主要産業の国営化や計画経済による近代化、帝国主義戦争に対する反対と国際主義、などを主張します。

ベルリンの壁崩壊

アメリカがベトナムから撤退したあと、ソ連は軍事力を増強して、世界各地の共産主義勢力の援助を強化し、1979年末にはアフガニスタンに軍事侵攻しました。アメリカは1981年にレーガン大統領が登場して、ソ連に対する大規模な軍備拡張(軍拡)競争に乗り出しました。ソ連はこの競争に耐えきれず、しだいに経済を破綻させていきました。

1985年、ソ連では、ゴルバチョフ政権が誕生して、市場経済の導入や情報公開によるソ連社会の再建に取り組みました。しかし、これにより国内はかえって混乱し、東欧でも自由化を要求する動きが広がりました(東欧革命)。1989年、ベルリンの壁は壊され、翌年、西ドイツは東ドイツを統合しました。

米ソ冷戦の終結

ソ連はアメリカとの軍拡競争を断念し、米ソ首脳は冷戦の終了を宣言しました。東欧諸国では次々と共産主義政権が崩壊しました。ソ連共産党は活動を停止、1991年には、新たに独立国家共同体(CIS)が結成されました。こうしてソ連は崩壊し(ソ連崩壊)、ワルシャワ条約機構も解体し、「社会主義」のイメージは世界的に失墜しました。

共産主義体制の崩壊によって、約70年間におよぶ共産主義の実験は決着をみました。この体制は、人々に豊かで安定した暮らしを保証することができず、言論の自由など、政治的権利も保証することができないことが明らかとなりました。

共産主義崩壊後のアジア

共産党独裁体制が続く中華人民共和国やベトナムは市場原理の導入を進め、事実上の混合経済体制を築いています。現在では、社会民主主義では市民主義、軍縮、反原発、環境問題、反グローバリゼーションなども主要なテーマとなっており(ただしこれらのテーマは本来の社民主義とは別の概念)、議会政治を通した民主的な変革を目指し、マルクス主義の暴力革命論を否定します(反共産主義)。社会改良主義、民主社会主義などや、広義にはマルクス主義から転じた修正主義、構造改革主義、ユーロコミュニズムなども含みます。国際組織に社会主義インターナショナルなどがあります。

主体思想(チュチェ思想)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独自の思想で、当初はマルクス主義の発展と自称していましたが、現在では「マルクス主義を基礎にしながらもすでにそれを超克した」と称しています。
一方、狭義の社会主義政権は中南米諸国で伸張が著しい。

日本の左翼団体

社会民主党(社民党)

1996年に日本社会党が改称して発足。社会党左派を継承する。旧社会党右派は民主党に合流。はじめ社会党末期の路線を継承して「社民・リベラル」を掲げたが、野党化以降は左寄りの「社会民主主義」を押し出し、2006年決定の綱領「社会民主党宣言」では、リベラルの字句は完全に消えている。西欧・北欧などの社会民主主義政党と比べると、日本社会党時代と同様に、安全保障政策などへの姿勢は大きく異なっている。平和と福祉、環境保護、脱原子力が党の主張の中心である。日本国憲法の固持と理念の実現を呼びかけ、平和外交による紛争対処を唱える。

日本共産党

社会主義・共産主義を目指す日本の政党である。「理論的基礎」として科学的社会主義を標榜し、究極目標としての「社会主義・共産主義」を掲げているが、資本主義の枠内で、対米従属と大企業支配の打破を当面の目標としている。1922年日本社会党の元党員を中心に設立。ソ連コミンテルンに加盟していた。2009年現在国会に議席を有する日本の政党では同一の党名を維持していることでは最も古い。

民主党の支持団体

労働組合:日本労働組合総連合会(連合)(地域によっては社民党支持)、UIゼンセン同盟、全日本自治団体労働組合(自治労)、・全日本自動車産業労働組合総連合会(自動車総連)、JAM、日本教職員組合(日教組)=教育の自由化をめざす、基幹労連、情報労連、その他の単産
宗教団体:立正佼成会
業界団体:全日本遊技事業協同組合連合会(全日遊連)および日本遊技関連事業協会(日遊協)、19名の民主党議員がパチンコ・チェーンストア協会の政治分野アドバイザーを務める(自民党議員25名も所属)
2002年の日朝首脳会談で金正日が拉致を認めた後は北朝鮮との関係は凍結。朝鮮総連に対して、従来通り友好関係を維持する。社会主義インターナショナル。
その他:・部落解放同盟、在日本大韓民国民団(地方外国人参政権の獲得を目的)

