【丹国の歴史】(38) 丹後国 与謝郡(よさぐん)

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与謝郡(よさぐん)・加佐郡
与謝郡式内大社
与謝郡 籠神社 京都府宮津市
大虫神社 京都府与謝郡与謝野町
小虫神社 京都府与謝郡与謝野町
加佐郡 大川神社 舞鶴市大川

7世紀に丹波国の与射評として設置され、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)では評が郡になり、713年に丹後国が設置されると加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡となります。与謝郡には、宮津郷、日置郷、拝師郷、物部郷、山田郷、謁叡郷、神戸郷によって構成されました。地元では「よざ」と発音されることが多いようです。与謝郡は、京都府最北端にある経ヶ岬から舟屋で有名な伊根町、日本三景天橋立、丹後一宮籠(この)神社や国府・国分寺が置かれ、宮津湾に野田川流域に古墳が多く築かれた加悦(かや)までの南北に続く、古くから丹後地方の中心的な地域です。

野田川の古墳

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加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。

蛭子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

この古墳が集中している背後の山が大江山であり、山麓から稜線を登って行けば「鬼の岩屋」と伝えられる岩窟があります。ここから見下ろせば、それぞれの古墳群が一望のもとにあり、「オニ」退治の伝承を考え、大きな力を持った豪族の存在と重ね合わせると、ヤマト王朝と対峙した!?この地の古代の勢力の大きさが彷彿として浮かんでくるようです。

2000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。

明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

加悦町教育委員会では「この時代に、すでに強大な権力を持つ王が丹後地方にいた証」と話していました。弥生時代後期後半の岩滝町にある大風呂南墳墓、峰山町の赤坂今井墳墓、古墳時代前期後半の蛭子山古墳などの大型墳墓や古墳に代表される古代丹後王国の首長権力の出現が、弥生時代中期後半までさかのぼり、約500年間の長期にわたる繁栄が見えてきました。日吉ケ丘遺跡は古代丹後王国の謎を紐解く鍵が秘められているともいえます。

加悦町日吉ケ丘墳墓跡の墳墓は、この地域の支配者の墓とみられ、新聞紙には「弥生中期最大級の墳墓、丹後王国のルーツ見えた」という活字の見出しが踊りました。(のちの)丹波地方などにも影響力を持った独立王権「丹後王国」の可能性を示す重要な遺跡とされ、専門家も注目しています。組み合わせ式木棺の跡から我が国最多の真っ赤な朱と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土しています。

付近には弥生時代後期末頃から古墳時代前期中頃(2~4世紀)に造られた総数40基の墳墓群があります。加悦町古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)として整備されています。

加悦町古墳公園にほど近い与謝野町温江には、日本海側最古の大型前方後円墳として国の史跡に指定されている白米山(しらげやま)古墳があります。出土した土器から古墳時代前期中葉(4世紀中頃)のころ築造された墓であるとされています。丹後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が野田川を中心に存在したとする説すらあります。

野田川下流域にある与謝郡岩滝町大風呂南墳墓(国重要文化財)は、弥生時代後期(200年ごろ)に丘陵の中腹に築造されたとみられる2基の台状墓からなり、その1号墓からはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。また、同時に鉄剣11本(同時代の一つの墓からの出土例としては全国最多)銅釧13個などの副葬品も多数出土し、弥生時代の大型武器の副葬として最大の量であり、当時、手に入れにくいものとされていた鉄製武器を大量に保持していた大きな力を持った権力者、軍事的統率者が埋葬された墓と推定されます。

弥生時代前期の出土品の中に面白い遺物があります。竹野川の河口右岸の砂丘上にある竹野(たかの)遺跡から出土した土笛(陶けん)です。6つの穴が開いた楽器で、尺八あるいはオカリナのような音がするという。この遺物は渡来系集団が弥生文化を島根、鳥取を経て日本海ルートで伝えた証だそうです。野田川が注ぐ天橋立の内海を阿蘇海というが、古代にはもっと加悦谷の奥まで入り込んいて、この付近は港に陸揚げされた西国(中国地方の)や越の国(越前から越後)、あるいは朝鮮半島からの物資を丹波を抜けて畿内へ輸送する交易ルートの要衝ではなかったでしょうか。日本海から大和に通じる最短ルートだからだ。さらに言うならば、カヤ(加悦):伽耶とかシラゲヤマ(白米山):新羅という地名自体が、当時の朝鮮半島との関係を示唆しているようにも思えます。

