【もう一つの日本】物部氏1/4 もう一つの天孫降臨

饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

ニギハヤヒは、それぞれの駐留地点を中心に、水稲の栽培を始め、麦・黍・栗などの栽培を拡めたといいます。

とするとよく似た話が徐福伝説です。つまり秦の始皇帝の圧政に耐えかね、日本列島に活路を求めた人々こそが縄文人と融合して弥生人となった渡来人ではないかというのです。

さて、オオナムチ(大己貴命)は、オオクニヌシ(大国主)という別名があります。一般的には、こちらの方がよく知られているのですが、但馬郷土史研究の基礎『校補但馬考』の著者であり、日本の天気予報の創始者でも知られる桜井勉氏が偽書としている『但馬故事記』には、「彦坐王」(ヒコイマスオウ)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称号を得たとの記述があります。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事のような職制上の称号であったのでしょう。オオナムチはスサノオから、オオクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということです。同様に他の地方には、その地方のオオクニヌシ(国造のようなもの)がいたのであり、『記紀』に記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで説明がつきます。

『記紀』では、スクナヒコナ(少彦名)は、タカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊)の子であると言いますが、タカミムスビの別名に「高木の神」があります。

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけました。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、アメノオシホミミ[*2]の子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。

『播磨国風土記』では、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神=大汝命(大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。

ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)[*3]は、日本の祖であり、神武はその養子だといいます。この事実を抹殺し、出雲王朝とヤマト王朝の関係を抹殺するために、『日本書紀』は、イザナギとイザナミによって創造されたのであるとしています。その証拠に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう)と「大神神社」の古文書と十六家の系図を没収し、抹殺したという資料をつかんだとも述べています。それは、691年のことであるらしいのです。

ニギハヤヒも、父・スサノオ同様、さまざまな別名を与えられています。
フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですが、「天照国照彦命(あまてるくにてるひこのみこと)」・「天火明命(ほあかりのみこと)」・「彦火明命(ほあかりのみこと)」は、フルネームの一部であり、ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)のことです。

別名としては、
・櫛玉命(くしたまのみこと)
・「大物主大神」
・「布留御魂大神」(ふるのみたまおおかみ)
・「日本大国魂大神」(やまとおおくにたまおおかみ)
・「別雷命」(わけいかずつのみこと)→上賀茂神社
・「大歳御祖大神」(おおとしみおやおおかみ)
などです。

古代、朝鮮半島の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨すると信じていました。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神です。スクナヒコナとタカミムスビの関係は、どうでしょうか。
『富士宮下文書』は、スクナヒコナは、タカミムスビの曽孫(ただし養子である)であるとし、
「祖佐之男命(スサノオノミコト)、朝鮮新羅国王の四男・太加王」
と具体的に記しています。

この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではありませんが、スクナヒコナとタカミムスビとの関係の深さはわかります。タカミムスビは、実在した人物ではなく、観念的な神でしょうが、スクナヒコナに代表される「昔(ソク)」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができます。

スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」であったはずです。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政庁をおいて繰り広げられていました。「出雲」のオオクニヌシであったオオナムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのでしょう。その上に君臨していた人物、「牛頭天王」ことスサノオであり、文字通り、天皇です。

しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ始めました。朝鮮半島での基盤を失ったのです。さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こりました。スサノオの死です。
『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが嘆いていると、海を照らして神がやって来たと記しています。この神は、「大和」の三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だといいますが、この物語こそ、スサノオ尊の死を暗示していると思われます。

『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしています。
「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができたろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ。」
これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた最後の言葉です。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナムチに依頼したのでしょう。もちろん、「大和」の三諸山ではなく、オオナムチが国土経営を成功させたのは、「出雲」です。そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込んでくるのでしょうか。つじつまを合わせるために他ならないのです。
確かに、「ヤマト」は勢力範囲であったかもしれませんが、出雲の神を三輪山の神に比定するにはかなり無理があります。

三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山ではないでしょうか。そこは、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であるからです。

もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる 『先代旧事本紀』というのが後世に出ています。この書の真偽性を疑う学者もいますが、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。
一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ九州北部の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラス(天照大神)から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは本来「海船(あまぶね)」を意味します。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。