出典:『日本人の歴史教科書』自由社
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米ソ冷戦下の世界と日本 学校で教えてくれなかった近現代史(50)

冷戦の進行

日本が独立を回復し、復興に努めているあいだ、米ソ両陣営の冷戦は激化していきました。両国は原子爆弾より大きな破壊力をもつ水素爆弾(水爆)の開発に成功し、核爆弾を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を設置して、相手国を直接破壊できる攻撃力を備えました。このためのロケット技術を使い1957年ソ連が初めて人工衛星の打ち上げに成功、アメリカもそれに続いて、両国は宇宙技術の開発でも競い合うことになりました。

ソ連では、スターリンの死後、1956年、共産党のフルシチョフ第一書記がスターリンの政策を批判し(スターリン批判)、アメリカとの平和共存を提唱して「雪解け」と呼ばれましたが、社会体制の違いに由来する米ソの冷戦はおさまりませんでした。

東西に分断されたドイツでは、1961年、東ドイツが住民の西側への脱走を阻止するため、東西ベルリンを隔てる壁を築きました(ベルリンの壁)。1962年には、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしたことから、米ソの間に核戦争が起こりかけました。この時、アメリカは強硬な姿勢を貫いたため、ソ連はミサイルを撤去しました(キューバ危機)。

1965年、アメリカはインドシナ半島の共産主義化を警戒し、ソ連や中国が支持する北ベトナムに対抗して南ベトナム政府を支えるため、直接軍隊を派遣しました(ベトナム戦争)。しかし、アメリカ本国を含む各国でアメリカの軍事介入に反対する非難が高まったので、1973年、ベトナムから撤退しました。2年後には、北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立し、アメリカの威信は傷つきました。

経済復興から日米安保改定

日本では、朝鮮特需ののち、長期の好景気に恵まれました。経済は戦争前の水準に復帰し、1956(昭和31)年には、「もはや戦後ではない」といわれるようになりました。一方、ソ連を理想とする共産主義も進歩的な理想として労働者や学生、知識人を魅了するようになりました。
1957(昭和32)年に首相になった岸信介は、こうした日本の復興を背景に、日米安全保障条約の改定をめざし、1960(昭和35)年1月、新条約を調印しました。これにより日米両国は、より対等な関係に近づきました。

ところが、これに対して学生や労働者を中心に安保条約の改定を日米軍事同盟の強化になるとして反対する運動が起きました。1960年5月、自民党が新安保条約の国会承認を強行採決すると、国会周辺をデモ隊が連日のように取り囲む大きな争乱になりました(安保闘争)。岸は新安保条約成立ののち辞職しました。

岸首相のあと首相となった池田勇人は、安保をめぐっての大衆騒動が再び起きるのを避けるため、自民党が結党のときにかかげた自主憲法制定や防衛力強化という課題には手をつけず、10年間で所得を2倍にするという所得倍増政策をかかげました。

高度経済成長

日本の経済は1960(昭和35)年ごろよりほぼ10年間、年率10%という世界の歴史でもまれな奇跡といわれる成長を遂げました(高度経済成長)。1968(昭和43)年には、国民総生産(GNP)は資本主義陣営でアメリカに次ぎ世界第2位となりました。ソニーやホンダ、トヨタなど世界的な企業が成長しました。中小工場の現場における無数の人々のさまざまな工夫や発明の積み重ねも、産業の発展に大きな役割を果たしました。

また、高速道路や1964(昭和39)年、10月1日、東京と大阪の間を所要時間をそれまでの半分近くで結ぶ東海道新幹線が開通、庶民の生活にも電化製品や自動車が普及しました。農村も豊かになり、米の生産は過剰になって減反政策がとられるほどになりました。世界での日本の地位も向上し、1964(昭和39)年10月10日には東京オリンピックが開催され、1970(昭和45)年には大阪で万国博覧会が開かれました。これらはアジアで初めて開催されたものでした。

高度経済成長後の社会と経済

1960年代後半から、工場の煙や排水など産業廃棄物による公害が問題となりました。水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病、自動車の排気ガスによる大気汚染、家庭での洗剤による河川の汚染などの解決が求められました。これに対し、1971(昭和46)年、環境庁が設置され、公害防止の対策がとられて、状況は改善されていきました。

