物部氏4/4 物部氏ゆかりの神社と日本統一へ

注連縄(しめなわ)


出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。
しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼
延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。
たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は神道に変わり聖徳太子は蘇我氏と仏教によって国をまとめようとしてのです。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28
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全国的にも式内神社が多い但馬

但馬の国造り伝説

円山川に沿う五社の伝説は、どのようにしてできあがってきたのだろうか。その背後にあった太古の記憶は、どうすれば解き明かすことができるのだろうか。

アメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

注目すべき点

注目するのは、粟鹿神社、養父神社、小田井神社は但馬の名神大社、但馬総社気多神社、のいずれも祭神は、当地開拓の祖神として大己貴命(くにつくりおほなむち)を祀っています。伊和神社祭神:伊和大神(いわおほかみ)も同一神とされます。出石神社以外の神社は、円山川河口を切り開き国を造ったヒボコのことは一切ふれていませんし、出石神社もかつての祭神は天日槍ではなかったという説もあるそうです。そうなったのは記紀・播磨風土記に但馬・丹後の話がやたらに書かれる崇神天皇・崇神天皇・神功皇后あたりからなのです。

但馬一宮は粟鹿神社から出石神社に変わっています。同じように出雲一宮 素餓社から出雲大社へ、丹後一宮も真名井神社から元伊勢籠神社へ、角鹿社から気比神宮へと、もともとの神様から天皇系の神様に替えられているようです。

西刀神社[せと](豊岡市瀬戸字岡746)も、円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じて瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝えられております。

円山川は暴れ川といわれ、とくに小田井神社当たりの円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いています。

今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。 円山川河口部は黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれていた入江湖だったので国作大己貴命(くにつくり-)と祭神名を「国を作った大己貴命」とあえて加えているのがなんとも信憑性がありそうです。

出石神社も但馬の古社で同じように祭祀年代は不詳ですが、鎌倉時代の『但馬国大田文』では栗鹿神社を二宮としていますが、室町時代の『大日本一宮記』では栗鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。絹巻さんは海に近く海の神様 天火明命(あまのほあかりのみこと)で元伊勢籠神社と同じですから納得できます。大己貴命同様出雲系の神です。その他の但馬の大社は自然神なのでもっと古社でしょう。大和の天皇系は出石神社の天日槍のみなのです。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点で共通している点です。

但馬(たじま)国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が多く存在していますが、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。

但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。

神社が多い但馬

全国の神社について公式に記録で現存するのは、平安時代中期(十世紀)の初頭選定された、「延喜式・神名帳」です。全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。
新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

大和國286座大128小158
伊勢國253座大14小235
出雲國187座大2小185
近江國155座大13小142
但馬國131座大18小113
越前國126座大8小118

近隣で比べると、
丹波國:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭國:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨國:50座 大7 小43

となっています。決して大和や出雲に比べて華やかな歴史が残っているわけではないのに、全国で5位、近隣を遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。ただし、古くは丹後國、但馬国も丹波国の一部ですから、合わせると267座は、大和に次ぐ全国2位です。

ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い神社を弥生時代に起源を求め、ご紹介します。

名神大社(十八座)

朝来郡朝来市粟鹿神社名神大・旧県社
養父郡養父市養父神社(夜夫坐神社)名神大二座。小三座・旧県社
水谷神社名神大・旧村社
出石郡豊岡市出石町出石神社(伊豆志坐神社)名神大八座・国幣中社・別表神社
御出石神社名神大
気多郡豊岡市日高町山(やま)神社名神大・旧村社
戸(へ・との)神社名神大・旧村社
雷(いかづち)神社名神大・旧村社
豊岡市竹野町?(木偏に蜀)椒(ほそぎ・はじかみ)神社名神大・旧村社
城崎郡豊岡市海(カイ・あまの)神社名神大・旧村社

但馬一の宮

一宮(いちのみや)は、神社の格式を記した『延喜式(十世紀)』には、一宮等の区別を定める規定はありませんが、祭祀・神階などの点で、他社にまさって有力な神社とされるものが明らかに見られるので、それらの最上位のものが一宮とせられ、以下、二宮・三宮・四宮等などの順位を附けて行ったもののようです。

おそらく平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と考えられますが、それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を拡大するに至って、おのずからその国の神社の階級的序列が生まれ、その首位にあるものが一宮とされ、そのことが公認されるに至ったもののようです。

出石神社は但馬一の宮で大変古い神社ですが、このあと天日槍(あめのひぼこ)の項で詳しく述べるとして、但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされています。但しいくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の「但馬国大田文」では粟鹿神社を二宮としていますが、室町時代の「大日本一宮記」では粟鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。室町時代は山名宗全が出石神社に近い出石此隅山城を本拠として出石神社を擁護し、応仁の乱の際には出石神社に祈願して此隅山城から出陣したと伝えられているので、記載されていないのが不思議です。

山陰道但馬国
一宮 出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内
一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
二宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
三宮 水谷神社 兵庫県養父市奥米地字中シマ235
三宮 養父神社 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3

粟鹿神社については、一宮とも二宮ともいわれています。
名神大18は以下の通りで、全国的に大和国 大128、山城国 大53に次いで多い。山陰道でも圧倒的に多く、しかも自然神が他国では皆無なのに19社中5社はきわめて珍しい。

但馬五社

またこれとは別に、但馬を南北に流れる円山川沿いに絹巻神社・出石神社・小田井縣神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」と呼び親しまれています。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。

粟鹿神社 朝来市
養父神社 養父市
出石神社 豊岡市出石町
小田井縣神社 豊岡市
絹巻神社 豊岡市

2009/08/28

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