これらは、アマテラス(天照大神)の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。
したがって、ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。

ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った、とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。

また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。
この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。
ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。 とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。この説でいうと邪馬台国は最初九州北部にあり、大和に移動したのかも知れません。邪馬台(ヤマト)は大和(ヤマト)と同じです。第一次が九州北部、第二次が大和とすると、邪馬台国どちらにあったかという論議は、解決できてしまいます。

関裕二氏は、纏向遺跡に集まった人々の中で、ヤマト建国の中心に立っていたと考えられているのは吉備である。それはなぜかといえば、記に唐ヤマトにもたらされた特殊器台形土器や特殊壺形土器が、宗教儀礼に用いる特殊な土器だからだ。政治を「マツリゴト」といっていた時代、吉備の果たした役割は、軽視できない。前方後円墳の原型が、弥生後期の吉備にすでに出来上がっていたこともわっかってきている。それが楯築弥生墳丘墓(岡山市)で、円墳の左右に突出部が二つくっつくという奇妙な形をしている。

一方、物部氏といえば物部守屋を思い浮かべるが、守屋が滅びたのは、現在の大阪府八尾市の周辺だ。物部氏はこの一帯を地盤にしていたが、八尾市からは、三世紀の特殊器台形土器や吉備系の祖飢餓出土している。記にからヤマトに続く通り道である河内は、必ず押さえておかなければならない要衝である。物部氏は吉備系ではないだろうか。

ヤマト朝廷が発足後間もなく出雲潰しに向かったのは、瀬戸内海と日本海の流通ルートの対立と捉えれば、その意味がはっきりとしてくる。としている。
2009/08/28

【日本神話】4.日向神話1/3 天孫降臨(てんそんこうりん)

■日向神話の構成

日本神話の中心は古事記・日本書紀にみえる神話です。この2つの書の神話は必ずしも同じではないが、全体としては1つの筋をもっていて、日本国と皇室の創生の物語が中心となっています。その物語の舞台は3つあります。日向と大和、そして出雲です。

出雲の場合は大方が独立した物語で展開します。それに対して、日向と大和の場合は、天・地・海の神の世界から日向へ、日向から大和へと連続した物語として展開します。

このように2つの書は、内容上は、大きくは「神の世界の物語」から「日向での神と人との物語」そして「日向から大和の人」の物語へと展開します。
なかでも注目されるのは、日向を舞台とした「神」の世界から「神と人」の世界として展開し、それは「日向三代神話」とよばれています。

それはアマツカミ(天神)「ニニギノミコト」の御代の
「天孫降臨」
「コノハナノサクヤビメの結婚」
「火の中の出産」
アマツカミ(天神)「ホホデミノミコト」の御代の
「海幸・山幸」
「海宮遊行」
アマツカミ(天神)「ウガヤフキアエズノミコト」の御代の
「ウガヤフキアエズの誕生」
それに神武天皇の
「神武東征(東行)」

以上7つの物語が主たる内容になっています。そしてその物語の展開は、アマツカミ(天神)とその子孫がクニツカミ(地神)のヒメ神と、さらにはワタツミノカミ(海神)のヒメ神と結婚し、人皇であるカムヤマトイワレビコノミコトが誕生するという構成になっています。これは、アマツカミ(天神)によるクニツカミ(地神)とワタツミノカミ(海神)の統合の上に人皇初代が生み出されたという古代の人々の考えが表わされていて、これが日向を舞台としている神話の特色です。

なぜ古代国家のなかでも、都から遠くはなれた僻遠の地にある日向が、これらの物語の舞台になったのであろうか。それは一口でいえば、この物語が創りだされる時代に、日向が朝廷と深いかかわりを持っていて、日向を無視できない事情があり、また物語の展開の上で最もふさわしい土地とみられる要素があったことが考えられる。歴代天皇にかかわる日向の女性が物語のなかにしばしば登場するのもそれらを示唆しているものと思われます。

1.天孫降臨

雲の上のまだずっと高くの神様の国で、この日本を造った神様たちがお話をしていました。アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様にいいました。「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」

