三大杜氏 但馬杜氏(たじまとうじ)

酒のメッカ、灘五郷をかかえる兵庫県は、全国的に有名な最高級酒米「山田錦」をはじめとする酒米どころです。また丹波杜氏、但馬杜氏という酒の二大技能集団があります。

丹波杜氏は灘に近いので灘では丹波杜氏がほとんどです。
南部杜氏、新潟の越後杜氏、丹波杜氏と並んで「日本四大杜氏」(人数的には丹波杜氏の代わりに能登杜氏で四大杜氏とも呼ばれる)といわれる但馬杜氏は、南部、越後両杜氏組合に次いで全国で3番目の規模を誇ります。主に伏見などの近畿一円、中国、四国、東海地方で活躍しています。但馬人気質であるねばり強さ、山廃、吟醸等あらゆる製法を器用にこなし、毎年新酒鑑評会において優秀な成績を上げています。但馬杜氏は但馬牛と夢千代日記で知られ、日本一の湯村温泉がある雪深い美方郡が中心で、その半数は温泉町が占めています。

県内の杜氏組合は、丹波、但馬、南但の3団体。丹波ではメーカーに籍を置く「社員杜氏」が増え、40人中12人を占める。一方、但馬は93人全員が季節限定。2004年、城崎郡の組合は但馬杜氏組合の傘下に入り、出石郡の組合は解散した。(神戸新聞)残りは村岡町、美方町、浜坂町の順になると思います。(温泉町以外は正確なデータがないので、検索してわかる範囲を下記の杜氏一覧表にしてみました)

春から秋までは農家に従事して、毎年米の刈り入れが終わる10月に蔵入りし、翌年の3月まで約6~7ヶ月の間蔵元で寝泊まりして行われます。毎年但馬杜氏組合などで相互に研鑽を高め合いながら、良い酒を造ろうとする心意気が日本酒の伝統文化を支えています。しかしながら全国的に高齢化が進み、30年前には300名以上いた杜氏(親父、おやっさんと呼ばれる)の数も200名を切るまでに減ってしまいました。

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豊岡杞柳細工と豊岡かばん

籐バスケット【大正10年頃】豊岡鞄協会ページ

杞柳細工は、但馬の地で生まれ、但馬の風土に育まれて今日に至った伝統ある地場産業です。行李柳(コリヤナギ)を材料にし、強靱でしなやかな風合い、柳の持つ柔らかさと粘りを生かしながら、杞柳細工は、職人の手によってひとつひとつ編み上げていきます。伝統の技と人のぬくもりを感じさせてくれます。飯ごおり、バスケット、買い物かご、マガジンラック、果物かご、花篭など種類も多く、素朴さと上品さで根強い人気があります。柳行李、小行李、柳・籐籠の三部門が国の伝統的工芸品に指定されています。

起源は西暦27年、日本に帰化し但馬の国を開いたといわれる、新羅国の王子天日槍命(あめのひぼこのみこと)が杞柳製造技術が伝えられたとの伝承があり、奈良・正倉院の「柳筥」は豊岡から献上されたものであるといわれています(実際には当時、新羅はまだ存在していないので百済か伽耶だ)。
正親町天皇時代にも、垂柳ではあるが、「絲を垂すること一丈にあまれり、此の種養父、気多に多し」とあり「京都には、六角、堀河、ことに名高きは正親町殿の別館の柳なり。これを一年天覧を賜る」とあります。また「一種行李柳いうものであり、一根数茎を生し、亭々として枝なし、恰もメドキノアツマリ生きるがごとし。高きものは、7~8尺にすぎず、短きものは、2~3尺、土人刈りて水に浸し、皮をはぎ、これを編み、大小の器となる」と昔の人は言っています。

このように、既に豊岡でも古来より作っていたことが判ります。また、1473年の、「応仁記」には、「九日市場」が開かれ、商品として売買されている記述があり、この時期から、おそらく地場産業として家内手工業的な杞柳産業に発展したことが予想されます。杞柳製品の中で、現在のような柳行李は、豊岡市森津の人・成田広吉が江戸で武家奉公しているとき門前にあった柳の木の細枝を用いて飯行李を作った経験を生かし、帰郷後、荒れ地を開いて柳を栽培し、柳行李を製造したのが最初と言われています。

兵庫県の豊岡盆地は日本海岸から15キロの内陸にありながら、海面との高低差は約2メートルにすぎません。このため但馬地方を北流する円山川は、豊岡盆地に入って淀み、蛇行して流れ、荒原(あわら)と呼ばれる湿地帯を随所に形成しましました。この荒原地帯には杞柳の原料となる「コウリヤナギ」が多く自生していましました。