弥生人はウルトラマン?
与謝野・温江遺跡で人面付き土器
京都新聞 2月26日/2009


弥生人の顔を模した人面付き土器(京都府与謝野町)

京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、与謝野町温江の温江遺跡で弥生時代前期(紀元前4世紀)の「人面付き土器」が出土したと発表した。人の顔を写実的にかたどり、とさかのような頭は一見、ウルトラマンのよう。同センターは「弥生人の顔や当時の習俗を示す貴重な資料」としている。

土器は、弥生前期の集落を囲む溝跡(幅約2メートル、深さ1・2メートル)から、つぼやかめの破片とともに出土した。

顔の長さ、幅ともに7・6センチ。切れ長の目や筋の通った鼻が特徴的で、見る角度によって表情が変わる。

後頭部にくしで結ったまげがあり、その上にかんざしのようなものを刺していたと見られる穴もあった。両耳にも耳飾りを通していたような穴が開いており、同センターは「土器には農耕祭祀で使う特別な道具を入れた可能性が高い」と推測している。

土器は3月15日まで、同町立古墳公園はにわ資料館で公開する。(3月13日偶然に公開中で見てきました。)

設楽博己・駒澤大教授(日本考古学)の話

髪型は、先祖の住む世界から米を運び、豊作をもたらす使いの鳥の「とさか」を表現していると思われ、儀式で鳥にふんして踊る人の顔を表しているのではないか。

加佐郡(かさぐん)

旧丹後國加佐郡は、おおむね現在の京都府舞鶴市と京都府福知山市大江町、宮津市由良の範囲です。この地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、加佐郡は丹国の領土に入っていました。7世紀に丹波国に属する加佐評として建てられ、713年に丹後国が分けられるとこれに属しました。平安時代と室町時代には加佐郡に丹後の国府が置かれていました。

古代丹後地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(あめのほあかり)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(あまべ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代丹後の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに、この開係をうかびあがらせました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

幻の大地「凡海郷(おおしあま)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)  この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、加佐郡内に実在した郷として名があり、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

海部系図は、何をかたるのか

海部系図のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名、大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。

若狭湾(わかさわん)

若狭湾は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾です。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬(きょうがみさき)を直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km2の面積を有します。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴です。

湾内には敦賀湾や美浜湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原があります。その風光明媚な地形は1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、また1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定されていましたが、2007年8月3日に若狭湾国定公園のうち由良川以西が分離独立し、大江山などを加えて新たに丹後天橋立大江山国定公園となり、3つの国定公園を有することになりました。

若狭湾に点在する港は古来より良港でしかも京都にも近いため、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地(いわゆる鯖街道)とされてきました。日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、また舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置しました。現在の舞鶴

■舞鶴の古墳

舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。

■大川神社(おおかわじんじゃ)

京都府舞鶴市
大川神社は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。
主神 保食神(うけもちのかみ)
相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)
大川神社は名神祭に朝廷からあしぎぬ(絹の布)や綿、木綿などを贈られた加佐郡唯一の神社で、老人嶋神社から祭神を移したという伝承をもっています。

社伝によれば、「顕宗天皇乙丑年(485年)に宮柱を立て鎮祭、神位は貞観元年(859年)に従五位、同13年(861年)には正五位下に昇進した」とある。延喜式神名帳においては名神大社に列せられ、また六国史所載の神社である。近世に至り、田辺藩主細川氏の保護を受けた。 1872年(明治5年)に郷社、1919年(大正8年)に府社に列せられた。 五穀豊穣、養蚕および病除、安産の守護神として近隣に知られ、北陸や関西地方からの参拝者も多い。

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