それでニニギノミコトは神様の国を離れて、筑紫の日向の高千穂という場所に降り立ったのです。

2.コノハナノサクヤビメの結婚

高千穂に降り立ったニニギノミコトはその近くに家を建てて住んでいましたが、そこでとても美しい女の人に出会いました。ニニギノミコトは、その美しい姫(コノハナサクヤヒメ)と結婚したいと思い、姫の父親にお願いしました。父親は「姫を嫁に欲しいのなら、姉(イワナガヒメ)の方も一緒にもらってくれ。」といって二人の姫をくれました。ところが、ニニギノミコトは美人ではないお姉さんを「いらない。」と家に返してしまいました。返された姫は大変腹をたてて「神様の子も人の子も、生きているものは必ず死んでしまうようにしてやる。」と呪いをかけました。

3.火の中の出産

さて、ニニギノミコトと結婚したコノハナサクヤヒメのお腹には赤ちゃんができました。しかしニニギノミコトがそのことを喜ばなかったので、コノハナサクヤヒメはとても悲しんで、「この赤ちゃんが本当にあなたの子ならきっと生き残るでしょう。」といって自分の部屋に火をつけてしまいました。  メラメラと燃える火の中で生まれてきたのが、ホノスソリノミコト(ウミサチヒコ)・ヒコホホデミノミコト(ヤマサチヒコ)・ホノアカリノミコトの三人です。
引用:宮崎県 「民話と伝承」

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【日本神話】3.出雲神話5/5 オオクニヌシの国譲り -葦原中国平定-

『古事記』オオクニヌシの国譲り

アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だ」とした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。

アメノオシホミミの派遣

アマテラスは、「葦原中国は私の子のアメノオシホミミが治めるべき国だ」と言い、アメノオシホミミに天降りを命じた。しかし、アメノオシホミミは天の浮橋に立って下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしい状態で、とても手に負えない」と高天原に上ってきて、アマテラスに報告した。

『古事記』では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、物実の持ち主であるアマテラスの子としている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた。

葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる。「オシホ(忍穂)」は多くの稲穂の意で、稲穂の神であることを示す。

『古事記』では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
『日本書紀』では天忍穂耳命、『先代旧事本紀』では正哉吾勝々速日天押穂耳尊
富田八幡宮/勝日神社(島根県安来市)

アメノホヒの派遣

タカミムスヒとアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。オモイカネと八百万の神が相談して「アメノホヒを大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。タカミムスヒとアマテラスはアメノホヒに大国主の元へ行くよう命じた。しかし、アメノホヒは大国主の家来になってしまい、三年たっても高天原に戻って来なかった。

天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書く。

アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。

名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、「火日」の意味として太陽神とする説がある。

農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されており

能義神社(出雲四大神である野城大神と呼ばれる)など
島根県安来市能義町366
式内社 旧県社
天穗日命(アメノホヒノミコト)
大己貴命,事代主命(コトシロヌシノミコト)
誉田別命,息長足姫命,経津主命,國常立命,國狹土命
伊弉冉命,玉依姫命,順徳天皇,神皇魂命,惶根命

アメノワカヒコの派遣

タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「アメノワカヒコを遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカヒコに天之麻古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わした。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘であるシタテルヒメと結婚し、自分が葦原中国の王になってやろうと考えて八年たっても高天原に戻らなかった。

アマテラスとタカムスヒがまた八百万の神々に、アメノワカヒコが長く留まって戻ってこないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々とオモイカネは「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を遣わすべき」と答えたので、天つ神は、ナキメに、アメノワカヒコに葦原中ッ国に遣わしたのは、其の国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故八年経ても帰ってこないのかを、聞くように命令した。ナキメは天より下って、アメノワカヒコの家の木にとまり理由を問うと、アメノサグメが「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ」とアメノワカヒコをそそのかした。アメノワカヒコはタカムスヒから与えられた弓矢でナキメの胸を射抜き、その矢は高天原のタカムスヒの所まで飛んで行った。