行李を編む時に使用する麻糸は、但馬麻苧として全国に知られて多く生産されており、行李に使う縁竹も多くあった。杞柳材料が地元で容易に手に入った当地方は、冬期には積雪で農業等ができず、また耕地が狭小で新田開発の余地が少ないことなどの自然制約によって生み出された余剰労働力がありましました。この農民余剰労働力が、副業として生計の助けになる杞柳製品作りが盛んになりましました。
「行李」は本来は中国語で、他国への「使者」を指したのが、いつの間にか、「旅人」や「旅」を指すようになり、さらには、「旅の荷物」のことを言うようになったようです。現代中国語の『行李』はその「旅の荷物」義を引き継いだものです。

一方、日本語の「行李」もほぼこの変遷をたどったようですが、日本語ではさらに、「旅の荷物を入れる箱」に転じましました。行李(こうり)とは、竹や柳、籐などを編んでつくられた軽くて通気性がよく、蓋付きの箱で、旅行用の荷物入れや衣類の収納に用いられた道具。半舁(はんがい)ともいいます。飛脚行李(飛脚が郵便物を入れて運んだもの)、 薬屋行李(薬品類の行商に用いられたもの)、弁当行李などもありましました。

もともと、大日本帝国陸軍の「行李」は、戦場に携行する弾薬、糧秣、器具その他を運ぶ追随部隊の名称。大行李(だいこうり)と小行李(しょうこうり)とがありましました。

円山川の荒れ地に自生する「コリヤナギ」で籠を編むことから始まり江戸時代、京極伊勢守高盛が豊岡に地を移してから柳の栽培と加工技術を保護し、販売にも力を入れたため産業として成立し、全国に豊岡の柳ごおりの名を広めましました。
また、杞柳産業の発展には、江戸時代に京極藩の保護奨励によるところが大きいです。
1668年、京極藩伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まりとされています。その後、京極藩は三万石から一万五千石に減知となり、藩財政が困窮しその一助にと、1763年に「触書八ヶ条」を布告し、杞柳製品の専売をはかりましました。取引の活発化に伴い、大阪問屋との間に軋轢が生じ、積極的に藩財政の立て直しを図るため、1822年に地元で骨柳問屋の設立を許し、上方筋への直売りを禁じて、柳行李の専売性を強化した、さらに、骨柳師に対して、縁かけ・藤引きなどの一切の杞柳製法の秘密保持、原材料jの移出禁止を行った。この方針はやがて1823年の産物会所設立に発展していきましました。

宵田町に設立されたこの産物会所は、現在の組合指導的な役割を持ち、柳行李の生産者、商人達への資金援助、原料の斡旋、製造販売指導などを行っていましました。

一方、播州印南部魚崎村網干屋与衛地2名柳行李播州陸出運送の特権を与えて、大阪までの運送にあたらせ、荷物の分散、個数の減少も防ぎましました。

1829年、独自の立場で新たな市場開発を狙い、物産会所より分離した大阪登骨柳物産会所を設けましました。これは藩政改革の一環として、大阪市場依存を排して全国の消費地と直結をはかったものと思われます。その後、中町の船屋良平が、骨柳引合いのため、参勤上府に従い、江戸で市場の開拓に従事したり、幕末には、大骨柳屋・飯骨柳屋・仲買・縁掛屋などの生産・販売機構も整い、全国的名声の基礎を築きましました。

明治4年頃の行李の生産高は約18万個で、その内飯行李が全体の75%を占め、次が荷行李の17%あまり、以下帳行李、文庫、上下行李の順になっていましました。

豊岡は東京・大阪等の大消費地から遠く離れており、製品の出荷に大きなハンディーがありましました。当時、陸上輸送手段の駄馬賃は割り高でしたが、柳行李は容量は大きいが軽いため、また、大きな行李の中にだんだんと小さい行李をつめ込む入子方式が可能だったので割安につき、遠隔地にあるにも関わらず、一度に大量な製品を出荷することを可能にしましました。

柳行李は、通気性・容量性・耐久性に優れており、生活の向上に伴い衣料などの保存容器としての実用性が高く評価されましました。さらに、交通手段の発達とともに、人の往来が頻繁となり、網掛けをすれば直ちに運搬道具ともなる柳行李の運搬性の利点が認められ、庶民的共感を呼び需要が増大していきましました。