1970年代に入ると、中東の産油諸国が、石油の輸出を規制したため、この地域の石油にエネルギーを依存する日本経済は、2度にわたって深刻な打撃を受けました(オイルショック)。しかし、これによって電気製品の消費電力を極度に減らすなどの省エネルギー技術が発達し、日本経済はかえって強くなり、その後の発展の基礎となりました。

外交関係の進展

1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償2億ドル無償3億ドルの経済協力を約束しました。

アメリカの施政化にあった沖縄では、祖国復帰運動がさかんになりました。佐藤栄作内閣は、非核三原則を表明し、核兵器抜きで基地を維持するという条件で、沖縄返還への同意をアメリカから取り付け、1972(昭和47)年5月、沖縄本土復帰が実現しました。
1970年代になるとアメリカのニクソン大統領は、北ベトナムを支援するソ連への牽制もあって、中華人民共和国に接近し、両国関係は正常化に向かいました。それを受けて、1972年9月、田中角栄首相が訪中して日中共同声明に調印し、両国の国交が正常化されました。しかし、これによって台湾の中華民国との国交は断絶しました。その後、1978年には、日中平和友好条約が結ばれました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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独立の回復 学校で教えてくれなかった近現代史(49)

国際連合と冷戦の開始

1945(昭和20)年10月、連合国は、2度の世界大戦への反省に立ち、新たな戦争を防ぐための国際組織として、国際連合(国連)を結成しました。しかし、戦争の芽はなくなりませんでした。東ヨーロッパを占領したソ連は、各国共産党の活動を通じ、西ヨーロッパにまで共産主義の影響を及ぼし始めました。アメリカは、その影響力を封じるため、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行い、1949年にはソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。

一方、ソ連も、1949年には原子爆弾を保有し、NATOに対抗して、1955年東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成しました。ドイツも東西に分断され、世界はアメリカ率いる自由主義陣営とソ連が率いる共産主義陣営が勢力を争う、冷戦の時代に突入しました。

中国では日本の敗戦後、それまで抗日で手を結んでいた国民党と共産党が、国共内戦を再開しました。1949年には、毛沢東が率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立しました。一方、蒋介石が率いる国民党は台湾に逃れました。朝鮮半島では1948年、南部にアメリカが支持する大韓民国、北部にソ連の影響下にある朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がちくられ対立しました。こうして冷戦はアジアへと広がりました。

占領政策の転換

冷戦が始まると、アメリカは日本の経済発展を抑える政策を転換し、共産主義に対抗するため、日本を発展した経済をもつ自由主義陣営の一員として育てる方針に変えました。

1950年6月、北朝鮮は、南北の武力統一をめざし、ソ連の支持のもと突如として韓国へ侵攻しました。韓国軍とマッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍がこれに反撃しましたが、北朝鮮側には中国義勇軍も加わり戦況は一進一退をくり返しました。戦争は1953年に休戦協定が結ばれるまで続きました(朝鮮戦争)。日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮に出動したあとの治安を守るために、日本はGHQの指令により警察予備隊(のち保安隊、1954年から自衛隊)を設置しました。また、日本は国連軍に多くの物資を供給し、その生産で日本経済は息を吹き返しました(朝鮮特需)。

独立の回復

朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは基地の存続などを条件に、日本の独立を早めようと考えました。1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に自由主義陣営など48か国と、サンフランシスコ講和条約を結びました。さらにアメリカと日米安全保障条約(日米安保条約)を結び、米軍の駐留を認めました。

1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復しました。ただし、沖縄・小笠原諸島は引き続きアメリカの施政したに置かれました。

ソ連は、国後・択捉島など北方領土を日本領と認めないため、日ソ間で平和条約は提携できず、1956年10月に日ソ共同宣言で戦争状態を終結し、国交を回復しました。これでソ連の反対がなくなり、同年12月、日本は国連に加盟して国際社会に復帰しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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日本の復興と国際社会 学校で教えてくれなかった近現代史(48)

占領の開始

1945(昭和20)年8月末、アメリカ軍を主体とする連合国軍による日本占領が始まりました。
アメリカの占領目的は、日本が再びアメリカの驚異にならないよう、国家の体制をつくり変えることでした。日本政府は存続しましたが、その上にマッカーサー司令官が率いる連合国軍司令部(GHQ)が君臨し、その指令を二被音声夫が実行しました。