タカムスヒはその矢に血が付いていたので、この矢はアメノワカヒコに与えた矢であると諸神に示して、「アメノワカヒコの命に別状無くて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカヒコに当たるな。もしアメノワカヒコに邪心があるのなら、この矢に当たれ」と言って、矢を下界に投げ返した。矢はアメノワカヒコの胸を射抜き、アメノワカヒコは死んでしまった。ナキメも高天原へ帰ってこなかった。

名前の「ワカヒコ」は若い男の意味である。これが神名ではなく普通名詞だったため、「神」「命」「尊」の尊称が付かないとする説がある。また、天津神に反逆したためであるとする説もある。

アメノワカヒコ(天若日子、天稚彦)

シタテルヒメとの恋に溺れて使命を放棄しその罪によって亡くなるという悲劇的かつ反逆的な神として、民間では人気があった。平安時代の『宇津保物語』、『狭衣物語』などでは天若御子の名で、室町時代の『御伽草子』では天稚彦の名で登場し、いずれも美男子として描かれている。

アメノワカヒコを唆したアメノサグメが「アマノジャク」の元となったとする説があるが、アメノワカヒコの「天若」が「アマノジャク」とも読めることから、天若日子がアマノジャクだとする説もある。

穀物神として安孫子神社(滋賀県愛知郡秦荘町)などに祀られているが、祀る神社は少ない

アメノワカヒコの葬儀

葦原中国を平定するに当たって、遣わされたアメノホヒが3年たっても戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘シタテルヒメと結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこでアマテラスとタカミムスビは雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いたアメノサグメが、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに進め、アメノワカヒコは遣された時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた。その矢は高天原のタカミムスビの元まで飛んで行った。タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、アメノワカヒコは死んでしまった。

アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父アマツクニタマや母が聞いて、下界に降りて泣き悲しみ喪屋をつくった。アヂシキタカヒコネが弔いに訪れた時、アヂシキタカヒコネがアメノワカヒコによく似ていたため、アメノワカヒコの父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言って抱きついた。するとアヂシキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山である。アヂシキタカヒコネの妹のタカヒメは、歌を詠んだ。

タケミカヅチの派遣

アマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、オモイカネと八百万の神々は、「イツノオハバリか、その子のタケミカヅチを遣わすべき」と答えた。アメノオハバリは「タケミカヅチを遣わすべき」と答えたので、タケミカヅチにアメノトリブネを副えて葦原中国に遣わした。

コトシロヌシの服従

タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきであるとアマテラス大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主は、自分が答える前に息子の事代主に訊ねるようにと言った。事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまった。

『古事記』では建御雷之男神・建御雷神
『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神など
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)
佐志武神社(さしむじんじゃ)
島根県出雲市湖陵町差海891
式内社 建御雷神、経津主神

日本書紀によれば、「高天原から葦原中国を平定するため、経津主神(ふっつぬしのかみ)と武壅槌神(たけみかずちのかみ)を遣わされた」とあり、この二神が降臨されたのがこの地であったとされています。

タケミナカタの服従

タケミカヅチが「コトシロヌシはああ言ったが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子のタケミナカタにも訊くよう言った。そうしている間にタケミナカタがやって来て、「ここでヒソヒソ話をしているのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と言ってタケミカヅチの手を掴んだ。すると、タケミカヅチは手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆にタケミカヅチがタケミナカタの手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、タケミナカタは逃げ出した。タケミカヅチはタケミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。タケミナカタはもう逃げきれないと思い、「この地から出ないし、オオクニヌシやコトシロヌシが言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。

建御名方神(たけみなかたのかみ)

建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神の一柱に数えられている。

出自について記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。妻は八坂刀売神とされている。

建御名方神は神(みわ)氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ保科氏など諏訪神党の氏神でもある。

諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られている。

[考証]

葦原中国平定の記述は、ヤマト王権による国家統一の過程が元になったものと考えられている。記紀の説話では出雲国が舞台となっているが、他の国でもヤマト王権への何らかの形での「国譲り」が行われたものと思われる。記紀で出雲が国譲りの舞台として書かれているのは、出雲が最後に残った勢力で、出雲の平定により一応の国家統一が達成されたと考えられたためとされている。 葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)は、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける日本神話の説話である。国譲り(くにゆずり)ともいう。

2009/09/06