皇太子殿下の徳仁親王(浩宮様)が学習院初等科に入園されたとき、入園をお祝いして、兵庫県の豊岡市が柳ごおりのバスケットをお贈りしたことがありますが、このバスケットを非常にお気に召され、いつもご愛用されたとのことです。当時の皇太子殿下の徳仁親王のご愛称から「なるちゃんバッグ」と呼ばれましました。2001年12月1日は皇太子妃の雅子さまに女のお子様がお生まれになった日として、日本全国がお祝い一色に包まれたことは記憶に新しいところです。皇太子殿下のお子さまのご誕生に合わせて、同じように雅子様にお贈りしましました。親子2代でご使用されることになり、大変名誉なことですと関係者は語っています。

かばん産業のおこり

兵庫県の豊岡市は、但馬柳行李(こうり)の産地として知られており、杞柳製品の生産量としては全国一で、鞄の生産も全国の6-7割を占めています。

明治14年、八木長衛門が第2回内国勧業博覧会に2尺3入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したと伝えられており、また明治35年の第5回内国勧業博覧会出典目録には遠藤嘉吉朗の「旅行鞄」が見られる。

この3本革バンド締めの柳行李は、外観はトランクと同じであったが、トランクと呼ばれずに柳行李と呼ばれていた。このことは、これが従来の杞柳製品の改良品で、一般杞柳製品技術が応用されたものであり、また、柳行李で名高い豊岡で作られたことが、鞄と呼ばれず行李と呼ばれた原因と言われています。

交通手段の発達にとまなう内外旅行者の増加により、携帯運搬用の容器の需要が起こり、それに応じるさまざまな工夫発明がなされた。明治39年、服部清三郎の「鞄型柳行李」、明治42年、宇川安蔵のドイツ製品を模倣した「バスケット籠」等の創案が相次いだ。「バスケット籠」は底編みをし、立てりを差し、引き籐を巻き上げて合い口を付けてまとめた籠と思われます。この携帯に便利な鞄型、バスケット型の小型篭の多くは輸出されました。

杞柳産業を基盤に大正末期から昭和にかけてファイバー鞄が製造され始め、柳行李の販売網に乗って急速に伸び、昭和10年頃には鞄(かばん)産業は当地の主産業となりましました。生産高は日本において8割を占め 「日本一」 の伝統産業となっています。
昭和11年に開催されたベルリンオリンピックの選手団のかばんとして、豊岡のファイバー鞄が採用されるなど、この頃には、「ファイバー鞄」が、豊岡かばんの主流を占めるようになった。
引用-豊岡鞄協会ページ、その他

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「但馬牛」の系統の基礎となった「周助ツル」

前田 周助
寛政9年生まれ。
兵庫県美方郡香美町小代区水間に生まれました。
但馬牛の改良に人生をかけ、優良な系統牛「周助ツル」を作り出した。今の「但馬牛」の系統の基礎となった。

但馬牛の改良に人生をかけ、優良な系統牛「周助ツル」を作り出した。今の「但馬牛」の系統の基礎となりました。前田周助の幼年は、「牛飼い坊主」といわれたほどの牛好きでした。長じてますます牛を愛し、鑑識力に優れ、資財をなげうって、数々の良牛を買い求め続けました。  彼の評判を伝え聞いた兵庫県養父市吉井に住む大博労(だいばくろう)孫左衛門が、はるばる前田家をたずね、その牛を一目見て優秀なのに驚きました。孫左衛門の啓発と援助によって、当時但馬唯一の牛市場であった養父市場に進出しました。周助の取り扱う牛は値段が高いのにかかわらず、飛ぶように売れたので、周助の名とともに小代牛(おじろぎゅう)の名声はますます高くなりました。

弘化年間、村岡藩主の助力を得て、村岡に臨時の牛市場を開設しました。小代牛の基礎と販路の見通しをつけた周助は、いよいよ念願とする良牛の固定化に向かって動き出しました。しかし、これが至難の業で系統牛となる良い牛の中の良い牛を探し求めて数年間、東へ西へと走り回りました。その間に多額の借金をつくり、家族から見放されてもひるみませんでした。

100年に一度かもしれないという良牛、香美町村岡区の三歳メス牛を手に入れ、飼料の吟味から一切の手入れ、特に繁殖には長年の経験を結集して努力した結果、年々続いて良い子牛を産み、遺伝力も優れており、ここに「周助ツル」の開祖ができあがりました。

また、但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。

但馬牛(たじまうし)

但馬牛(たじまうし)は、兵庫県産の和牛で黒毛和種の一種。肉質が良く、様々な銘柄牛の素牛や種雄牛として知られています。別名として、但馬牛(たじまぎゅう)や、但馬ビーフと呼ばれることもあります。