ポツダム宣言にもとづき、陸海軍は解散させられました。外地にいた軍隊は武装解除され、日本への復員が始まりました。
1946(昭和21)年からは、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれ、戦争中の指導的な軍人や政治家が、「A級:平和に対する罪」などをおかした戦争犯罪者(戦犯)であるとして7人が死刑判決を受けるなどそれぞれ裁かれました。また、GHQは、戦時中に公的地位にあったものなど、各界の指導者約20万人を公職追放しました。

GHQは、日本政府に対し、婦人参政権の付与、労働組合法の制定、教育制度の改革などの五大改革を発しました。民主化とよばれたこれらの改革のいくつかは、すでに日本政府が計画していたものと合致し、矢継ぎ早に実行されていきました。また経済の面では、戦争中に大きな影響力をもったとして財閥が解体され、農村では農地改革が進められました。

日本国憲法

GHQは、大日本帝国憲法の改正を求めました。日本側ではすでに大正デモクラシーの経験があり、明治憲法に多少の修正を施すだけで民主化は可能だと考えていました。しかし、GHQは1946(昭和21)2月、わずか約1週間でみずから作成した憲法草案を日本政府に示して、憲法の根本的な改正を強く迫りました。

政府はGHQが示した憲法草案の内容に衝撃を受けましたが、それを拒否した場合、天皇の地位が存続できなくなるおそれがあると考え、やむを得ずこれを受け入れました。GHQの草案にもとづいて政府は憲法案をつくり、帝国議会の審議をへて、1946年11月3日、日本国憲法が公布されました(施行は1947年5月3日)。

日本国憲法は、世襲の天皇を日本国および日本国民統合の象徴と定めました。さらに国民主権をうたい、国会を国権の最高機関とし、議院内閣制を明記するとともに、基本的人権に関する規定が整備されました。また、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄と、そのための戦力を持たないと定めたことでは、世界で他に例を見ないものとなりました。これとともに戦後の諸改革も進められました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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終戦をめぐる外交と日本の敗戦 学校で教えてくれなかった近現代史(47)

空襲の被害

戦争末期、国民は直接、戦火にさらされることになりました。1944(昭和19)年7月、日本の委任統治領だったマリアナ諸島の一つサイパン島が陥落し、ここから日本本土を空襲できるようになったアメリカ軍は、年末から爆撃機B-29による無差別爆撃を開始しました。子どもたちは危険を避け親元から離れた地方の寺や親戚の家などに疎開しました(学童疎開)。1945(昭和20)年3月11日には、東京大空襲が行われ、一夜にして約10万人の市民が命を失いました。

4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、ついに陸上の戦いも日本の国土に及びました。日本軍の死者約9万4千人、一般住民の死者も約9万4千人を出す戦闘の末、2ヵ月半のちに連合軍は沖縄を占領しました(沖縄戦)。

ヤルタからポツダムまで

ヨーロッパでもアジアでも、戦争の体制は決まりつつありました。1945(昭和20)年2月、ソ連領クリミヤ半島のヤルタに、米・英・ソ3国の首脳が集まり、連合国側の戦後処理を話し合いました(ヤルタ会談)。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、アメリカの負担を減らすため、ソ連の参戦を求めました。スターリンは、ドイツとの戦争が終わってから3ヶ月後に対日参戦すると回答し、その代償として、日本領の南樺太と「千島列島を要求し両者は合意しました。

4月、ルーズベルトが急死し、副大統領のトルーマンが大統領に昇格しました。連合軍がベルリンに侵攻すると、ヒトラーは自殺し、ドイツ政府は崩壊しました。5月、ドイツ軍は無条件降伏しました。

7月、ベルリン郊外のポツダムに米英ソ3国の首脳が集まり、26日、日本に対する戦争終結の条件を示したポツダム宣言を、米英中3国の名で発表しました。

原爆投下とソ連の侵攻

日本政府内では、沖縄を占領された6月ごろから、戦争終結をめぐる最高指導者の会議が何度となく開かれていました。日本政府は、対日参戦を密かに決めていたソ連に、そうとは知らずに連合国との講和の注解を求めました。

ポツダム宣言が発表されると、鈴木貫太郎首相や主要な閣僚は、条件付の幸福要求であることに着目し、これを受諾する方向に傾きました。しかし、陸軍は反対し、本土決戦を主張して譲りませんでした。政府はしばらくソ連の仲介の返答を待つこととしました。そのあいだに、8月6日、アメリカは世界最初の原子爆弾(原爆)を広島に投下しました。日本政府も終戦を急ぐ他はありませんでした。8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、翌9日、満州に侵攻してきました。また同日、アメリカは長崎にも原爆を投下しました。広島では15万人、長崎では7万5千人が亡くなり、さらに多くの人々が放射能被爆の後遺症で苦しむことになりました。

聖断下る

9日深夜、昭和天皇の臨席のもと御前会議が開かれました。ポツダム宣言の即時受諾について、意見は賛否同数となりました。10日午前2時、鈴木首相が天皇の前に進み出て聖断を仰ぎました。天皇は、ポツダム宣言の即時受諾による日本の降伏を決断しました。8月15日正午、ラジオの玉音放送で、国民は長かった戦争の終わりと、日本の敗戦を知りました。明治以後、日本の国民から初めて体験する敗戦でした。
日本の降伏によって第二次世界大戦は終結しました。大戦全体での死者は数千万人にのぼると推定されています。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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大東亜会議とアジア諸国 学校で教えてくれなかった近現代史(46)

アジアに広がる独立への希望

日本の初戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育てました。東南アジアにおける日本軍の破竹の勢いの進撃も、現地の人々の協力が合ってこそ可能でした。もともと親日家だったタイに加えてシンガポールなどで日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士の中からインド国民軍が結成され、日本軍と協力してインドに向けて進撃しました。インドネシアやビルマでも、日本軍の指導で軍隊がつくられました。

大東亜会議

日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め、合わせてその結果を示すため、1843(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開催しました。
会議では、連合国の大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言が発せられ、各国の自主独立、相互の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたいあげました。この会議以降、日本は、「欧米勢力を排除したアジア人による大東亜共栄圏の建設」を、戦争の表向きの目的として強調するようになりました。
この会議の出席者のうち、中国は重慶の蒋介石国民党政府に対抗してつくられた南京政府。また43年、日本はビルマ、フィリピンを独立させ、チャンドラ・ボースの自由インド仮政府を承認させました。

アジア諸国と日本

この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えました。占領した東南アジアの各地では軍政をしきました。現地の独立運動の指導者たちは、欧米諸国からの独立を達成するため、日本の軍政に協力しました。

しかし、日本の占領地域では、日本語教育や神社参拝を強いた(最近では自由だったという研究がある)ことに対する反発もありました。連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動もおこり、日本軍はこれにきびしく対処し、一般市民もふくめ多数の犠牲者が出ました。また、戦争末期になり、戦局が不利になると食料が欠乏したり、現地のひち人が苛酷な労働に従事させられる場合もしばしば起きました。

日本の南方進出は、「アジアの開放」という名目をかかげながらも、自国のための資源の確保を目的としたものでしたが、日本が敗戦で撤退したあと、これらの植民地は、ほぼ十数年の間に次々と自力で独立国となりました。日本軍の将兵の中には、敗戦のあと現地に残り、これら植民地の独立勢力に加わった者もありました。

「日本軍は、長いあいだ、アジア各国も植民地として支配してきた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えた。『自分たちの祖国を自分たちの国にしよう』という心を目覚めさせてくれたのだ」--マレーシアの独立運動家ノンチックの著書より

日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々

数百年にわたってオランダの植民地とされてきたインドネシアには、昔から一つの伝説が語り継がれていました。ジャワ島にあった小さな王国がオランダによって滅ぼされるとき、王様が次のように予言しました。「今に北方から黄色い巨人が現れて、圧制者を追放し、トウモロコシの実がなるころには立ち去る。そうしてわれわれは開放される」。

似ろ戦争のとき、ロシアのバルチック艦隊がマラッカ海峡を埋め尽くして進んでいくのを見たとき、インドネシア人は、「北方から来る黄色い巨人とは、日本人のことに違いない」と信じるようになり、密かに日本の南進を待ちこがれていました。

1942年、日本軍がインドネシアに進駐すると、人々は道ばたに集まり、歓呼の声を上げて迎えました。実際、日本は、3年半の占領期間に、オランダ統治時代では考えられないPETAと称する軍事組織の訓練、中等学校の設立、共通語の設定、集団検診、現地青年を集めた技術者養成所など、のちの独立の基礎となる多くの改革を行いました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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