古来より但馬地方で飼われており、古事記には「天日槍(あめのひぼこ)が朝鮮から牛を伴って日本に渡来し、但馬出石に住みついた」と記されています。続日本紀では「耕運、輓運、食用に適する」と記され「国牛十図」にも但馬牛の優れた体型、特徴、性質が記されています。戦国時代、豊臣秀吉が大阪城築城の際にも、優れた役能力に「1日士分」を与え誉め讃えたといわれています。

江戸時代以前は、主に田畑を耕したり、輸送の役牛として用いられていました。長命連産で繁殖力が強いため、但馬では生産がさかんに行われており、養父市場(現・養父市)などに牛市が立ち、畿内やその周辺へと取引されていました。小型で力強く、飼料の利用性がよい但馬牛は人気が高かったようです。養父神社は農業の神として知られ、延喜式には養父市場では五十猛命を牛取引の神様とするとあり、神の前で取引・取り決めをするのは古来からの風習で、決して裏切らない事の証でした。五十猛命の父神が素盞嗚尊(スサノオノミコト)とされ牛頭天王とされています。
但馬牛の特徴
それは、優れた肉質と、その強力な遺伝力にあります。
1.資質が抜群によいこと。
毛はやわらかく密生し、骨細で、皮は薄く弾力とゆとりがあって、品位に富み、体のしまりがよい。
2.遺伝力が非常に強いこと。
このため「但馬牛」は全国の和牛改良に広く活用されています。
3.肉質、肉の歩留まりがよいこと。
肉の味が良く、骨が細く、皮下脂肪が少ない。
4.長命連産で飼料の利用性がよいこと。
山野草を好み、古来から「但馬牛は山で育て、草で飼う」といわれています。
明治時代に牛肉を食べる文化が広まると、神戸ビーフとして注目されるようになりました。神戸ビーフの名は、神戸の居留地に住む外国人たちが神戸で手に入れた牛が非常においしかったからとも、横浜などの居留地の外国人たちが生産量の多い関西方面から入手した牛が神戸を経由していたためとも言われていますが、いずれの場合も但馬牛とされています。
明治時代には、品種改良のために、イギリス原産の短角種デボン種、スイス原産のブラウンスイス種などの外国種との雑種生産が行われましたが、肉質悪化、使役能力の低下などが見られるようになったため、雑種交配は短期間で中止されました。

1898年(明治31年)には戸籍にあたる牛籍簿で血統の管理が行われるようになり、1911年(明治44年)以降は外国種の血統の入った牛が排除されました。また、他地域の品種との交配も行わず、限られた雄牛の精子のみを受精させることで血統の純化、改良が進められ、蔓(つる)と呼ばれる系統がつくられています。あつた蔓、ふき蔓、よし蔓の3つの代表的な蔓牛があります。

但馬牛は、資質・肉質が良いため、松阪牛(三重県)、神戸ビーフ(兵庫県)、近江牛(滋賀県)の素牛となっています。また、佐賀牛(佐賀県)、前沢牛(岩手県)、飛騨牛(岐阜県)などのように、但馬牛の血統を入れることで牛の品種改良が行われていることも多いのです。

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日本の技術輸出の第1号 上垣 守国 「養蚕秘録」

養父市蔵垣に生まれた上垣守国は、当時、粗悪な繭しか生産できなかった三丹地方の養蚕の品質改良に取り組み、養蚕技術を広める。著書「養蚕秘録」は翻訳され、日本の技術輸出の第1号となる。

1770年(明和7年)、若干18歳の時に奥州の福島に赴き、蚕種(蚕の卵)を購入し研究したことに始まる。やがて守国は、増やした蚕種三丹地方に広め、餌の桑園の技術指導なども熱心に実行し、養蚕業の隆盛に大きな功績を残した。

長年の養蚕研究の集大成として48歳の時に発行したのが、「養蚕秘録」(全3巻)である。翌年には京都、大阪、江戸でも発行され、その技術は全国に広まった。オランダの王室通訳官であったホフマンによって、フランス語に訳され、ヨーロッパの養蚕技術にも影響を与えたとされ、伝染病で壊滅状態のフランス養蚕を救った。「日本の技術輸出第1号」ともいわれている。

正垣半兵衛

養父市大屋町
新しい蚕種を但馬各地に普及。
小倉寛一郎
養父市大屋町
養蚕製糸業の近代化に努力。大屋町で明治期に工場開設。
養蚕業は三丹地方にグンゼなど、群馬、長野岡谷と並ぶ一大製糸産業地域となり、近代化殖産事業として対米輸出始動の役割を果たした。

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